第10話

(十)

 寺子屋師範代としての家庭訪問は、大体において歓迎された。しかしそれは左ノ介の思いに賛同してと云うより、それぞれの家の者と左ノ介の父親が顔身知りであったからだ。

「ああ、御師さんは藤村様の御子息でありましたか。道理で…」

 左ノ介の出自が知れると、先程まで怪訝そうだった商家の店子までが相好を崩した。

「お父上様には、普段からいろいろとお声を掛けて頂いております」

 最後は主までが頭を下げる次第。こちらは寺子の家での様子とか、今後の成り行きなどを話したいのだが、むしろ父親に関する世間話が盛り上がると、どうしたものだかなと左ノ介は苦笑いするしかない。

 それにしても…。左ノ介は思う。父上があれほど城下の者と知己があるとはつゆも知らなかった。屋敷でも日中のことはほとんど口にしないので、てっきり城内での仕事と屋敷との二点移動が、父の細く長い藩士生活の全て、そう思っていた。

「さすが御子息、父親譲りの御卓見ですな」

 そんな事まで言う者もいた。

 一方、子どもたちの学業については、意に反して親たちの要求は少なかった。もっとも稜斬先生の時は素読と武芸の修練が主だったのに対し、左ノ介は算術や漢字まで含めた手習いをするので、むしろ有難がる親が多かった。

 帰り道、それでも左ノ介はもやもやした気持ちを抱えて家路に着く。考えてみれば、一度顔を出したくらいで、どれだけ腹を割った話ができると云うのだろう。そもそも自分はこれからこの仕事を続けるか否か、それさえもはっきりしていないのだ。行く先々での妙に明け透けな反応は、そんな身の振りも定まらぬ青二才に向けての、憐憫の表れに過ぎないのではないか…。左ノ介は暗がりの帰り道、何やら静かに打ちひしがれている。

 寺子屋では左ノ介が自分の家に来たことを、それぞれの子どもたちが賑やかに話題に挙げ、それにまた他の子が反応している。

「うちのところは先生、大きな饅頭を三つも食っていったぞ」

「おいらのところは焼き芋だ。とびきりでかい奴」

 どうやら無類の食いしん坊にされた左ノ介は、それでも何食わぬ顔をしながら作業を続ける。ふと安蔵兄弟の姿が目に入り、ゆっくりと近づき声を掛ける。

「安蔵、安吉。お前たちは大きくなったら何がしたい?」

 すると二人はひょいと顔を上げ、左ノ介を見る。その眼差しは逆に何かを問い返すように、真っ直ぐ左ノ介に向いている。

「良い田んぼを作る。強い米を育てる」

 やがて安吉がいつものように兄の答えを返す。

「そうか…」

 左ノ介はそれ以上答えられない。

 安蔵は算術の練習を再開する。安吉はひら仮名の練習を。

 左ノ介は誰かの言葉を思い出す。自分は父親とどこか似ているのだろうか?そしてまた、今度は子どもら全員を見渡す。この子らもそのうち大人になり、親になっていくのだろうか、と。

 やがて道端には彼岸花が咲き、空には白い雲が紗のように流れている。左ノ介はその日だいぶ早めに授業を切り上げ、安蔵・安吉兄弟と寺の門を出た。

「こうやっていると、まるで物見遊山に出掛けるみたいだな」

 その言葉に兄弟は何も応えず、しかしその様子にはそこはかとない高揚感が見て取れる。三人はしばらく口も開かず、ただ真っ直ぐに濃い色の山に向かって歩き続ける。

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