第14話:するだろうか普通、妹の髪の毛にキスしたり。

 お母さん……。

 その夜。本当に久しぶりに母親の夢を見た。

 家を出て、独り暮らしをしながら保険会社で働いていた頃も、母親の夢なんて見たことは無かったのに。


 母はいつも、男の人からもらったお金で着飾って、いろんな男の人と取っ替え引っ替え恋をしているような女の人だったけど、たまに失恋して帰ってくると、私に近所の老舗菓子店の一つ三百五十円ぐらいのケーキを買ってきて、私に食べさせながら、泣き言を言うクセがあった。


 私は、相変わらずどうしようもない女だなコイツ……と思いながら、ケーキにありつけることが嬉しくて、母の愚痴を聞いてあげていた。母との思い出で覚えていることと言えば、そのぐらいだ。


 静かに家の扉が開き、この家の主が帰ってきた。

 足音を忍ばせるようにして真っ直ぐに寝室へ入ってくる。


「セティ」

 ふわりとお酒の香りがする。


「セティ……」

 聞いたこともない、切なる甘さを含んだ声だった。


 フィドルさんの大きな身体の気配が、私のすぐ傍に近づいてきた。


 私は固く目をつむって寝た振りをした。

 私の身体と壁の間には、小さなアリーがいて、すやすやと寝息を立てている。


「よかった……。ちゃんと、居るね。うん、よかった……」

 ささやくような小さな声が私の耳に届く。

 心配でたまらなかったと言う声で、フィドルさんは言った。


 その手がそっと、寝た振りをする私の髪に触れる。

 髪に口付けているような気配がした。

 私はアンドリューにされているような、変な気持ちになってくる。


「お願いだよ、もう、どこにも行かないで。お願い。絶対に、ずっと、僕の傍に居て」

 囁くような声が、私の耳に触れる。


 私は息を詰めていた。

 身じろぎもできずにされるがままになっていた。

 どういうつもりなんだろうこの人は。

 とんでもないお兄さんだ。


 するだろうか普通、妹の髪の毛にキスしたり。

 さすがに度が過ぎているだろう。


 途轍とてつもなく長い時間、フィドルさんは黙って私の至近距離に居た。

 その長い長い時間、私は吸って、吐いて、吸って、吐いて……正常な呼吸をするのに苦労した。

 寝返りも打てなくて、じっとりと身体が汗ばんでくるような感じがしてくる。


 しばらくして、フィドルさんがそっと離れていく気配がしたので、私は心底ほっとした。


 こんな人と一つ屋根の下で一緒に暮らしていて、私、この先どうなってしまうのだろう。

 いつまでも理性が保てるとは限らない。

 やっぱり、アリシアの父親はフィドルさんなのだろうか……?


 その後、フィドルさんがいつものように床の上に横になり、安らかな寝息を立て始めても、私は一睡いっすいもできなかった。


 生計を立てられるようになったら、この家を出るか、部屋を増設した方がいいかも知れない。

 そうでもなければ、私はこの先何度こんな眠れない夜を過ごすことになることか。


 眠れないから、胸元からペンダントを取り出し、闇の中で、名前も知らない男に想いをせた。

 途端に、胸が締め付けられるような気持ちがいっぱいになってくる。この身体に、深く刻み付けられている恋心。


 人生に続きを与えてもらったこの世界で、私は、『恋をしたい』と、思っているのだろうか。

 前世での私の恋は本当に散々なものだった。

 恋だなんて呼べるような代物ではなかったのかもしれない。


 でも私はアンドリューに夢中だったし、心の底からアンドリューの身体が欲しいと思った。

 だから自分の持てるお金をすべて、そう、課金したんだ。

 あの恋に。


 もうあんな思いをするのはこりごりだけど、でもせっかくやり直しを許された新しい人生で、一度は本当に好きな人と結ばれたいような、そんな、相反する気持ちが、私の胸の中にはあった。

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