其の参
白い世界で打ちひしがれる蜥蜴の、穴が空いただけの小さな耳に悲鳴が届いた。
蜥蜴が驚いていると、襤褸家の床下から蛙が飛び出してきた。
その蛙を追い掛けて、長く、大きな、赫い赫い、血のような色の蛇が現れた。
蛇は蜥蜴の目の前で、逃げる蛙をペロリと飲み込んだ。
ぐねぐね蠢く膨らみが、喉から胴に向かってゆっくりと流れて行く。
胴に届いた膨らみはやがて動かなくなり、ただの膨らみとなった。
蜥蜴は、茫然とその光景を眺めていた。
蛇の目が蜥蜴に向いて、蜥蜴は身を竦めた。
ずるずると蛇は迫り、ゆっくりと大きく口を開く。
開かれた口の中の奥には、深い深い暗闇があった。
蛇の中の闇は、白い世界に怯える蜥蜴を惹きつけた。
あの暗がりに飛び込んでしまえば、もう何もかもに怯えなくても済むのだろうか。
そんな想いが小さな平べったい心の内に芽生え、蜥蜴は円らな小さな目を瞑った。
ペロリと頭から飲み込まれる、その時を待った。
赫い蛇は蜥蜴に齧り付いた。
蛇の口の中は温かだった。
腹に牙が喰い込んで痛みが奔った。
痛いのは嫌だったが、これがきっと最後の痛みだと思うと、蜥蜴は幸せな気持ちになった。
けれど、ふと気付いた。
もう、隼の背に乗れないな、と。
犬にも、栗鼠にも会えなくなる。
そして、白く眩しい世界でふわふわと揺蕩う、あの白い蝶を見詰めることも出来なくなるのだ。
蜥蜴は急に怖くなった。
蜥蜴は暴れた。
蛇の口の中で、必死に藻搔いた。
怖い。
怖い。
誰にも会えなくなるのが怖い。
誰に会う勇気は無くとも、誰にも会えなくなるのが怖い。
藻搔いて、藻搔いて、懸命に藻搔く蜥蜴は、どんどん蛇の腹に落ちてゆく。
ああ。
もう本当に、白い世界で輝く彼等に焦がれることさえ出来なくなるのか。
悲しみと後悔が、蜥蜴のちっぽけな身をいっぱいにした。
*
突然、蜥蜴は白い世界に放り出された。
ぽてんぽてんと、小さな身は何度か跳ねて地面に転がった。
吃驚した蜥蜴の目に、太陽の輝く青い空が映った。
円らな両目を何度か瞬いた。
呆気にとられていると、金色の隼が降り立った。
「無事で良かった」
隼は嬉しそうに笑った。
そうして、美しい金色の翼を広げて飛び立った。
高く、高く、どこまでも高く飛んで行った。
隼が飛び立った後、蜥蜴は鳶色の犬と山吹色の栗鼠が赫い蛇と泥に塗れて争っているのを見た。
栗鼠は素早く走って蛇の目を回し、犬は靭い前脚で蛇を叩く。蛇が犬を縛りあげ鎌首を擡げれば、栗鼠はその長い身を駆け上がり尖った歯で咬みついた。
蛇が叫ぶ。
「喰わせろ。足りないんだよっ。お前の暗い心を喰わせろ!」
血塗れでさらに赫くなった蛇が蜥蜴を睨んだ。
「自分を卑下してイジケて腐ったお前みたいなチンケな野郎はな、俺に喰われて世界から消えちまうのが一番良いんだよっ」
蛇の言葉に、蜥蜴はぎゅっと口を結んだ。
高く掲げた鎌首が真っ直ぐ蜥蜴に襲い掛かる。
ふわりと、花びらが舞った。
白い蝶が赫い蛇の目の前で、一心不乱に羽ばたいていた。
危ない。
止めるんだ。
頼りなげに舞う蝶に、蜥蜴は驚いた。
けれど、蝶は蛇に纏わりついて離れない。
行く手を遮られた蛇が苛立っているのが分かった。
蜥蜴は青褪めた。
蝶を助けようと、腹の痛みを忘れて地べたを必死に這った。
そこに。
金色の雷が落ちた。
赫い蛇は強い衝撃で地面に叩きつけられた。
隼は蛇を捉えたまま高く飛んで、見えなくなった。
栗鼠と犬が、わあわあ言いながら隼を追い掛けた。
見上げた空から蛙が降ってきて、蜥蜴と蝶の傍に落ちた。
蛇の腹から
べちょりと起き上がった蛙の両目が、凶暴な怒りを孕んで蜥蜴に向けられる。
「お前、あの蛇を招き入れたな! お前の所為で死にかけた。お前は儂を殺そうとした!」
そんなことはしていない!
「嘘を吐くな!」
蛙が蜥蜴を蹴飛ばそうとした時、白い蝶が二匹の間に飛び込んだ。
蛙の足が蝶に当たって、蝶ははらはらと、枯れ葉のように地面に舞い落ちた。
腹が立って、腹が減って、どうしようもなかった蛙は、汚い手で蝶を掴んだ。
大きな口を開けて蝶を丸呑みにしようとする蛙に、蜥蜴は必死に取り付いた。
叩き払われても、何度もしがみ付いた。
蝶も抗った。
必死に、懸命に、夢中になって抗い、二匹はたちまちボロボロになった。
蛙は乱暴に翅を掴んで蝶を振り回した。
白い翅が音を立てて裂け、蝶は悲鳴をあげた。
蜥蜴は飛び出し、放り出された蝶はその背中に落ちた。
「忌々しい。まとめて殺してやる!」
蛙は大きな石を掴み高くかかげた。
蜥蜴は咄嗟に蝶を身の下に庇う。
突然の暴風が、蜥蜴と蝶を吹き飛ばした。
土の上を、二匹はコロコロ転がる。
泥だらけになって起き上がった時、そこに蛙は居なかった。
蛙がいた場所には影が落ちていて、見上げると襤褸家の
大鷲はとても大きく、くすんだ金色の羽は隼に似ていながら、より重厚で静謐で、威厳に満ちていた。
足には蛙を攫み、鋭い鉤爪がその身に喰い込んで絶命の寸前だ。
空を見上げていた大鷲の深い青い瞳が、不意にこちらを見定めた。
蜥蜴は身体を強張らせた。
少しの間、蜥蜴を見詰めていたが、全てを見透かすように両目を細めた大鷲は、静かに、けれど瓏々と響く声で言う。
「生きよ。余は、誇り高く美しい其方を愛している」
たちまち、世界が変わった。
*
柔らかい風が吹き、足下には草が茂り花々が咲き誇った。
目の前で襤褸家の壁が崩れ落ち、真っ白な壁が現れた。
襤褸家は高い尖塔を持つ、大きな大きな城に変わっていた。
草むらから鳶色の犬が飛び出した。頭の上に山吹色の栗鼠を乗せている。
緑の葉をつけた木の枝には隼もいた。金色に輝く翼に菜の花の妖精がぴったりと寄り添っていた。
気が付くと、周りにいたのは彼等だけではなかった。
鹿も穴熊も狐も、蜜蜂も
大鷲は無言で両翼を広げた。
大きな翼は蜥蜴の目から、
大鷲が羽撃き飛び立つと、遮られた光が再び蜥蜴と傍らの蝶に降り注いだ。
眩しい。
だが、両目をきつく瞑った直後、優しい日陰が蜥蜴を覆った。
瞼を開くと、そこでは白い蝶が翅を広げて蜥蜴を光から守ってくれていた。
薄く白い翅を透かして、光は優しく蜥蜴を包んでいる。
蝶は光を背に、蜥蜴に微笑んでいた。
「眩しいのなら、私が翅で貴方を守ります」
蜥蜴はきょとんと蝶を見上げた。
「寒いのなら、犬に包まって温まりましょう。お腹が空いたのなら、虫が苦手な栗鼠のために団栗の中の虫を食べてあげて下さい。熱いのなら、隼に翼で扇いでもらいましょう」
……それじゃあ、隼だけ熱いままだ。
そう返すと、蝶は初めて気が付いたように両目を丸めて驚いた。
「金色の猫がいつもそうしていると言っていたから、つい」
蝶はくすくすと笑った。
それから少し考えて、
「それでは、みんな一緒に木陰でお昼寝をしましょう」
と言った。
蜥蜴は両目を瞬いた。
「みんな、蜥蜴が出てくるのを待っていたんだ」
木の枝から降り立った隼は嬉しそうに、本当に嬉しそうに言った。
振り返ると、犬も栗鼠も、みんながニコニコと嬉しそうだった。
「まだ、寒いですか?」
蜥蜴はふるふると頭を横に振った。
世界から寒さは消えていた。
「今も、熱いですか?」
蜥蜴は横に首を振った。
世界はいつの間にか、心地好い温かさに満たされていた。
「光は、痛いですか?」
蜥蜴は空を見上げた。
あんなにも眩しく痛かった光は、今は優しく蜥蜴を照らしていた。
「痛くない」
蜥蜴は答えた。
*
何年も前の事だ。
遊び疲れた蜥蜴が水を飲もうと泉に近付いた時、蛙が声をかけてきた。
蛙は蜥蜴を醜く気色が悪いと言った。
無視をしたが、水面に映った己の隣に蛙が並んだ時、気付いてしまったのだ。
自分と蛙がよく似ている事に。
華やかな隼と違い、自分は真っ黒だった。
ふわふわな犬と違い、自分は触れて心地好い身ではなかった。
戸惑う蜥蜴に蛙は言った。
『みんなお前を嫌っている。何故なら、お前は儂と同じく醜くて不気味だからだ。今まで仕方なく付き合っていただけだ。みんなお前を嫌っているのだ』
蜥蜴はそれを信じてしまった。
その日から、世界は凍えるように寒く、灼けるように熱く、眩むように白く、刺すように痛くなった。
自分を守るために、蜥蜴は襤褸家に逃げた。
襤褸家だけが自分を守る場所だった。
そこには隼も犬も訪れることは出来なかった。
蛙だけが身を滑り込ませ、蜥蜴に話しかけた。
その醜悪な性根を嫌悪しつつも、気付けば蛙に縋り、友の言葉を信じなくなっていた。
誰かが傍から離れてしまうのは怖かった。
独りは嫌なくせに、誰かと一緒にいるのが怖かった。
一緒にいるのが怖いくせに、誰かに傍に居て欲しかった。
そうして、自分から孤独を選んでしまった。
嫌われるくらいなら、最初から誰も居ないほうが良い。
誰も居ないのだから、誰も俺を置いて居なくならない、と。
*
「俺は、ここに居てもいいのか?」
「ええ」
「みんなの傍に居てもいいのか?」
「もちろんです」
「俺は醜い」
「いいえ。貴方はとても綺麗です」
「俺は」
蜥蜴は声を震わせた。
「俺は、陽の射すこの場所で、みんなと生きて行きたい」
蝶がそっと抱き締めてくれた。
隼も、犬も、栗鼠も、蜥蜴を抱き締めてくれた。
蝶の破れた翅を、蜥蜴は撫でた。
蝶は蜥蜴にお願い事をした。
「翅が治るまで、貴方の背中に乗せて下さい。翅が治ったら、一緒に色んなところに行きましょう?」
小さな両目から、大きな涙がボロボロと零れた。
蜥蜴は頷いた。
嬉しくて、嬉しくて、
涙を零しながら、笑顔で何度も頷いた。
蜥蜴の見た夢〜グルンステイン物語より〜
蜥蜴のみた夢〜グルンステイン物語より〜 Beco @koyukitochika
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