其の弐
蜥蜴は、今日も
溜息は白くふわりと宙に浮き、すぐに散って消えてしまう。
これで、何度目の白い世界だろう。
今日も空から冷たい綿が降ってきて、静かに蜥蜴の前に積もってゆく。
やがて冷たい綿は、越えるのが困難な高い壁になった。
蜥蜴はスルスルと四本の脚で地べたを這い、襤褸家の床下の真ん中へ、最も光の届かない暗く湿った場所へ逃げ込んだ。
外は嫌いだ。
白く、寒い。
けれど……。
蜥蜴はまた白い息を吐き、温かい巣穴の中に小さく丸く収まった。
もう、何日ほど食べていないだろうか。
世界が白くなると、食糧は姿を消す。
寒くて寒くて、みんな何処かに隠れて眠ってしまうからだ。
だから蜥蜴は動かない。
温かい土の中の巣穴で小さく丸くなっていれば腹が空かない事を、蜥蜴は知っていた。
それでも時々、蜥蜴は軒下から目も眩むような白く輝く外を見た。
光を受けてキラキラと煌めく世界を、美しいと思ったからだ。
いつか見た、あの蝶の白い翅に似ていると思ったのだ。
寒くて、眩しくて、何も無い、寂しい景色だ。
蜥蜴など、一歩でも踏み出してしまえばすぐに凍えて死んでしまう。
そんな恐ろしい世界だ。
それでも、美しい世界を見たかった。
白い蝶を忘れたくなかったから。
*
蜥蜴は今日も白くて眩しい世界を見る。
ふと、近くの木の枝に金色の隼がいる事に気が付いた。
隼は蜥蜴の友達だった事がある。
今でも、蜥蜴は隼が好きだった。
その美しい羽根に包まれた背に乗り、空も飛んだ。
その時の蜥蜴は光が好きだった。
何処までも高く高く、太陽に近付いた。
光は蜥蜴の小さな身体を温め、心を熱くしてくれた。
だが、今は駄目だ。
光は水分を奪い、喉を渇かし、この身を灼いてしまう事を知ってしまった。
何より、醜い姿を露わにしてしまう。
蜥蜴は悲しくなって俯いた。
「やっと、顔を見られた」
蜥蜴の小さな心臓が飛び跳ねた。
急いで床下へと、奥へ奥へ、光の届かない襤褸家の床下の真ん中へ走って逃げた。
そんな蜥蜴に、隼は白い凍える世界から降りてきて声を掛けた。
「……ずっと心配していたんだ。元気にしていたか? 食べ物はあるか? 病気になっていなければ良いんだが……」
心配は要らない。
ただ寒いだけだよ。寒いだけだ。
それより、もう行ってくれ。
「また、来るよ」
そう言うと、隼は澄み切った青い空に飛んで行ってしまった。
少し悲しげに聞こえた声に、蜥蜴も哀しい気持ちになって、長い尾で固く全身を抱き締めた。
白い世界は、眩しい。
ずっと低いところから光は床下に差し込み、刺すように蜥蜴を照らす。
蜥蜴は、この白い世界が一番嫌いだった。
高いところから見下すように照りつける暑い日々の方が、どれほどマシか。床下はいつでも湿り、深い暗さで蜥蜴の醜い姿を隠してくれていたのだから。
だから、すまない。
外には出られない。
ここが安心するんだ。
蜥蜴は、遠く空の彼方に去って行く隼の背中を眺めて謝った。
寂しくて、とても寒くて、蜥蜴は悲しい想いを抱えて小さく蹲った。
*
ある日、白い世界の中で小さな何かが動いた。
それは右に左に、モコモコと走りながら迫ってくる。
蜥蜴は慌てて、軒下から巣穴に逃げ込んだ。
こっそり顔を出して窺うと、一匹の栗鼠が入り込んでいる。くるりと丸まった尻尾に斑点のある、山吹色の毛色の栗鼠だ。
ほっぺたをこれでもかと膨らませ、落ち着き無く辺りを見回して、何かを探している様子だ。
ぱちりと、栗鼠と目が合った。
栗鼠は、吃驚して動けなくなってしまった蜥蜴の傍にやって来ると、頬袋の中から団栗を出して置いた。
栗鼠は白い世界へ続く軒下まで行くと、「それ、食べてよ」とぶっきらぼうに言って居なくなってしまった。
蜥蜴は困った。
蜥蜴は団栗を食べない。
柔らかい草の実は食べても、団栗は蜥蜴の小さな口には硬すぎた。
困っていると、表面の穴からにゅるりと虫が顔を出した。
蜥蜴はその虫を捕まえて食べた。
美味しかった。
長らく何も食べていなかった蜥蜴の身は、ふんわりと満たされた気がした。
その日から、たまに山吹色の栗鼠は虫入りの団栗を置いて行くようになった。
ある日、蜥蜴は勇気を出して、どうしてこんな事をするのかと訊ねてみた。
巣穴に隠れながら問う蜥蜴に向かい、栗鼠は「貴方が僕の友達を助けてくれたから」と、返した。
蜥蜴は、円らな瞳を大きく丸めた。
「蝶は僕の友達だ。彼女はずっと、白い世界で貴方がお腹を空かせているかもしれないと心配していたんだ。だから僕が様子を見にきたんだよ。蝶は今眠っているし、貴方に近付けたくないんだ」
貴方はいつかきっと、蝶を傷付けるから。
栗鼠の言葉に、蜥蜴の瞳から期待の灯火は消えた。
もたげていた頭を下げ、蜥蜴は喋るのをやめた。
栗鼠は少しだけ後悔した様子を見せて、背を向けて走って行ってしまった。
そうかもしれない。
蜥蜴は、巣穴の中で思った。
自分は醜く疚しい、ちっぽけな蜥蜴だ。
早く消えてしまえば良いのに、目が覚めては巣穴の周りを這い歩く。
空腹を感じることは、以前よりも減った。
けれど、苦しい、と思うようにもなった。
あの蝶と出会ってから、蜥蜴の小さな心臓はいつも苦しいのだ。
その苦しみは空腹に似ていた。
その空腹に抗えず、いつか蝶を壊して喰ってしまうだろう。
蜥蜴は小さく丸まった。
寂しい。
寂しい。
寂しくて、求めてしまう。
空腹の時に
心が、空腹を訴えるようになっていた。
だから、蜥蜴は今日も白い世界を眺めた。
誰も居ない世界に、誰かを求めて。
白い世界は今日も冷たく、蜥蜴に痛い光を注いでいた。
*
蛙が現れた。
灼けるような白い日々に肥え太っていた丸い身体は、すっかり痩せ細っていた。
蛙は怯えながら、それでも尊大に高い所から蜥蜴を見下ろした。
「お前の
食べ物なんて、ここにはない。
他所をあたってくれ。
そう返すと、蛙は怒った。
「無ければ探せ。地を掘って暴け。柱を齧って引き摺り出せ。腹が減って死にそうだ! 醜いお前の味方は儂だけなのに、お前はその儂が死んでも良いというのか!」
傲慢な蛙は蜥蜴を踏み付けた。
何度も何度も、怒りに任せて踏み付けた。
「餌を探せ! そうしないと儂は死んでしまう。早くしないと死んでしまう! この儂が死んで良いはずがない!」
蛙の声は震えていた。
怯えていたのだ。
一体、何に?
痛みに耐えながら、蜥蜴は蹲っていた。
やがて痩せ細った蛙は、何かを思い付いて目を輝かせた。
「そうだ。ここを儂の家にしよう」
ここは、土を掘れば地中に餌がある。
探しに行かなくても、白く寒い日々にも生きて行ける。
蜥蜴は驚いて、嫌だと言った。
ここは蜥蜴を守ってくれる唯一の場所だ。
熱い光から蜥蜴を守り、白く寒い日々の中でも床下は暖かかった。
ここを離れては、蜥蜴は生きては行けないのだ。
嫌だ、と蜥蜴は言った。
蛙は蜥蜴を叩いた。
もう一度、嫌だと蜥蜴は言った。
蛙は蜥蜴を地に投げ付けた。
何度も蜥蜴は嫌だと言い、その都度、蛙は蜥蜴を痛め付けた。
襤褸家の床下で、蜥蜴はボロ雑巾のようになった。
蜥蜴は白く眩しい、凍える世界に放り出された。
世界の白さに、寒さに、目も眩む明るさに、蜥蜴は恐怖した。
全てが晒される。
隠しておきたい姿が暴かれる。
蜥蜴は隠れられる場所を探した。
だけど、草は枯れ、花は朽ち、葉は落ちていた。
何処にも隠れる処は無く、守ってくれる場所は無かった。
何処もかしこも、真っ白だった。
真っ白な世界に、蜥蜴はポツンと落ちた染みのようだった。
蛙は笑った。
怯える蜥蜴を指差して嘲笑した。
恐れ慄く蜥蜴を散々に笑った蛙は、襤褸家の床下に消えていった。
寒い。眩しい。痛い。
誰か。
誰か、助けてくれ……!
蜥蜴は、恐怖に蹲った。
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