蜥蜴のみた夢〜グルンステイン物語より〜

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蜥蜴のみた夢〜グルンステイン物語より〜

   一


 光が見える。

 白く眩しい、目に刺さるような、痛みを伴う光だ。


 蜥蜴トカゲは襤褸家の軒下から外を眺め、両目を細めた。

 光に背を向け床下の真ん中へ、最も光の届かない暗く湿った場所へ逃げ込んだ。

 巣穴の中で小さく丸まった蜥蜴は、安堵の溜息を吐く。


 光は嫌いだ。

 光は水分を奪い、喉を渇かす。眩しくて目も開けられないし、熱い。

 何よりも、この醜い全身を明るみにしてしまう。

 それが、誇り高い蜥蜴には耐え難い屈辱だった。


 だから、もう何年も陽射しの下に出ていない。

 ここには食糧となる虫もいる。それで足りなければ夕刻から這い回り、何かしら見付けて捕食した。

 それで充分だった。


 時々、外とここを繋ぐ軒下の隙間から声を掛けてくる者達がいた。

 金色の隼と鳶色とびいろの犬だ。蜥蜴が自分の醜さをまだ知らなかった頃に出会った、多分、友達と呼べる存在だ。

 彼等はいつも狭くて小さい隙間に顔を寄せて、蜥蜴を陽の下に誘い出そうとした。

 その都度、蜥蜴は断った。

 隼と犬は美しかった。醜い自分と一緒にいては物笑いの種にされてしまう。

 蜥蜴はそれが嫌だった。


 彼等が去ったあと、蜥蜴はいつも巣の中で丸くなった。

  長い尾で固く身を抱き締め、酷く悲しい気持ちを忘れるために夢を見ようとした。だがいつも、うとうとし始めた頃に蜥蜴はぬっとりとした足に揺すり起こされた。


   *


 暗がりに、一匹の蛙がいた。

 蜥蜴は蛙が嫌いだ。大きく裂けた口も膨らむ顔も、上から見下す尊大な姿も、何もかもが大嫌いだ。


 蛙は下卑た声で笑った。

 無視をして眠りにつこうとすると、べたべたと叩かれた。仕方なく、蜥蜴は起き上がった。

 今夜もまた、蛙のために餌を探さなければならなかった。


 夜通し、蜥蜴は餌を獲り続けた。

 蛙は醜く肥大していたので、自分で餌を獲ることが億劫だったのだ。だから、腹が空くと蜥蜴のいる軒下にやってきて、代わりに狩りをするように求めた。

 捕獲したそばから蛙は餌をぶんどった。捕っても獲っても蛙の食欲は満たされず、ようやく腹が膨れた時には空は白んでいるのが常だった。


 蜥蜴は急いで巣に戻った。

 陽を浴びることは嫌いだった。この身から水分を奪い、喉を渇かす。小さな目に陽の光は眩しく、熱かった。

 何より、この醜い姿を見られたくはなかった。


 金色の隼と鳶色の犬がやってきた。

 今日もまた蜥蜴を陽の下に連れ出そうとする。


 放っておいてくれないか。

 疲れているから、眠らせてくれ。

 そう言うと、隼と犬は「また明日」と寂しげに帰って行った。


「なんだ。外に出ないのか」

 顔をあげると、蛙がいた。裂けた口の端には蜻蛉トンボの尾が見えていて、まだ食べ足りないのか、と蜥蜴は呆れた。


「たまには外に出たらどうだ。カビが生えるぞ」

 出られるわけがないだろう。俺は、醜いのだ。

「そうだったな。お前は醜い。その姿は気味が悪いものな」

 …………。

「外に出ても、誰もお前に声を掛けない。友達だっていやしない。みんなお前が嫌いなのだ。隼と犬だって、いつも誘いの言葉は掛けても床下まで入ってこようとはしない。とんだ友情だ」

 平べったい胸に痛みが走った。


「おや、あれは」

 蛙は外の世界に何かを見付けたようだ。

 目を細めて光の中を眺めると、明るい世界で小さな鼠が一匹の蝶を追いかけているのが見えた。

 鼠は蛙の子分だった。

「はは、下手くそだな」

 蛙は子分を嘲笑った。


「お前、行って手伝ってやれ」

 嫌だ。

「儂だけだぞ。お前の傍に近付いて、こうやって話しかけるのは」

 ……そうだな。

「儂だけだな。お前の醜さを知っていても、こうやって遊びに来てくれる理解者は」

 ああ、そうだ。だが……。

 陽の下には、出たくはないのだ。


 蜥蜴は小さく蹲った。

 蛙は、裂けた口を曲げて蜥蜴を睨んだ。

「まあいい。それならそこにいろ。二人でかかれば捕まえられるだろう」

 そう言って、蛙は外へ出て行った。

 どうせ鼠からあの蝶を横取りするつもりなのだろう。甚振って弄んで、最後に喰らってしまうのだ。

 蜥蜴は長く息を吐き出した。


   *


 それからどれほど時間が経ったのだろう。

 蜥蜴が目を覚ますと軒下の隙間から差し込む光は赤く、巣穴の近くまで伸びていた。

 日没が近い。


 ふと、夜が近付き陰が濃くなってゆく床下に、何者かの気配を感じた。

 息を殺して潜む、小さな気配だ。

 蜥蜴は目を凝らして闇の中に視線を走らせた。そして、夕陽が差し込む軒下の隙間とは反対の、蜥蜴の巣よりもさらに奥の隅の隅に、小さな白い蝶を見付けた。

 鼠が追い掛けていた、あの白い蝶だ。

 はねを痛めたのか、労わるようにゆっくりと閉じたり開いたりを繰り返していた。


 蜥蜴は息を止めて蝶を見た。

 湿った暗い床下の蝶はあんなにもちっぽけであるのに、闇の中で白く輝いていて蜥蜴の目にはとても美しく映えて見えた。


 蜥蜴がうっとりとした心地で眺めていると、蝶の動きが止まった。視線に気付いた蝶が翅を閉じ、怯えた目で蜥蜴を見返した。

 その目が、蜥蜴の胸を苦しめた。


「お願いです。見逃してください」

 蝶は弱々しく懇願した。

 声は小さな耳に美しく届いて、蜥蜴の長い尾を痺れさせた。

 蜥蜴は返事をしなかった。


 お前を食べたりしない。

 そう言いたかったが、声を発した瞬間に逃げてしまう気がして、それが嫌で、蜥蜴は返事をしなかった。ただ、ずっと見詰めていたくて、巣の中に小さく蹲った。

 せめて、何もするつもりはないと、知ってもらいたかった。


 やがて、怯えていた蝶は、また具合を確かめるように翅をゆっくりと閉じたり開いたりと繰り返した。

「貴方は、ここで暮らしているのですか?」

 少しののちに、蝶が話しかけてきた。二匹の間の沈黙に耐えかねたのかもしれない。

 ああ、そうだ。

 そう、返事をしたかった。だが、答えなかった。

「ここで、ずっと一人なのですか?」

 ああ、そうだよ。

 それでもやはり、蜥蜴は声に出して答えなかった。蝶は、何も喋らずにひたすら蹲っているだけの蜥蜴を悲しげな目で見詰めた。


 ふと、蜥蜴は思い出した。

 蛙のことだ。

 蛙はいつも、夜になると腹を空かせてここにやってくるではないか。


 蜥蜴は慌てて立ち上がった。

 蝶は不意に巣穴から這い出た蜥蜴に驚いて硬直した。その様子に蜥蜴は自分の小さな目が熱く潤んだことを自覚したが、悲しんでいるいとまはなかった。

 一歩、蝶に近付いて言った。


 ここから去れ。

「何故ですか? もう少しだけ、休ませて下さい」

 駄目だ。奴が来る。蛙が来るんだ。

 蜥蜴の言葉に、蝶は怯えた色を見せた。蜥蜴は床下と外を繋ぐ唯一の場所である軒下の隙間に蝶を追い立てた。

 すっかり薄暗さを増した外に出ても、蝶の美しい白さは目立った。


 行け、早く。そして、もうこの近くを飛んではいけない。

「貴方は……」

 早く!

 蜥蜴は焦っていた。今にもそこの草陰から長い舌が飛んできて、蝶の白い翅を絡みとってしまいそうに思えた。

 蝶は躊躇いを見せたものの長く迷うことなく、「ありがとう」と言葉を残して飛び立った。痛めた翅でフラフラと、頼りなくではあったが高く飛んで、やがて蜥蜴の目でも見付けられない遠くまで飛んで、いなくなってしまった。


 蝶の姿が見えなくなると、蜥蜴は巣に戻って小さくきつく丸まった。


 ああ、もう……。


 閉じた瞼の端から熱い水が一筋流れた。


 もう、あの蝶の姿を見ることはできないだろう。だが……。


 蜥蜴は気配を感じて頭をもたげた。

 軒下の隙間に蛙がいた。大きな裂けた口に下卑た笑みを浮かべていた。

 蜥蜴はのっそりと起き上がり、湿った土の上を這って歩いた。


 この醜い蛙から守ることはできたのだ。


 その想いだけが、寂しさに押し潰されそうになっていた蜥蜴を救っていた。


   二


 蜥蜴は、今日も襤褸ボロ家の軒下の隙間から外を眺めていた。


 溜息は白くふわりと宙に浮き、すぐに散って消えてしまう。

 これで、何度目の白い世界だろう。

 今日も空から冷たい綿が降ってきて、静かに蜥蜴の前に積もってゆく。

 やがて冷たい綿は、越えるのが困難な高い壁になった。


 蜥蜴はスルスルと四本の脚で地べたを這い、襤褸家の床下の真ん中へ、最も光の届かない暗く湿った場所へ逃げ込んだ。


 外は嫌いだ。

 白く、寒い。

 けれど……。

 蜥蜴はまた白い息を吐き、温かい巣穴の中に小さく丸く収まった。


 もう、何日ほど食べていないだろうか。

 世界が白くなると、食糧は姿を消す。

 寒くて寒くて、みんな何処かに隠れて眠ってしまうからだ。

 だから蜥蜴は動かない。

 温かい土の中の巣穴で小さく丸くなっていれば腹が空かない事を、蜥蜴は知っていた。


 それでも時々、蜥蜴は軒下から目も眩むような白く輝く外を見た。


 光を受けてキラキラと煌めく世界を、美しいと思ったからだ。

 いつか見た、あの蝶の白い翅に似ていると思ったのだ。


 寒くて、眩しくて、何も無い、寂しい景色だ。

 蜥蜴など、一歩でも踏み出してしまえばすぐに凍えて死んでしまう。

 そんな恐ろしい世界だ。

 それでも、美しい世界を見たかった。

 白い蝶を忘れたくなかったから。


   *


 蜥蜴は今日も白くて眩しい世界を見る。


 ふと、近くの木の枝に金色の隼がいる事に気が付いた。

 隼は蜥蜴の友達だった事がある。

 今でも、蜥蜴は隼が好きだった。

 その美しい羽根に包まれた背に乗り、空も飛んだ。


 その時の蜥蜴は光が好きだった。

 何処までも高く高く、太陽に近付いた。

 光は蜥蜴の小さな身体を温め、心を熱くしてくれた。

 だが、今は駄目だ。

 光は水分を奪い、喉を渇かし、この身を灼いてしまう事を知ってしまった。

 何より、醜い姿を露わにしてしまう。

 蜥蜴は悲しくなって俯いた。


「やっと、顔を見られた」

 蜥蜴の小さな心臓が飛び跳ねた。

 急いで床下へと、奥へ奥へ、光の届かない襤褸家の床下の真ん中へ走って逃げた。

 そんな蜥蜴に、隼は白い凍える世界から降りてきて声を掛けた。

「……ずっと心配していたんだ。元気にしていたか? 食べ物はあるか? 病気になっていなければ良いんだが……」


 心配は要らない。

 ただ寒いだけだよ。寒いだけだ。

 それより、もう行ってくれ。


「また、来るよ」

 そう言うと、隼は澄み切った青い空に飛んで行ってしまった。

 少し悲しげに聞こえた声に、蜥蜴も哀しい気持ちになって、長い尾で固く全身を抱き締めた。


 白い世界は、眩しい。


 ずっと低いところから光は床下に差し込み、刺すように蜥蜴を照らす。

 蜥蜴は、この白い世界が一番嫌いだった。

 高いところから見下すように照りつける暑い日々の方が、どれほどマシか。床下はいつでも湿り、深い暗さで蜥蜴の醜い姿を隠してくれていたのだから。


 だから、すまない。

 外には出られない。

 ここが安心するんだ。

 蜥蜴は、遠く空の彼方に去って行く隼の背中を眺めて謝った。


 寂しくて、とても寒くて、蜥蜴は悲しい想いを抱えて小さく蹲った。


   *


 ある日、白い世界の中で小さな何かが動いた。

 それは右に左に、モコモコと走りながら迫ってくる。


 蜥蜴は慌てて、軒下から巣穴に逃げ込んだ。

 こっそり顔を出して窺うと、一匹の栗鼠が入り込んでいる。くるりと丸まった尻尾に斑点のある、山吹色の毛色の栗鼠だ。

 ほっぺたをこれでもかと膨らませ、落ち着き無く辺りを見回して、何かを探している様子だ。


 ぱちりと、栗鼠と目が合った。

 栗鼠は、吃驚して動けなくなってしまった蜥蜴の傍にやって来ると、頬袋の中から団栗を出して置いた。

 栗鼠は白い世界へ続く軒下まで行くと、「それ、食べてよ」とぶっきらぼうに言って居なくなってしまった。


 蜥蜴は困った。

 蜥蜴は団栗を食べない。

 柔らかい草の実は食べても、団栗は蜥蜴の小さな口には硬すぎた。

 困っていると、表面の穴からにゅるりと虫が顔を出した。

 蜥蜴はその虫を捕まえて食べた。

 美味しかった。

 長らく何も食べていなかった蜥蜴の身は、ふんわりと満たされた気がした。


 その日から、たまに山吹色の栗鼠は虫入りの団栗を置いて行くようになった。

 ある日、蜥蜴は勇気を出して、どうしてこんな事をするのかと訊ねてみた。

 巣穴に隠れながら問う蜥蜴に向かい、栗鼠は「貴方が僕の友達を助けてくれたから」と、返した。

 蜥蜴は、円らな瞳を大きく丸めた。


「蝶は僕の友達だ。彼女はずっと、白い世界で貴方がお腹を空かせているかもしれないと心配していたんだ。だから僕が様子を見にきたんだよ。蝶は今眠っているし、貴方に近付けたくないんだ」

 貴方はいつかきっと、蝶を傷付けるから。


 栗鼠の言葉に、蜥蜴の瞳から期待の灯火は消えた。

 もたげていた頭を下げ、蜥蜴は喋るのをやめた。

 栗鼠は少しだけ後悔した様子を見せて、背を向けて走って行ってしまった。


 そうかもしれない。

 蜥蜴は、巣穴の中で思った。


 自分は醜く疚しい、ちっぽけな蜥蜴だ。

 早く消えてしまえば良いのに、目が覚めては巣穴の周りを這い歩く。

 空腹を感じることは、以前よりも減った。

 けれど、苦しい、と思うようにもなった。

 あの蝶と出会ってから、蜥蜴の小さな心臓はいつも苦しいのだ。

 その苦しみは空腹に似ていた。

 その空腹に抗えず、いつか蝶を壊して喰ってしまうだろう。


 蜥蜴は小さく丸まった。

 寂しい。

 寂しい。

 寂しくて、求めてしまう。

 空腹の時に食餌しょくじを求めるように、自分を満たしてくれる誰かを。


 心が、空腹を訴えるようになっていた。


 だから、蜥蜴は今日も白い世界を眺めた。

 誰も居ない世界に、誰かを求めて。


 白い世界は今日も冷たく、蜥蜴に痛い光を注いでいた。


   *


 蛙が現れた。

 灼けるような白い日々に肥え太っていた丸い身体は、すっかり痩せ細っていた。

 蛙は怯えながら、それでも尊大に高い所から蜥蜴を見下ろした。

「お前の食餌エサを寄越せ」


 食べ物なんて、ここにはない。

 他所をあたってくれ。

 そう返すと、蛙は怒った。


「無ければ探せ。地を掘って暴け。柱を齧って引き摺り出せ。腹が減って死にそうだ! 醜いお前の味方は儂だけなのに、お前はその儂が死んでも良いというのか!」

 傲慢な蛙は蜥蜴を踏み付けた。

 何度も何度も、怒りに任せて踏み付けた。


「餌を探せ! そうしないと儂は死んでしまう。早くしないと死んでしまう! この儂が死んで良いはずがない!」

 蛙の声は震えていた。

 怯えていたのだ。

 一体、何に?


 痛みに耐えながら、蜥蜴は蹲っていた。

 やがて痩せ細った蛙は、何かを思い付いて目を輝かせた。

「そうだ。ここを儂の家にしよう」

 ここは、土を掘れば地中に餌がある。

 探しに行かなくても、白く寒い日々にも生きて行ける。


 蜥蜴は驚いて、嫌だと言った。

 ここは蜥蜴を守ってくれる唯一の場所だ。

 熱い光から蜥蜴を守り、白く寒い日々の中でも床下は暖かかった。

 ここを離れては、蜥蜴は生きては行けないのだ。


 嫌だ、と蜥蜴は言った。

 蛙は蜥蜴を叩いた。

 もう一度、嫌だと蜥蜴は言った。

 蛙は蜥蜴を地に投げ付けた。


 何度も蜥蜴は嫌だと言い、その都度、蛙は蜥蜴を痛め付けた。

 襤褸家の床下で、蜥蜴はボロ雑巾のようになった。

 蜥蜴は白く眩しい、凍える世界に放り出された。


 世界の白さに、寒さに、目も眩む明るさに、蜥蜴は恐怖した。


 全てが晒される。

 隠しておきたい姿が暴かれる。


 蜥蜴は隠れられる場所を探した。

 だけど、草は枯れ、花は朽ち、葉は落ちていた。


 何処にも隠れる処は無く、守ってくれる場所は無かった。

 何処もかしこも、真っ白だった。

 真っ白な世界に、蜥蜴はポツンと落ちた染みのようだった。


 蛙は笑った。

 怯える蜥蜴を指差して嘲笑した。

 恐れ慄く蜥蜴を散々に笑った蛙は、襤褸家の床下に消えていった。


 寒い。眩しい。痛い。

 誰か。

 誰か、助けてくれ……!


 蜥蜴は、恐怖に蹲った。


   三


 白い世界で打ちひしがれる蜥蜴の、穴が空いただけの小さな耳に悲鳴が届いた。


 蜥蜴が驚いていると、襤褸家の床下から蛙が飛び出してきた。

 その蛙を追い掛けて、長く、大きな、赫い赫い、血のような色の蛇が現れた。

 蛇は蜥蜴の目の前で、逃げる蛙をペロリと飲み込んだ。

 ぐねぐね蠢く膨らみが、喉から胴に向かってゆっくりと流れて行く。

 胴に届いた膨らみはやがて動かなくなり、ただの膨らみとなった。

 蜥蜴は、茫然とその光景を眺めていた。


 蛇の目が蜥蜴に向いて、蜥蜴は身を竦めた。

 ずるずると蛇は迫り、ゆっくりと大きく口を開く。


 開かれた口の中の奥には、深い深い暗闇があった。

 蛇の中の闇は、白い世界に怯える蜥蜴を惹きつけた。

 あの暗がりに飛び込んでしまえば、もう何もかもに怯えなくても済むのだろうか。

 そんな想いが小さな平べったい心の内に芽生え、蜥蜴は円らな小さな目を瞑った。

 ペロリと頭から飲み込まれる、その時を待った。


 赫い蛇は蜥蜴に齧り付いた。

 蛇の口の中は温かだった。

 腹に牙が喰い込んで痛みが奔った。

 痛いのは嫌だったが、これがきっと最後の痛みだと思うと、蜥蜴は幸せな気持ちになった。


 けれど、ふと気付いた。

 もう、隼の背に乗れないな、と。


 犬にも、栗鼠にも会えなくなる。

 そして、白く眩しい世界でふわふわと揺蕩う、あの白い蝶を見詰めることも出来なくなるのだ。


 蜥蜴は急に怖くなった。


 蜥蜴は暴れた。

 蛇の口の中で、必死に藻搔いた。

 怖い。

 怖い。

 誰にも会えなくなるのが怖い。

 誰に会う勇気は無くとも、誰にも会えなくなるのが怖い。


 藻搔いて、藻搔いて、懸命に藻搔く蜥蜴は、どんどん蛇の腹に落ちてゆく。


 ああ。

 もう本当に、白い世界で輝く彼等に焦がれることさえ出来なくなるのか。

 悲しみと後悔が、蜥蜴のちっぽけな身をいっぱいにした。

 

   *


 突然、蜥蜴は白い世界に放り出された。

 ぽてんぽてんと、小さな身は何度か跳ねて地面に転がった。

 吃驚した蜥蜴の目に、太陽の輝く青い空が映った。

 円らな両目を何度か瞬いた。


 呆気にとられていると、金色の隼が降り立った。

「無事で良かった」

 隼は嬉しそうに笑った。

 そうして、美しい金色の翼を広げて飛び立った。

 高く、高く、どこまでも高く飛んで行った。


 隼が飛び立った後、蜥蜴は鳶色の犬と山吹色の栗鼠が赫い蛇と泥に塗れて争っているのを見た。

 栗鼠は素早く走って蛇の目を回し、犬は靭い前脚で蛇を叩く。蛇が犬を縛りあげ鎌首を擡げれば、栗鼠はその長い身を駆け上がり尖った歯で咬みついた。


 蛇が叫ぶ。

「喰わせろ。足りないんだよっ。お前の暗い心を喰わせろ!」

 血塗れでさらに赫くなった蛇が蜥蜴を睨んだ。


「自分を卑下してイジケて腐ったお前みたいなチンケな野郎はな、俺に喰われて世界から消えちまうのが一番良いんだよっ」

 蛇の言葉に、蜥蜴はぎゅっと口を結んだ。

 高く掲げた鎌首が真っ直ぐ蜥蜴に襲い掛かる。


 ふわりと、花びらが舞った。

 白い蝶が赫い蛇の目の前で、一心不乱に羽ばたいていた。


 危ない。

 止めるんだ。

 頼りなげに舞う蝶に、蜥蜴は驚いた。


 けれど、蝶は蛇に纏わりついて離れない。

 行く手を遮られた蛇が苛立っているのが分かった。

 蜥蜴は青褪めた。

 蝶を助けようと、腹の痛みを忘れて地べたを必死に這った。


 そこに。

 金色の雷が落ちた。


 赫い蛇は強い衝撃で地面に叩きつけられた。

 隼は蛇を捉えたまま高く飛んで、見えなくなった。

 栗鼠と犬が、わあわあ言いながら隼を追い掛けた。


 見上げた空から蛙が降ってきて、蜥蜴と蝶の傍に落ちた。

 蛇の腹からこぼれた蛙は、ドロドロだったが生きていた。

 べちょりと起き上がった蛙の両目が、凶暴な怒りを孕んで蜥蜴に向けられる。


「お前、あの蛇を招き入れたな! お前の所為で死にかけた。お前は儂を殺そうとした!」


 そんなことはしていない!


「嘘を吐くな!」

 蛙が蜥蜴を蹴飛ばそうとした時、白い蝶が二匹の間に飛び込んだ。

 蛙の足が蝶に当たって、蝶ははらはらと、枯れ葉のように地面に舞い落ちた。

 腹が立って、腹が減って、どうしようもなかった蛙は、汚い手で蝶を掴んだ。


 大きな口を開けて蝶を丸呑みにしようとする蛙に、蜥蜴は必死に取り付いた。

 叩き払われても、何度もしがみ付いた。

 蝶も抗った。

 必死に、懸命に、夢中になって抗い、二匹はたちまちボロボロになった。


 蛙は乱暴に翅を掴んで蝶を振り回した。

 白い翅が音を立てて裂け、蝶は悲鳴をあげた。

 蜥蜴は飛び出し、放り出された蝶はその背中に落ちた。


「忌々しい。まとめて殺してやる!」

 蛙は大きな石を掴み高くかかげた。

 蜥蜴は咄嗟に蝶を身の下に庇う。


 突然の暴風が、蜥蜴と蝶を吹き飛ばした。

 土の上を、二匹はコロコロ転がる。

 泥だらけになって起き上がった時、そこに蛙は居なかった。


 蛙がいた場所には影が落ちていて、見上げると襤褸家の大棟おおむねに一羽の大鷲がいた。

 大鷲はとても大きく、くすんだ金色の羽は隼に似ていながら、より重厚で静謐で、威厳に満ちていた。

 足には蛙を攫み、鋭い鉤爪がその身に喰い込んで絶命の寸前だ。


 空を見上げていた大鷲の深い青い瞳が、不意にこちらを見定めた。

 蜥蜴は身体を強張らせた。


 少しの間、蜥蜴を見詰めていたが、全てを見透かすように両目を細めた大鷲は、静かに、けれど瓏々と響く声で言う。


「生きよ。余は、誇り高く美しい其方を愛している」


 たちまち、世界が変わった。


   *

 

 柔らかい風が吹き、足下には草が茂り花々が咲き誇った。

 目の前で襤褸家の壁が崩れ落ち、真っ白な壁が現れた。

 襤褸家は高い尖塔を持つ、大きな大きな城に変わっていた。


 草むらから鳶色の犬が飛び出した。頭の上に山吹色の栗鼠を乗せている。

 緑の葉をつけた木の枝には隼もいた。金色に輝く翼に菜の花の妖精がぴったりと寄り添っていた。

 気が付くと、周りにいたのは彼等だけではなかった。

 鹿も穴熊も狐も、蜜蜂も蝸牛カタツムリも、色とりどりの花達も、蜥蜴と蝶を囲んでいた。


 大鷲は無言で両翼を広げた。

 大きな翼は蜥蜴の目から、一時いっとき、光を遮った。

 大鷲が羽撃き飛び立つと、遮られた光が再び蜥蜴と傍らの蝶に降り注いだ。


 眩しい。

 だが、両目をきつく瞑った直後、優しい日陰が蜥蜴を覆った。

 瞼を開くと、そこでは白い蝶が翅を広げて蜥蜴を光から守ってくれていた。

 薄く白い翅を透かして、光は優しく蜥蜴を包んでいる。

 蝶は光を背に、蜥蜴に微笑んでいた。

「眩しいのなら、私が翅で貴方を守ります」

 蜥蜴はきょとんと蝶を見上げた。


「寒いのなら、犬に包まって温まりましょう。お腹が空いたのなら、虫が苦手な栗鼠のために団栗の中の虫を食べてあげて下さい。熱いのなら、隼に翼で扇いでもらいましょう」


 ……それじゃあ、隼だけ熱いままだ。

 そう返すと、蝶は初めて気が付いたように両目を丸めて驚いた。


「金色の猫がいつもそうしていると言っていたから、つい」

 蝶はくすくすと笑った。

 それから少し考えて、

「それでは、みんな一緒に木陰でお昼寝をしましょう」

 と言った。


 蜥蜴は両目を瞬いた。

「みんな、蜥蜴が出てくるのを待っていたんだ」

 木の枝から降り立った隼は嬉しそうに、本当に嬉しそうに言った。

 振り返ると、犬も栗鼠も、みんながニコニコと嬉しそうだった。


「まだ、寒いですか?」

 蜥蜴はふるふると頭を横に振った。

 世界から寒さは消えていた。


「今も、熱いですか?」

 蜥蜴は横に首を振った。

 世界はいつの間にか、心地好い温かさに満たされていた。


「光は、痛いですか?」

 蜥蜴は空を見上げた。

 あんなにも眩しく痛かった光は、今は優しく蜥蜴を照らしていた。


「痛くない」

 蜥蜴は答えた。


   *


 何年も前の事だ。

 遊び疲れた蜥蜴が水を飲もうと泉に近付いた時、蛙が声をかけてきた。


 蛙は蜥蜴を醜く気色が悪いと言った。

 無視をしたが、水面に映った己の隣に蛙が並んだ時、気付いてしまったのだ。

 自分と蛙がよく似ている事に。


 華やかな隼と違い、自分は真っ黒だった。

 ふわふわな犬と違い、自分は触れて心地好い身ではなかった。

 戸惑う蜥蜴に蛙は言った。

『みんなお前を嫌っている。何故なら、お前は儂と同じく醜くて不気味だからだ。今まで仕方なく付き合っていただけだ。みんなお前を嫌っているのだ』

 蜥蜴はそれを信じてしまった。


 その日から、世界は凍えるように寒く、灼けるように熱く、眩むように白く、刺すように痛くなった。


 自分を守るために、蜥蜴は襤褸家に逃げた。

 襤褸家だけが自分を守る場所だった。


 そこには隼も犬も訪れることは出来なかった。

 蛙だけが身を滑り込ませ、蜥蜴に話しかけた。

 その醜悪な性根を嫌悪しつつも、気付けば蛙に縋り、友の言葉を信じなくなっていた。


 誰かが傍から離れてしまうのは怖かった。

 独りは嫌なくせに、誰かと一緒にいるのが怖かった。

 一緒にいるのが怖いくせに、誰かに傍に居て欲しかった。

 そうして、自分から孤独を選んでしまった。


 嫌われるくらいなら、最初から誰も居ないほうが良い。

 誰も居ないのだから、誰も俺を置いて居なくならない、と。


   *


「俺は、ここに居てもいいのか?」

「ええ」


「みんなの傍に居てもいいのか?」

「もちろんです」


「俺は醜い」

「いいえ。貴方はとても綺麗です」

「俺は」

 蜥蜴は声を震わせた。


「俺は、陽の射すこの場所で、みんなと生きて行きたい」


 蝶がそっと抱き締めてくれた。


 隼も、犬も、栗鼠も、蜥蜴を抱き締めてくれた。


 蝶の破れた翅を、蜥蜴は撫でた。

 蝶は蜥蜴にお願い事をした。

「翅が治るまで、貴方の背中に乗せて下さい。翅が治ったら、一緒に色んなところに行きましょう?」


 小さな両目から、大きな涙がボロボロと零れた。

 蜥蜴は頷いた。

 

 嬉しくて、嬉しくて、

 涙を零しながら、笑顔で何度も頷いた。



                 蜥蜴の見た夢〜グルンステイン物語より〜

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