蜥蜴のみた夢〜グルンステイン物語より〜

Beco

其の壱


 光が見える。

 白く眩しい、目に刺さるような、痛みを伴う光だ。


 蜥蜴トカゲは襤褸家の軒下から外を眺め、両目を細めた。

 光に背を向け床下の真ん中へ、最も光の届かない暗く湿った場所へ逃げ込んだ。

 巣穴の中で小さく丸まった蜥蜴は、安堵の溜息を吐く。


 光は嫌いだ。

 光は水分を奪い、喉を渇かす。眩しくて目も開けられないし、熱い。

 何よりも、この醜い全身を明るみにしてしまう。

 それが、誇り高い蜥蜴には耐え難い屈辱だった。


 だから、もう何年も陽射しの下に出ていない。

 ここには食糧となる虫もいる。それで足りなければ夕刻から這い回り、何かしら見付けて捕食した。

 それで充分だった。


 時々、外とここを繋ぐ軒下の隙間から声を掛けてくる者達がいた。

 金色の隼と鳶色とびいろの犬だ。蜥蜴が自分の醜さをまだ知らなかった頃に出会った、多分、友達と呼べる存在だ。

 彼等はいつも狭くて小さい隙間に顔を寄せて、蜥蜴を陽の下に誘い出そうとした。

 その都度、蜥蜴は断った。

 隼と犬は美しかった。醜い自分と一緒にいては物笑いの種にされてしまう。

 蜥蜴はそれが嫌だった。


 彼等が去ったあと、蜥蜴はいつも巣の中で丸くなった。

  長い尾で固く身を抱き締め、酷く悲しい気持ちを忘れるために夢を見ようとした。だがいつも、うとうとし始めた頃に蜥蜴はぬっとりとした足に揺すり起こされた。


   *


 暗がりに、一匹の蛙がいた。

 蜥蜴は蛙が嫌いだ。大きく裂けた口も膨らむ顔も、上から見下す尊大な姿も、何もかもが大嫌いだ。


 蛙は下卑た声で笑った。

 無視をして眠りにつこうとすると、べたべたと叩かれた。仕方なく、蜥蜴は起き上がった。

 今夜もまた、蛙のために餌を探さなければならなかった。


 夜通し、蜥蜴は餌を獲り続けた。

 蛙は醜く肥大していたので、自分で餌を獲ることが億劫だったのだ。だから、腹が空くと蜥蜴のいる軒下にやってきて、代わりに狩りをするように求めた。

 捕獲したそばから蛙は餌をぶんどった。捕っても獲っても蛙の食欲は満たされず、ようやく腹が膨れた時には空は白んでいるのが常だった。


 蜥蜴は急いで巣に戻った。

 陽を浴びることは嫌いだった。この身から水分を奪い、喉を渇かす。小さな目に陽の光は眩しく、熱かった。

 何より、この醜い姿を見られたくはなかった。


 金色の隼と鳶色の犬がやってきた。

 今日もまた蜥蜴を陽の下に連れ出そうとする。


 放っておいてくれないか。

 疲れているから、眠らせてくれ。

 そう言うと、隼と犬は「また明日」と寂しげに帰って行った。


「なんだ。外に出ないのか」

 顔をあげると、蛙がいた。裂けた口の端には蜻蛉トンボの尾が見えていて、まだ食べ足りないのか、と蜥蜴は呆れた。


「たまには外に出たらどうだ。カビが生えるぞ」

 出られるわけがないだろう。俺は、醜いのだ。

「そうだったな。お前は醜い。その姿は気味が悪いものな」

 …………。

「外に出ても、誰もお前に声を掛けない。友達だっていやしない。みんなお前が嫌いなのだ。隼と犬だって、いつも誘いの言葉は掛けても床下まで入ってこようとはしない。とんだ友情だ」

 平べったい胸に痛みが走った。


「おや、あれは」

 蛙は外の世界に何かを見付けたようだ。

 目を細めて光の中を眺めると、明るい世界で小さな鼠が一匹の蝶を追いかけているのが見えた。

 鼠は蛙の子分だった。

「はは、下手くそだな」

 蛙は子分を嘲笑った。


「お前、行って手伝ってやれ」

 嫌だ。

「儂だけだぞ。お前の傍に近付いて、こうやって話しかけるのは」

 ……そうだな。

「儂だけだな。お前の醜さを知っていても、こうやって遊びに来てくれる理解者は」

 ああ、そうだ。だが……。

 陽の下には、出たくはないのだ。


 蜥蜴は小さく蹲った。

 蛙は、裂けた口を曲げて蜥蜴を睨んだ。

「まあいい。それならそこにいろ。二人でかかれば捕まえられるだろう」

 そう言って、蛙は外へ出て行った。

 どうせ鼠からあの蝶を横取りするつもりなのだろう。甚振って弄んで、最後に喰らってしまうのだ。

 蜥蜴は長く息を吐き出した。


   *


 それからどれほど時間が経ったのだろう。

 蜥蜴が目を覚ますと軒下の隙間から差し込む光は赤く、巣穴の近くまで伸びていた。

 日没が近い。


 ふと、夜が近付き陰が濃くなってゆく床下に、何者かの気配を感じた。

 息を殺して潜む、小さな気配だ。

 蜥蜴は目を凝らして闇の中に視線を走らせた。そして、夕陽が差し込む軒下の隙間とは反対の、蜥蜴の巣よりもさらに奥の隅の隅に、小さな白い蝶を見付けた。

 鼠が追い掛けていた、あの白い蝶だ。

 はねを痛めたのか、労わるようにゆっくりと閉じたり開いたりを繰り返していた。


 蜥蜴は息を止めて蝶を見た。

 湿った暗い床下の蝶はあんなにもちっぽけであるのに、闇の中で白く輝いていて蜥蜴の目にはとても美しく映えて見えた。


 蜥蜴がうっとりとした心地で眺めていると、蝶の動きが止まった。視線に気付いた蝶が翅を閉じ、怯えた目で蜥蜴を見返した。

 その目が、蜥蜴の胸を苦しめた。


「お願いです。見逃してください」

 蝶は弱々しく懇願した。

 声は小さな耳に美しく届いて、蜥蜴の長い尾を痺れさせた。

 蜥蜴は返事をしなかった。


 お前を食べたりしない。

 そう言いたかったが、声を発した瞬間に逃げてしまう気がして、それが嫌で、蜥蜴は返事をしなかった。ただ、ずっと見詰めていたくて、巣の中に小さく蹲った。

 せめて、何もするつもりはないと、知ってもらいたかった。


 やがて、怯えていた蝶は、また具合を確かめるように翅をゆっくりと閉じたり開いたりと繰り返した。

「貴方は、ここで暮らしているのですか?」

 少しののちに、蝶が話しかけてきた。二匹の間の沈黙に耐えかねたのかもしれない。

 ああ、そうだ。

 そう、返事をしたかった。だが、答えなかった。

「ここで、ずっと一人なのですか?」

 ああ、そうだよ。

 それでもやはり、蜥蜴は声に出して答えなかった。蝶は、何も喋らずにひたすら蹲っているだけの蜥蜴を悲しげな目で見詰めた。


 ふと、蜥蜴は思い出した。

 蛙のことだ。

 蛙はいつも、夜になると腹を空かせてここにやってくるではないか。


 蜥蜴は慌てて立ち上がった。

 蝶は不意に巣穴から這い出た蜥蜴に驚いて硬直した。その様子に蜥蜴は自分の小さな目が熱く潤んだことを自覚したが、悲しんでいるいとまはなかった。

 一歩、蝶に近付いて言った。


 ここから去れ。

「何故ですか? もう少しだけ、休ませて下さい」

 駄目だ。奴が来る。蛙が来るんだ。

 蜥蜴の言葉に、蝶は怯えた色を見せた。蜥蜴は床下と外を繋ぐ唯一の場所である軒下の隙間に蝶を追い立てた。

 すっかり薄暗さを増した外に出ても、蝶の美しい白さは目立った。


 行け、早く。そして、もうこの近くを飛んではいけない。

「貴方は……」

 早く!

 蜥蜴は焦っていた。今にもそこの草陰から長い舌が飛んできて、蝶の白い翅を絡みとってしまいそうに思えた。

 蝶は躊躇いを見せたものの長く迷うことなく、「ありがとう」と言葉を残して飛び立った。痛めた翅でフラフラと、頼りなくではあったが高く飛んで、やがて蜥蜴の目でも見付けられない遠くまで飛んで、いなくなってしまった。


 蝶の姿が見えなくなると、蜥蜴は巣に戻って小さくきつく丸まった。


 ああ、もう……。


 閉じた瞼の端から熱い水が一筋流れた。


 もう、あの蝶の姿を見ることはできないだろう。だが……。


 蜥蜴は気配を感じて頭をもたげた。

 軒下の隙間に蛙がいた。大きな裂けた口に下卑た笑みを浮かべていた。

 蜥蜴はのっそりと起き上がり、湿った土の上を這って歩いた。


 この醜い蛙から守ることはできたのだ。


 その想いだけが、寂しさに押し潰されそうになっていた蜥蜴を救っていた。


                            

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