第4話『逃避の先に』

前回

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 その時だけは、俺も幸せになっていい気がした。



「だけどもう、なくなった」



 これまで俺の腹を撫でていた美亜の指が離れる。

 ――直後、彼女の両手が俺の首を絞めあげた。

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「なっ、あ゛ッ……!?」

「それなら、今度は私の幸せの役に立ってくださいよ」



 白い細腕からは想像できない握力で乱暴に気道を塞がれる。



「先輩、あのお客さんの手から逃げなかったですよね。

 前髪触られるの苦手なのに」



 酸素の供給を失った脳みそがドクドクと脈打つ。

 顔がカッと熱を帯び、息苦しさに口をはくはくと動かすことしかできない。



「元カノさんの言うことや、店長の理不尽な要求にも応えて。

 だから、言えばなんでもお願い聞いてくれるんですよね?」



 戸惑ったが、なんとか問いに頷く。

 早く答えて解放されたいという一心で答えたものの、本心でも答えは一致していた。


 幸せになる資格がある人間の言うことなら、きっと俺はなんでも聞くのだろう。

 そうでなければ愛されない。

 幸せな人間は無条件で俺なんかを愛さない。



「いい子ですね」



 俺は解放された。

 気道が大量の空気を吸い込み、反動で咳き込む。



「あなただけ苦しいなんてずるいです。だから――ね? こうしましょうよ」



 彼女のこれまで聞いたことない暗く低い声。


 いつの間にか馬乗りになっていた美亜みあは、俺の両手を自身の首へ導いた。



「ほら絞めて」



 細い首は少し力を入れただけで折れてしまいそうだ。

 首の絞め方なんか知らないから闇雲に絞めていく。涼し気な彼女の表情が徐々に崩れていく。眉をひそめ、目を見開き、口からは涎を垂らして顔を赤くした。


 罪悪感に胸が痛む。

 だがそれ以上に、口角が上がっていた。



「なあ」



 美亜を押し倒し、今度は俺が馬乗りになる。

 熱を帯びた呼吸、滲む視界、頬に伝う汗。

 早くなっていく拍動に合わせて瞳孔が伸縮を繰り返す。



 俺は興奮していた。



 だって俺が、俺なんかが! 幸せな資格を持つ人間を苦しめている! なんて僥倖ぎょうこうだ! 俺ごときが希望ある人間の命を握っている!


 気がつくと彼女の身体は痙攣していた。白目を剥いた姿は野性的に見えて普段の彼女からは想像もできないほど醜い。そんな顔もできたのか――愛おしさを抱くと同時にもっと強く絞める。この二十六年で一番の力を、彼女に乗せる。

 彼女は俺が殺す。絶対に殺す、殺してやる。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺せ殺せ殺せ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――





 こいつを殺せば、俺も死ねる?





 不意に美亜と目が合う。

 さっきまで白目を剥いていたはずなのに。

 息もできないはずなのに。

 彼女は艶やかな微笑を浮かべて、俺を見ていた。



「ゆきちゃん」



 ギラリと反射した銀色に息が止まる。

 腹部に熱が宿り、痛みにうずくまった。



「これはね、ぜんぶぜんぶ夢なんですよ」



 彼女の言葉を最後に、俺の意識は途絶えた。














 そうして俺は、肌寒さで目を覚ました。



「おはよ、小幸」



 隣には元カノ――彼女の紗波さなみの姿。

 紺色のウルフ髪に少し痩せ気味な身体。

 目の下のクマが濃くていつも生きづらそうだったのに、今となってはそのクマは完全に消え去っていて、血色のいい唇が彼女の健康を証明していた。


 紗波はちょうど起き上がったところらしく、上半身を起こしたまま愛おしそうに俺の頭を撫でた。

 彼女に触れられると心が締めつけられるようで、目の奥が熱くなる。


 ふわりと香る彼女の匂い。

 出会って間もない頃は甘ったるくて苦手だったのに、今では落ち着く匂いになっている。



「今日寒いんだって。厚着して行きなよ」



 彼女はテキパキと俺の着替えを用意し、テレビをつけ、更には目玉焼きとベーコンと白米を食卓に並べた。

 そんな様子をぼうっと眺めていたら、「ご飯が冷めちゃうよ」という言葉と共にコーヒーまで出してきた。



 この光景は確かに、俺が当たり前に生きてきた日常だ。

 それなのにどうして、新鮮に感じるのだろう。

 心に沁みるのだろう。



「紗波」

「ん?」

「俺さ、幸せ者だわ」



 紗波は目を見開いて、それからクスッと笑った。



「当たり前でしょ、小幸は誰より優しくて頑張り屋さんなんだから。

 いきなりどうしたの?」

「……酷い夢を、見たんだ」

「あら珍しい。怖い夢?」



 首を振る。

 あの夢に恐怖はなかった……気がする。

 夢の残穢ざんえを想起しようとするが内容はすでに朧気で、思い出すのにはかなり苦労しそうだ。



 不意にゴミ箱へと視線が移る。

 中は空っぽだ。



 そのことに、妙な違和感を覚えた。



「ゴミ、全部捨ててくれたんだ」



 俺の言葉を聞いた紗波は、くすりと笑った。



「何言ってるの。

 ゴミなんて、最初からなかったじゃない」








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以上を持ちまして、本作完結となります!

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【カクヨムコン10】虚夢 Aoioto @Aoioto

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