005
「やあただいま、ぱずるくん。遅くなってすまないね、ご飯はちゃんと済ませたかい。見てくれよ真白に曇ったこの眼鏡。ふふふ、眼鏡が曇ることに幸せを感じる日が来ようとはね」
おばさんは夜九時過ぎ頃帰宅してきた。相当降ってたのだろう、肩と頭が少し濡れている。
「おかえりなさい。お風呂も先に済ませましたよ。お風呂沸いてますけど、ご飯温めますか?」
「全く、浮いた話の一つさえも私の耳に届かないのが不思議なくらいに人のできた中学生だ。そうだね、先にお風呂に入らせてもらうよ。この通り全身雪まみれだったのでね」
そう言って肩を竦めた。
僕は現在、おばさん――
「誰かと一つ屋根の下で生活するなんて一生かけても無理だと思っていたけれど、やれやれどうして悪くないものだね。これだけ雪が降ってるのに部屋が暖かい」
湯上りのおばさんはひどくご機嫌だった。普段から開いてるかどうかわからない細い目がさらに細い。
「こんな寒い日に帰宅したら部屋が暖かくてご飯の用意がある、それだけで喜べないようじゃ人間罰が当たるというものだよ。ましてや――いや、やめておこう。こればかりは野暮というものだ」
僕はおばさんがお風呂から出るタイミングを見越して温めていた夕飯をテーブルに並べる。
「今日もお疲れ様でした」
「いやいや、こちらこそありがとう。今日も平和に過ごせたかい」
「ええ、おかげさまで」
「それはなにより」
満足そうに頷く。
つい最近まで黙食なんて言葉があり、その昔には食事は黙ってなんてマナーがあったそうだけれど、おばさんは特にそういうのは気にする様子は無い。というよりも起きている間は常に言葉を発していないと呼吸ができないのかと思うくらいにどんな時でもよく喋る。
「ところでぱずるくん、何か話があるんだろう?」
「なんのことですか?」
「違ったかな。てっきり相談事がある風に見えたんだけれど」
「……さすが、おばさんに隠し事はできませんね」
「鎌を掛けただけなんだけどね」
「…………」
「そう落ち込むものではないよ。これくらいの鎌掛けにひっかかるくらいには話したいことなんだろう。大切なテスト前だ、後顧の憂いを断っておこうじゃないか。ところで明日はバレンタインなわけだけれど――」
「お菓子の持ち込みは校則違反ですよ」
おばさんの台詞を遮り僕は答えた。
スマホの持ち込みは許可されているがお菓子は駄目というのも不思議な話だ。尤も、そのお菓子にしたってみんな当たり前に持ってきてるわけだけど。
「おばさんはエンゼル様って知ってます?」
一瞬だけ眉を顰め真剣な表情になった。
が、本当に刹那の事ですぐに元の表情に戻った。
「もちろん知ってるよ。発音から察するにこっくりさんの派生のエンジェル様ではなく、この街に蔓延る噂の方だろう?」
「発音って、そんなに違うものですか?」
「違うよ。フラグとフラッグは同じものを指していてもニュアンスで伝わり方が違うだろう? 最近はジャージとジャージーみたいな促音便を付ける付けないなんて話もあるけれどそれとは別な話さ。さて、エンゼル様の話だったね」
はぐらかそうとしたのに元に戻されてしまった。仕事にかかわりそうな話はすべきじゃなかったか。
「別に仕事の話が禁句ってわけじゃないよ。楽しくない話を自宅に持ち込みたくないだけで」
それは同じじゃなかろうか。
「イコールではないよ、十分条件というやつだ。高校生で習う範囲だから覚えておいて損はないよ――おっと、テスト前ならむしろ忘れておくべきだったか」
おばさんの主な仕事は火消しだ。
ただし本物の火事ではなく噂の。
情報は力であり力はお金になる。ならば、情報に対するメタゲームもまた力でありお金になるというものだ。というのがおばさんの言だ。
噂を否定し収束させ霧散させる。
手練手管で噂の価値を毀損する。
言葉にすると悪の権化そのものだけれど、やっていることは誠意のない正義や悪意の無い害意からクライアントから(相応の対価で)守る事なので、決して悪人というわけではない。
そんな仕事を天職とするおばさんなので、エンゼル様についても何かしら知ってるだろうと思っていたら、どうやら現在請負中の案件だったらしい。
「きみがエンゼル様の話を聞きたいという以上は現在進行形の噂と推測するがどうだろう。もし元ネタに関する話だったらむしろ情報を貰えると助かるよ。何分、私が小学生の頃に住んでいない地域で発生した噂なものでね。
ノストラダムスの大予言を知っているかい? 二十一世紀生まれには全く通じないなんて聞くけれど、二回り近くも離れれば当然か。信じられないかもしれないがあの頃は日本国中が人類滅亡なんて与太話に白熱していてね、そんな時期に発生したローカルな都市伝説が最近になってまた甦るとは。甦ったと言うよりはエンジェル様とエンゼル様みたいな呼称の被りと見た方がいいかもね。その呼称の被りが元ネタの属性と紐づいた感じかな。
今はまだ渦中の人物に接触できてないから迂闊なことは言えないけれど、危険性は低い。ただし今のところは、という注釈はつけておこう」
食事中だというのに本当によく喋る。
というかおばさん、アラサーだったのか。見た目というか身長が鮫部長程ではないにせよ低いので年齢が実感しにくい。かといって制服を着れば学生に見えるかと言えば……どうだろう、ギリギリ高校生OBと言えるかどうか。
「それで、そのエンゼル様の何の情報が知りたいのかな? いつの時代もこの手の街談巷説は教育関係者から特に目の敵にされていてね、おかげで食うに困らずなんだけれど」
「……クラスメイトがそんな話をしてたので気になっただけですよ。大丈夫です、おばさんの仕事の邪魔になるようなことはしませんから」
「そう約束してもらえると助かるよ。この仕事は信用第一なのでね」
「ぼくとしてもクラスメイトが危険な目に遭ってほしくないと思ってますから、早めの解決を期待しますよ」
「クラスメイトかい。友人ではなく」
「ええ、クラスメイトです。仲のいい」
「ふむ、なるほど。そういえばきみの口から友という言葉をまだ聞いたことがなかったね」
「そうでしたっけ?」
ふふふ、と何とも嫌な笑い方をする。
まるで何かを企んでいる誰かのようだ。
「より良い学生生活を送るためにも、早く友人を作ることを勧めるよ。中学でできた親友はそれこそ一生の友に成り得るんだから」
そんな無茶な勧めをおばさんは出した。
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