04:グランメゾン香坂

 笹本理香が居宅としているマンションは、「グランメゾン香坂こうさか」という名称だった。

 JR藍ヶ崎駅前の隣接地域に位置し、交通の便も良い高層集合住宅である。


 理香が易占居酒屋すみたを訪れた翌日、聖純は早速藍ヶ崎市香坂へおもむくことになっていた。

 目的は無論、理香に取りき、身辺で危険な現象を生じさせている怪異に関し、彼なりに可能な限りの調査を進めることだ。

 日曜日だから、聖純は大学の講義がないし、理香も仕事が休みらしい。


 前日の話し合いの中で、理香が「嫌な気配」を感じる場面は、特定の状況に限定されていないと推量されている。ただ一方ではベランダから転落しそうになったことも含め、自宅マンションで怪奇現象と遭遇する機会が比較的多いようだ。

 そこで差し当たり、今日は理香が起居する部屋を検分する予定だった。



 聖純も未熟とはいえ、緋河の家に生まれ育った司霊者の端くれだ。

 怪異の正体を突き止めて、調伏ちょうぶく――つまり、除霊や退治することはかなわなくとも、存在の有無を察知し、それがいっそう危うい事象を発生させ得るものかを判定する程度なら、たぶん試してできないことはないはずだった。

 無論根本的な問題解決の手段ではないから、必ずしも安心材料につながるわけではない。

 しかし人間にとって恐怖感とは、事物に対する「わからなさ」に根差すものだ、という言説もある。しからば、聖純が(未熟なりにも)理香の身の回りを調査し、もし何某なにがしかの知見を得ることができたなら、それが多少の気休めになるかもしれない……


 そのように提案すると、理香の暗くかげった顔には途端に希望の色が戻った。



「それはどうか、是非お願いします」


 ほとんど聖純の手を取って握ろうとするほどの物腰で、理香は頼み込んできた。


「ええと、お名前は――そうですか、緋河さんですね。かなりお若いようですけれど、霊能者でいらっしゃる点は、墨田さんが連絡してくださった玄濤さんという方と変わらないんですよね? わたしはそれなら、この際まず緋河さんに調べて頂くのも良いと思います」


「いやあ、しかしさっきも言ったが、まだこいつは見習い司霊者だからなあ」


 墨田は、困ったように口元をゆがめた。

 どうやら聖純が相談者とのやり取りに同席することには肯定的でも、さすがにいきなり実地で調査へ乗り出すことは安易に容認できないらしかった。


「いざ怪異と対峙したら下手を打って、かえって事態を悪化させたりすることもあり得る。それに万が一、聖純の身にまで何かあったら、オレの方が緋河の爺さんから叱責されかねん」


「仮に怪異と直接接触する機会があっても、極力刺激しないように気を付けます。祖父のことに関しては、僕の責任で墨田さんに不利益が及ばないようにしますから……!」


 聖純は言葉にちからを込めて、居酒屋の主人を説得しようと試みた。

 それでまた、墨田は少し考え込む素振りを覗かせる。たっぷり一〇秒挟んでから、聖純の側へ向き直り、釘を刺すように言った。


「わかった。そこまで言うのなら、おまえさんの好きにしろ。とはいえ相手の怪異は、こちらのお嬢さんに危害を加えかねなかった存在だってことを、決して忘れるんじゃないぞ」



 ……そういった経緯があって、事態は現状に至っている。

 尚、八津嶋玄濤は、いまだ墨田の店に顔を出していない。


 聖純は一人暮らししているアパートの部屋を出ると、JR新委住駅で電車へ乗り込んだ。

 しばらく車両に揺られ、藍ヶ崎駅で下車する。改札をすり抜け、香坂を目指して歩いた。

 現在時刻は午後一時半、空は抜けるような快晴だった。


 グランメゾン香坂には、駅前から徒歩五分余りで到着した。付近には他にも複数、高層建築物が立ち並んでいるのだが、それらの中でも目立って大きな建物のひとつだ。

 マンション一階の出入り口から踏み入って、足早にエントランスホールの先へ進む。

 コンシェルジュが待機する受付の前を通り、エレベーター脇の端末の前に立った。

 タッチパネルの画面に触れ、あらかじめ教わっていた部屋番号を打ち込む。


<――こんにちは聖純さん、本当によくいらしてくださいました>


 数回コール音が鳴ったあと、端末のスピーカーから理香の声が聞こえてきた。


<今エレベーターのドアを開けますね。ちょっと待ってください>


 少しだけ待つと、傍らでエレベーターのドアが来客を迎え入れるように開く。

 聖純は、画面の中の理香に礼を言ってから、そそくさと端末の前を離れた。

 近未来的な形状の昇降機へ乗り込み、壁のボタンで移動先を入力する。

 理香が住む部屋は、マンションの丁度一〇階らしい。一〇一六号室。


 独特な浮遊感を伴って、たちまち高層階まで昇った。

 指定のフロアに到着すると、エレベーターを降り、ホールから右側に伸びる通路を進んだ。

 そのまま奥の突き当りに達したところで、袋小路の片側に据え付けられたドアへ向き直る。

 ドアの真ん中には表札が掲げられていて、表面に「一〇一六・笹本」という記載があった。



 聖純は、微量の緊張を感じ、いったん深呼吸する。

 肩から掛けたボディーバッグの位置を直し、今一度身形を整えた。

 実は一人暮らしの女性宅を訪ねるのは、生まれて初めてのことだ。

 そこに特別な意味はないとわかっていても、あまり落ち着かない。


 思い切って、手近な位置にあるインターフォンのボタンを押した。

 電子音のメロディが奏でられ、その後にほどなく玄関ドアが開く。

 笹本理香が姿を現わし、聖純を部屋の中に招じ入れてくれた。


「今日は御面倒をお願いして、本当にごめんなさい」


 理香は、聖純をリビングへ通すと、かすかに表情を和らげた。


「でもこうして緋河さんに来て頂けると、それだけでもほんの少し気が紛れます。やっぱりここのところ、身に危険を感じるような出来事が続いていますから。一人で過ごしているときには、何だか心細くて」


 どうやら随分ずいぶん不安だったようだと感じて、聖純は同情した。

 聖純も大学進学以来は一人暮らししているものの、若い女性のそれは自分にわからない苦労も多いはずだと考えた。ましてや怪異のせいで命の危機に晒される状況は、常人なら理解しがたく、不条理にいきどおってもおかしくない。

 しかも理香は、以前から彼女自身が何かしらの怪異に憑かれている様子で――

 昨日から今も変わらず、うっすらと怪しい霊気を身にまとっているのがわかった。

 にもかかわらず、理香が気懸かりに耐えている姿は、健気にさえ見える。


 聖純は、それで余計に義侠心ぎきょうしんを刺激され、この件の支援を改めて誓った。



「あまり心配しないでください。いまだ見習いとはいえ、僕だって司霊者の端くれです。少しでも笹本さんに安心して頂けるよう、今日は頑張って怪異を調査させてもらいます」


「緋河さん、ありがとうございます……。とても心強いです」


 聖純が励ますと、理香は心打たれたように謝意をつぶやく。

 次いで若干はにかむような仕草を交え、目を横へ逸らした。


「あの、わたし、ちょっとお茶を淹れてきますね」


 たどたどしい口調で言ってから、理香はキッチンへ向かう。



 聖純は一瞬、口篭くちごもってから、彼女の背中に「どうぞおかまいなく……」と声を掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年12月12日 20:05
2024年12月13日 20:05
2024年12月14日 20:05

気怠げ司霊者と迷える門人 坂神京平 @sakagami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画