03:怪しい霊気

 聖純ら三人は、思い思いに居酒屋のテーブル席を囲む。


 年若い女性は、自らを笹本ささもと理香りかと名乗った。年齢は二五歳だという。

 ミディアムロングの黒髪で、大きな瞳が印象的だ。白いブラウスとロング丈のスカートを着用し、ペールカラーのカーディガンを羽織っている。胸元には、洒落しゃれた意匠のネックレスが揺れていた。メイクは派手過ぎず、清楚で目を引く雰囲気がある。

 藍ヶ崎市内のIT企業に勤めていて、広報の仕事をしているらしい。



「実は数ヶ月前から、身の回りで何となく嫌な気配を感じることがあるんです」


 笹本理香は、細く整った眉をひそめ、不安そうに言った。


「近くに自分の他は誰もいないはずなのに、妙な視線が向けられているような気がしたりとか。背中に突然、不気味な悪寒を感じたりとか。あとそういうことがあった直後には、吐き気をもよおすときもあって……」


「ふむ。念のためにいておくが、そいつは思い過ごしや体調不良なんかじゃないんだよな?」


 墨田は、手続きを踏むような口調でたずねた。

 相談者の悩みが怪奇現象以外である可能性を、事前に除外するための確認だろう。

 理香は、真剣な面持ちでうなずくと、胸の前で祈るようにして両手を組み合わせた。


「先月は藍ヶ崎市内と隣町の星澄市で数箇所、病院を受診してみました。お医者様がおっしゃるには、体調は一切問題ないみたいなんです。でもだからと言って、あの嫌な気配が勘違いとは、どうしても思えません。特に最近は、毎日のように視線や悪寒を感じる瞬間がありますから」


「毎日のように、ね。するとひょっとして、今日もその気配を感じることがあったのかい」


「ええ、はい。実は朝起きたときと――」


 墨田の質問に対し、理香は記憶を手繰たぐるように答える。


「それから自宅を出て、ここへ来る少し前に鐘羽南七条の駅構内で」


「じゃあ、何か特定の条件が揃った場合に気配を感じる、なんてことはないか。例えば、特定の場所を歩いているときによくそうなる、とか」


「それはどうかしら……ちょっと即座には思い付きません。強いて言えば、自宅で過ごしているときに感じる機会は比較的多いかも。ただ平日は職場以外だと、自宅で過ごす時間が多いのは、当然と言えば当然ですから。それが特定の条件と言えるかはわかりませんし、自宅以外の場所でも嫌な気配を感じることはそれなりにあるので」


 墨田は、うなるように「なるほど」とつぶやいた。

 そのあとわずかに間を置いてから、理香がさらに言葉を継ぐ。

 殊更ことさらに深刻そうな口調になって、少し肩が震えていた。


「あと、わたしの自宅はマンションなんですけれど。先日の夜、頭が突然ぼうっとなったことがあったんです。それでたぶん数分ほど、かなり意識が曖昧あいまいになって――次に気付いたときには、いつの間にか部屋の窓を開けて、ベランダに立っていたんです。しかも上半身を、半ばベランダを囲うコンクリートの上へ乗り出して!」


「ベランダの囲い……というと、転落防止用コンクリート壁のことか。その上に乗り出したってことは、マンションから転落しそうになったのか!?」


 墨田が目をいてくと、理香は「はい」と答えて首肯する。


「幸い寸前のところで我に返ることができましたから、大事には至りませんでしたけれど……」



 聖純は、やり取りを隣席で傍聴しながら、密かに理香の様子をうかがっていた。

 理香の身体には、今もまさしく、うっすらと怪しい霊気がまとわり付いている。

 もっとも何が原因で生じたものかは、聖純がた範囲だと、まるで判然としない。世の中には司霊者に限らず、先天的に強力な霊視能力を有している人物もいるので、あるいはそうした目で視れば、より詳細な事実を探り当てることができるのかもしれないが。



「なあ聖純。おまえさんは今、お嬢さんの話を聞いてどう思った?」


 と、そのとき墨田から意見を求められた。


 聖純は、最初に「そうですね……」と言って、落ち着くための間を少しだけはさむ。

 それから微妙な緊張感にあらがいつつも、おもむろに自らの意見を述べてみせた。


「個人的な印象ではありますが、笹本さんのお話がいい加減な虚言とは思いません。少なくとも笹本さんの身体には現在、何か良くないものがいているように感じます」


「そうなんですか? じゃあ、それが悪い出来事の原因なのでしょうか」


 聖純の所見を聞くと、理香は幾分テーブル上へ身を乗り出す。

 縋るような瞳を向けられ、聖純は若干当惑を禁じ得なかった。

 自らを戒めるように居住まいを正し、「おそらく……」と答える。


「うむ、オレもおおむね聖純と同意見だ」


 墨田は緩い所作でうなずき、聖純の言葉に賛意を示す。

 霊能者の血筋だから、墨田にも理香の纏う怪しい霊気が視えるのだろう。

 今一度思案する素振りを覗かせ、懐中からスマートフォンを取り出した。


「とはいえ『無意識にマンションのベランダから転落しそうになったことがある』ということになると、こいつはわりと厄介な怪異が関わっている事案かもしれんぞ。今すぐは無理としても、やはりできるだけ早く玄濤を呼んで、あいつにどうにかさせる必要がありそうだ……」


 墨田はスマホの画面をタップし、アプリを操作しているらしかった。

 しかしほどなく渋い顔になって、かぶりを振りつつ溜め息をく。


「やはり駄目だな。アプリの通話機能で呼び出しても反応がないし、メッセージにもいつ既読が付くかわからん。とりあえず折り返し連絡を寄越よこせと催促しておいたが、そもそも玄濤のやつと来たら今もどこで油を売っているものやら」


 この調子だと、早くても明日までは連絡が付かないだろう――

 というのが、どうやら墨田の見立てのようだった。



「そうすると、わたしの身の回りで起きている出来事についても、原因や詳細がはっきりするのは明日以降ということになるのでしょうか」


「申し訳ないが、そうならざるを得ないみたいだな……。いや実際は仮に玄濤を捕まえることができたとしても、あいつがすぐさま解決に乗り出そうとするかはわからんが」


 理香が心細そうにたずねると、墨田は僅かにうつむいて言った。

 顔をしかめ、左手の指で眉間を摘まみ、おもむろに揉んでいる。


「だからもしかすると、お嬢さんにはしばらく先まで、何とか今の状況に我慢してもらわなきゃならないかもしれん。そのあいだにも何が起こるかわからないから、きっと不安だろうが」


「そ、そうなんですね。あとしばらく先まで……」


 理香は、明らかに失望した様子で、ちからなく肩を落とした。

 さらにもう一度「あとしばらく先まで」と、鸚鵡返おうむがえしにつぶやく。


 聖純の目には、彼女のそうした姿がいかにもいたわしく、気の毒に映った。

 同時にまた、いまだ面識のない八津嶋玄濤に対しても、いささか苛立ちを覚えはじめている。

 墨田の話に従えば、玄濤がここへ姿を見せていないことには、特段深い事情はなさそうだ。単に物臭で万事にだらしなく、気まぐれなところがあるためらしい。

 不真面目で、仕事に対する誠実さにも欠ける姿勢だった。どうして祖父はそのような人物を、聖純に教えを乞うべき相手として紹介したのだろうか。


 とにかくそのせいで怪異に悩まされている女性が一人、目の前で肩を震わせ、おびえている。

 聖純とすれば、決して正しいこととは思えないし、当然黙って見過ごせるものでもなかった。


 なぜなら聖純は将来、立派で正しい司霊者にならねばならないのだ。

 緋河の家は、怪異に苦しむ人を救う、尊い仕事に代々従事してきた。

 そうして彼は、その誇り高い後裔なのである。



「あの、もし笹本さんがご迷惑でなければ」


 だから聖純は、居ても立ってもいられずに申し出た。


「八津嶋さん――ええと、ここに出入りしている腕利きの司霊者の方だそうですが、その人が店に姿を現わすまでは、僕ができるだけ怪異についての調査を進めておきましょうか……?」

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