少しの安息

「おかえりなさいませカリナ様。お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも勉強いたしますか?」


 王城へ入るやいなや、使用人の一人が声をかけてくる。


「ありがとう。でも、そうだな……私はまず、風呂と食事だけとろうかな。勉強は、やることを達成した後で行う方がいいだろうしね」

「かしこまりました。して、後ろの方はどなたですか? ……こう言っては何ですが身なりが汚らしい貧民に見えるのですが……」


 使用人が汚らわしい視線を向けた先にいたのは、ボロボロな服に身を包むヴァナネルサだ。ヴァナネルサは使用人から言われたことに対し小首をかしげ、


「……きたない?」

「えぇ汚いです。すぐさまお風呂に入ってほしいほどです」

「……おふろ?」

「お風呂を知らないのですか? カリナ様、一体どこから拾ってきたんです?」

「オーリスの森よ。奴隷証明を行うために捕らえてきた敵兵の捕虜」


 その言葉を聞いた使用人が目を丸くし、携帯していた武器を取り出す。

 銀色に光り輝くナイフだ。


「カリナ様、もしかして脅されているのですか?」

「違うわ」

「じゃあなんですか? 助けるメリットなんてありますか?」

「うん、あるわよ」


 カリナは微笑みながら、使用人の言葉を受け流すように答える。その態度に、使用人は困惑の表情を浮かべた。


「メリット、ですか? 一体どのような……?」

「簡潔に言えば、回復魔法にたけていることね」

「……なるほど。どのぐらいですか?」

「頭蓋骨が砕けても骨から皮膚まで全完治させるほどよ」


 その言葉を聞いた瞬間、使用人の顔が引きつる。


「頭蓋骨が砕けても……骨から皮膚まで全完治、ですって?」

「ええ。それも、ほんの数秒でね」


 カリナは平然と答えたが、使用人は眉をひそめながらヴァナネルサを改めてじっくりと見つめた。ボロボロの服に汚れた顔、明らかに貧しい身なりの彼女がそんな力を持っているとは、とても信じられない。


「それが本当だとすれば、確かに驚異的ですね……ですが、そんな力を持つ者がなぜ敵軍の捕虜になっていたのでしょうか?」

「……話せば長くなるわ。それより、早めに食事をとらせてくれないかしら? 話し続けていると、報告会出席の際に頭が回らなくなるから」


 カリナの言葉に、使用人は一瞬表情を曇らせたが、すぐに深く頭を下げた。


「かしこまりました。それでは食堂の準備をさせていただきます。こちらへどうぞ」


 カリナはヴァナネルサの手を軽く引き、歩き出した。彼女の歩調は自然体だが、どこか先を急ぐような雰囲気も感じられる。


 使用人は二人の背中を見送りながら、ひとり呟いた。


「……話せば長くなる、ですか。いったいどれほどの事情が隠されているのか……」


 そんな使用人の声は、二人の耳には届かない。



 カリナが風呂を終え、自室の窓際に立つ頃には、外の庭園は静寂に包まれ、月明かりが優しく照らしていた。窓から差し込むその光を浴びながら、彼女はふと、遠くを見るような目つきで物思いに耽る。


(……もう、三か月か。時間が流れるのは早いな)


 彼女の心に去来するのは、アリスのことだった。三か月前――その記憶は未だ鮮明で、時折夢の中でさえ繰り返される。


 過ちの記憶は、まるで消えない傷のようにカリナの胸に刻まれていた。どれだけ時が経っても、その痛みは薄れることなく彼女を苛み続ける。変えられない過去――それがどれほどの苦しみをもたらすものか、カリナは嫌というほど知っていた。


(……髪留めは、しまっておこう)


 今は亡き友との繋がりを外し、机に保管していると。

 ヴァナネルサが風呂場から出てきた。男の裸体を見ても、カリナはあまり驚かない。



 ヴァナネルサが風呂場から出てきたとき、その姿を見たカリナは特に驚きの表情を浮かべることはなかった。


 濡れた髪が肩に張り付いているヴァナネルサは、男性のような引き締まった筋肉を備えた裸体を隠そうともせず、まるでそれが当然であるかのように振る舞っていた。彼女――いや、彼がカリナの前に堂々と立つ姿は、不思議と違和感を覚えさせなかった。


「……どうしたの?」


 カリナが穏やかに問いかけると、ヴァナネルサは小首をかしげて首筋を掻く。その動作もどこか自然で、彼が裸でいることに対して特別な意識がないことが伺えた。


「きるふく、どこ?」

「そこにきれいな服があるじゃない」

「……きれい?」


 カリナは少し困ったように眉を寄せるが、すぐに言葉を選び直す。


「うーんと……まぁ、あれよ。地面が汚れたりしないやつ」


 その説明にヴァナネルサは小さく頷き、「なるほど」と呟いて服を手に取った。


 彼が服を着ようとする仕草はどこかぎこちなく、ボタンを留める手つきは不器用だった。それでも、彼なりに「きれいな服」の概念を受け入れたようで、最終的にはなんとかシャツを身にまとった。


 その様子を見て、カリナは小さく息をつきながら彼に声をかける。


「よし、それでいいわ。さっきよりはずっと見られる姿になったわね」

「きれい……こういうこと?」


 ヴァナネルサが自分の服を引っ張りながら確認するように言うと、カリナは苦笑いを浮かべて頷いた。


「そうよ。それが、ここの“きれい”ってやつ。覚えておきなさい」

「わかった」


 ヴァナネルサが満足そうに頷くと、カリナは少しだけため息をつきながらも、彼の無邪気な反応にどこか微笑ましさを感じていた。


「それじゃ、食事の準備ができているわ。行きましょう」


 カリナは彼を促すように部屋を出て、静かな廊下を歩き始めた。ヴァナネルサはその後ろを黙ってついていく。


 二人の歩く足音が静かな城内に響き、時折、カリナはふと後ろを振り返りながらヴァナネルサの姿を確認する。彼は特に不安そうでもなく、ただ静かにカリナに従っている。特に作為的な考えは見られなかった。


 そう分析していると、二人は食堂に到着する。


 食堂は王城の一角にあり、王国のエリート部隊である近衛憲兵から雇われ兵士までが共に食事をとる場所だ。その雰囲気は硬く、規律が感じられるものの、兵士たちの表情にはどこか温かさも見え隠れしている。カリナはその場に慣れた様子で席を取ると、ヴァナネルサも無言でその後ろに続いた。


「ここが兵士用の食堂よ。見た目は豪華じゃないけど、食事の質は悪くないわ」


 カリナが簡単に説明すると、ヴァナネルサは目をぱちぱちとさせながら周囲を見回す。特に目を引くものはないが、彼の目には不思議そうな色が浮かんでいた。


「これ、たべられるの?」

「もちろん」

「ふぅん……」


 彼が無邪気に尋ねると、カリナは軽く笑って答える。

 すると彼は――スプーンをもってかみ砕こうとする。


「がたい……」


 ヴァナネルサがそのままスプーンを手に取って、食べ物をかみ砕こうとする姿に、カリナは一瞬驚いたが、すぐに優しくその手を止める。


「……それは、食べられないわ。こうやって使うのよ」


 カリナは説明するように、スプーンを使ってスープをすくい、フォークで食べ物を切り分ける所作を見せる。ヴァナネルサは目を見開き、興味津々でその動作を観察した。


「こうやって……?」


 ヴァナネルサは一度、カリナの動きをじっと見た後、自分でもスプーンを手に取って、試しにスープをすくってみる。それを口に運ぶと、彼の顔に初めて安堵の色が浮かんだ。


「……あ、食べられる」


 その無邪気な表情に、カリナは思わず小さく笑った。ヴァナネルサが少しずつ食事に慣れていくのを見守りながら、カリナは少しの間、彼に言葉をかけなかった。


 やがて食事を終えると、カリナは自らのプレートに乗った食器を片付け始めた。手際よく動きながら、彼女はヴァナネルサがまだ戸惑っている様子を見て、少しだけ歩みを緩める。


「食器を片付けるのも、ここの“きれい”の一部よ」


 そう言って、カリナは使い終わった皿やカップをまとめ、食堂の隅にある返却台に向かって歩き始めた。ヴァナネルサはそれに続き、カリナの後ろでゆっくりと動く。


「これもやらないとダメ?」


 ヴァナネルサが少し困惑したように問いかけると、カリナは振り返り、軽く頷いた。


「ええ。食事の後はみんなこうして片付けるのが当たり前だから」


 返却台に着くと、カリナは皿を台に乗せ、次々に食器を整理しながら続けた。


「ただし、最初から全部を完璧にこなす必要はないわ。最初は少しずつ、慣れていけばいい」


 その言葉に、ヴァナネルサは無言で手を動かしながら、カリナの真似をしようとする。まだぎこちなさはあるものの、その努力がどこか微笑ましく、カリナは再度彼を見守った。

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