2)


 ★


 「三万円だって?」


 「うん、何か欲しいものを買ってもらおうと思っていたんだけど、やっぱりお金が一番かなと思って」


 それは僕も同じ意見だ。ものを貰うよりも金銭のほうが良いというのは。


 「三万ぽっちで契約成立ということ。お兄ちゃんがやってしまった悪事を内緒にする、全部なかったってことにしてあげる」


 「なるほどね、君が僕をわざわざこのファミレスに呼び寄せた理由がよくわかった。これは家の中では交わせない話題だ」


 天架と二人きりで逢うなんて珍しいことではない。

 それは絶対に起こり得ない出来事なのだ。

 それなのに彼女に呼び出されたのだから、こんな僕でも驚いていたのだけど、全て納得した。


 「そういうことか」


 「まあ、そういうことです」



 ★


 「いやいや、しかしこの写真に三万の価値はないなあ」


 さて、この小娘をどう言いくるめようかな。


 「この写真の価値は、そうだね、まさにチョコレートパフェ一つ分くらいかな」


 「でもさ、お兄ちゃん、ただでさえ我が家では肩身が狭いのに、浮気がバレたら更に家に居ずらくなる。うちのパパもママも、お兄ちゃんのこと、凄い嫌ってるじゃん。気づいているでしょ? 陰口ばかりよ」


 「え? マジかよ」


 驚いた振りをするが、そんなこと知っている。僕は妻の両親に、バッチリ嫌われている。

 しかし同居している義理の親に好かれるなんて、そんな難しいゲームをこなしているコミュニケーション猛者なんているのか。

 僕たちだって表面的には仲良くやっているはずだ。

 別に無視し合っているわけではない。憎しみ合っているわけではない。

 妻の両親だって、僕のいないところで悪口を言っているだけ。礼儀は守っているわけだ。だから何の問題もない。


 「離婚とか恐くないの?」


 「恐いね」


 それは困る。本当に困る。しかしそんな事態にはなりえないだろう。

 妻は妊娠をしているのだから、僕を捨てられるわけがないではないか。

 まあ、栗子のことだ、頭に血が上って何を決断するかわかったものではないが。

 あの女、根が愚かなのだ。衝動的なタイプで、忍耐強い人間ではまるでない。


 「でも三万は無理だよ、今、財布にそんなお金ないしね」


 「お兄ちゃんはまだ自分の置かれている状況を理解してないみたいね。そんな言い訳で私が引き下がるわけないよ」



 ★


 「確かに離婚まではないかもしれないよ。それは私だってわかってる。でも浮気がバレたらお姉ちゃんに怒られる。軽蔑される。きっと面倒なことになる。それは確実よね?」


 「そうかな、どうだろうねえ」


 「お姉ちゃんが怒ったら、本当に面倒じゃん。妹だから、よく知ってるもん。そんなことになるより、さっさと三万払ったほうが楽だと思うわけよ。別に私だって三十万欲しいって言ってるわけじゃないわけで」


 「僕も大変なんだ、大人だからけっこうな大金を持っていると思っているかもしれないけれど、稼いだ給料は全部妻のものだ。小遣い制なんだよ。僕の一か月の小遣い、知ってるか?」


 「五万でしょ?」


 「お、おう、その通りだ」


 「三万円くらいだったら、払えない額じゃないことはちゃんと把握してるんだけど」


 天架はそう言って、改めてその小さな手の平を差し出してきた。



 ★


 というわけで、僕は脅迫されている。三万円払えと脅されている。

 しかし何だろう、別に最悪な気分を味わっているとは言えない。むしろ愉快な気分だった。

 僕はネクタイを緩めながら、ファミレスの安っぽいビニール製の椅子に座り直す。

 一方、天架はなかなかに無邪気な表情で、チョコレートパフェに貪りつきだした。


 「美味しい?」


 僕は尋ねる。


 「はあ? まあね、このウエハースがアイスクリームとマッチしてて」


 「それは良かった」


 実際、微笑ましい姿だ。

 こんなにこのチョコレートパフェが美味しいのであれば、もう一つ追加に注文してやってもいい。

 別の何かがいいのであれば、別の何かを注文してやる。

 僕はこの義理の妹を憎んではいない。


 確かに脅迫されている。弱みを握られ、ゆすられている。

 しかしこれは子猫がじゃれてきている程度のことで、その気になればいつでも彼女の首根っこを掴まえて、「おい、あんまり大人を舐めるなよ」と、本気のトーンで叱ってやればいいだけなのだ。

 すると、恥じ入りか、恐れるかして、天架はすぐに黙ることだろう。

 それで全ては解決する。


 だけど、そんなことはしない。僕はこのうら若い妹とのコミュニケーションをもう少し楽しもうと思う。

 妻と結婚してから三年。つまり、天架と同居してからも三年。それなのに僕たちはまだ打ち解けているとは言えない。



 ★


 むしろ僕たちは避け合っていた。

 妹とはいえ他人だ。血はつながっていない。

 そもそも、こんな年頃の女子と一緒に住むこと自体が無茶なことで、僕たちが避け合うことになるのは当然のことだった。

 それが人間の本能として自然というかね。

 だって家の中に制服姿の女子がウロウロしているんだぜ。男ばかりの兄弟の中で育った僕にとっては、ちょっとした異界の光景。

 短いスカートから突き出た生足がニョキニョキと、女の香りを漂わせながら、冷蔵庫の前で屈んだり、ソファの上で安らいだり。

 目のやり場に困るのだ。

 確かに嫌じゃない、嫌じゃないのだけど、しかし僕もプライドがあり、義理の妹に邪な欲望を抱いているんじゃないかって疑われたくない。

 だから過剰に自制してきた。

 それはけっこう疲れる。窮屈な想いをさせられる。


 しかもだ。僕の妻は嫉妬深いタチだった。疑い深くさえある。妹が相手とはいえ、夫が異性と仲良くしていることを快く思わない。

 そもそも妻の家族と同居したことが間違いだったのである。


 しかし妻の栗子は自分の両親に過剰に依存もしていた。離れては生きていけないらしい。

 ましてや今、妊娠もしている。僕がこの環境で暮らすことになったのは不可避な運命。



 ★


 僕の結婚生活はこのような形態をとっている。

 妻の栗子。

 十二歳年下の妹の天架。

 彼女たちの両親。

 そして僕。そんな環境で暮らしている。


 栗子よりも十二歳も年下ということは、天架は僕よりも十二歳離れているということだ。

 出会った頃は小学生だった彼女も、すっかり成長した。

 それは確かだ。

 しかしだよ、その年の差はデカい。そんな女子が栗子のライバルとなりえようか。 

 なるわけない。

 それなのに我が妻は、しばしば僕を牽制するような言葉を言い放ってくる。


 「あんな若い少女に興味を持つなんて、大人の男として最低よね、そう思わない?」


 テレビとか雑誌とかで、天架と同じような年頃の若い女優やアイドルが出ているのを眺めていると、彼女はチクリと突き刺すように言ってくるのだ。

 その少女のファンたちに向かって、「病気だわ、人間としての本能が壊れているに違いない」みたいなことを、様々に言い方を変えて。


 ましてや、幼い少女が性的目的で殺されたりする事件をニュースで観たとき、それはもう大変な騒ぎである。


 「嫌。不潔。世の中狂ってる! だって、まだこんな年齢なのに」


 つまり、我が妻の栗子は、このような年齢の女子に邪な欲望を持つ成人男子全て、犯罪者として規定したいようなのである。

 いや、その発言の真意はこうである。


 天架に一切の興味を抱くな! 


 そんな僕への警告。


 「そうだね、嘆かわしいことだ、うんざりするね」


 僕は返答する。


 「子供は子供だよ。それなのに!」


 おいおい、戦国時代は彼女たちの年齢で結婚してたんだぜ。

 そんなことを言い返したりしない。当然だ。僕は常識側の人間である。


 「本当にどんどんこの世界はおかしくなってるよ。インターネットとかグローバル化のせいかな。日本の良いところがなくなってるね!」


 世の中の現状を嘆いていれば、それだけで人間的に信用される気がする。

 やり過ぎると逆効果だけど、適度に。温暖化を心配して、隣の国の独裁体制を批判して。

 これが僕の処世術だ。会社でもこんな感じである。その結果、信頼感を勝ち得ているのだから、悪くない生き方だろう。

 妻が相手であっても、その仮面を被って生きている。

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