5)


 「階段を上るとき、必死にスカートを抑えたから」


 天架は僕の耳に口を寄せて、フフと笑いながら囁くように言ってくる。


 「寒くないか?」


 僕は別に間違ってはいないが、間抜けなことを質問してしまう。


 「まあ、それなりに。でもずっと考えてたんだけど、この人、痴漢です。下着奪われましたって言えば、お兄ちゃんの人生はやっぱり完全に終わるよね?」


 「はあ?」


 「だって実際、お兄ちゃんのポケットにそれはあり、私は制服の下は何も着てない状態で」


 「何を愚かなことを! リアリティがないだろ? そんな犯罪。君はブラウスを着ているのに、どうやって下着だけ剥ぎ取れるんだよ」


 「自分でボタンを引き千切るから。キャー、痴漢って叫ばれたくなかったら、例のお金をさっさと払ったほうがいいよ」


 天架は再び脅迫を始めやがった。まあ、昨日からこの瞬間に至るまで、ずっと彼女は脅迫者であったが。


 「君がそんなことするわけがない。電車の中で大声を出せば、みんな、君に注目するんだぞ。そんな恥ずかしいことが出来ないタイプの性格だ。本当の痴漢に襲われても、君は声を出せない、そうだろ?」


 「え? 出来るけど。証明しようか?」


 「強がりはこれくらいにしておけよ」


 「二十万のためなら、それくらい余裕よ」




 「わかった、君が叫ぶ。僕は取り押さえられる。そして鉄道警察に連れていかれるとしよう」


 「そんな警察、あるんだ?」


 「さあ、その名称は知らないが、鉄道での痴漢犯罪専門の捜査官は存在するはずだ」


 「ふーん」


 「駅長室なのか、取調室なのかわからないけど、僕はそこに連行されるだろう。しかし僕はそのとき、自分の無罪を証明するため大胆な行動に出るだろう。追い込まれて、仕方なくだ。もちろん、そうさ。でもこの行動に出れば、無罪を証明出来る、そんな行動だ」


 「何それ?」


 「君はまだ人生経験が少なくて、男の身体のメカニズムに通じてないかもしれない。しかしあるのさ、そういう手段が」


 「まるで意味がわからない」


 「だから君は僕を痴漢に仕立て上げることは絶対に出来ない」


 「どうして?」




 「つまり、性的に興奮したら、それなりの痕跡のようなものが発生する」


 いったい僕は何を言っているんだ。自分でも思う。こんなことを義理の妹に口にするなんて恥ずかしいに決まっている。

 しかしこっちだって必死なのだ。何が何でも天架に言い包める必要がある。痴漢にされるなんて溜まったものではない。


 「え? 何言ってんの?」


 「つまり、男の身体から出る、ある液体だよ」


 「はあ? 何それ」


 「女だって同じようなものだろ」


 「女も同じ?」


 僕はこれまで以上に声をひそめて、絶対に周りの乗客に聞こえないように、天架の耳元に口を近づける。


 「射精くらい知っているだろ?」


 「え? どうかなあ」


 充分に知っている者のリアクションだろう。


 「それに至る前の予兆というかね。地震で言えば、本震の前の余震が起きるだろ? それに近い事象だろうか」


 「はあ・・・」


 天架は首を傾げている。この表情は本当にわかっていない可能性もありそうだ。


 「だから濡れるってわけだよ、男も女と同じで、ある種の興奮状態になると」


 「あっ!」


 ようやく彼女もわかったようだ。そして心なしか顔を赤らめる。なんならば、この僕を軽蔑するような視線をすら送ってくる。


 「刑事さん、見て下さいと言って、僕は自分の下半身を曝け出すさ。この僕が性的な興奮状態にあった痕跡になんてまるでありませんよね? そうやって堂々と言う」


 「お兄ちゃんって意外と剽軽なところあるよね。家の中にいるときと全然違う」


 当然だ。家庭の中では偽りの自分を演じているのだから。妻の栗子と彼女たちの両親の前で、僕は必死に紳士の振りをしている。


 「おい、別に君を笑わすために言ってるんじゃないぞ。僕を痴漢に仕立て上げるのは無理だってことを言ってるんだ」


 「でも面白いけど、そんな情けない姿、想像もしたくない」


 天架は軽蔑どころか嫌悪感を覚えようだ。僕の隣に寄り添うように立っている彼女の身体の重心が、逆方向に傾いた感じ。


 「僕だって、刑事たちに下半身を曝すのは嫌だ。最悪だよ。そうだとしても! 冤罪を証明するために、やるよ。仕方なくね。無罪が証明されれば、逆に君が補導されるってことになるだろう」


 「それは困る」


 「だろ? だからそんなことをするなって言っているんだ」




 「あっ!」


 天架が手を打つ。


 「え?」


 「ということは、その痕跡が残っていれば、お兄ちゃんはどうやっても言い逃れ出来ないってことじゃない」


 「はあ?」


 「凄く有効な情報を教えて貰ったかもしれない」


 「何がだよ?」


 「だからお兄ちゃんを犯罪者に仕立て上げる方法」


 そのとき電車が次の駅に到着した。アナウンスと共に、速やかに電車の扉も開いた。

 プシューという、あの独特の空気の音が響く。


 「本当に痴漢をさせれば、興奮した痕跡が残るわけでしょ」


 乗客たちが移動する。降りる客と乗って来る客が入れ替わるときのその流れ押し流されるようにして、さっきまで隣に立っていた天架が僕の正面に移動してきた。

 「正面は恥ずかし過ぎるや」なんて言葉をつぶやいて、彼女はゆっくりとその身体を反転させていく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る