4)


 彼女からメッセージが来て、やり取りをし合って、満員の普通列車は一駅か二駅かを過ぎた。

 その間、扉が開き、僕の近くに立っていた何人かの乗客は降りていき、束の間、その圧迫から解放されたかと思うと、また新しい乗客が乗り込んできて、また圧迫されて。

 その間、スマホの画面に夢中になっていた。周りに対して、まるで配慮をしていなかったと言っていいだろう。

 歩きスマホに夢中で、車に跳ねられたり、高い所から落下したりして、命を失う間抜けな人物は後を絶たないくらいだ。

 この機械はそれくらい周囲への注意が疎かにしてしまう。

 天架が傍に立っていたとしても、僕が気づくことはなかっただろうけども。


 本当にいるのか? 

 「いるよ」と、そのとき小脇を突かれた。

 すぐ隣に制服姿の女の子が立っていた。まるで亡霊のように、あるいは暗殺者のように、もしくはスリのように。

 下を向いている。垂れ下がった髪の毛で顔が見えないが、まあ、天架なのだろう。その学生が顔を上げると彼女だった。


 「十万円だっけ? 二十万円だっけ? 例のお金の徴収に来たんだけど」


 そのとき電車がカーブに差し掛かり、大きく揺れる。

 彼女は僕に寄りかかってくるのだけど、肩だけをこちらにぶつけて、上手くバランスを取った。

 さすがに満員電車に馴れているようだ。


 一瞬、何か起きるのではないかと期待した気がする。つまり、天架は身体を密着させてくるのではないかと思ってしまったのだ。

 今朝の件があったからだ。冷蔵庫の前で、わざと天架は僕に身体を押し付けてきたではないか。

 あの事件はまだ終わっていなくて、まだ依然と継続している気がしていたのだ。

 いったいどういう思惑で、あのようなことをしてきたのかわからないのだけど。

 また揺れる。僕は咄嗟に吊り皮を掴む。天架はまた、肩だけぶつけてくる。




 「学校じゃないのか、君だって」


 「もちろん、そうだけど」


 同じ電車に乗り込んでくるくらいだから、こいつ、むしろ僕のことが好きなのではないか。

 そんな疑惑さえ抱きかけている。


 十万円だ。お金が欲しいのだろうけど。


 しかしその事実を忘れるくらい、天架はまるで恋人のように、僕に身体を寄せていた。


 こいつ、良い女になりそうである。それは向かい合っただけではわからないが、横に立たれたとき、連れ立って歩いたりしたときに、フィールングを感じるかどうかでわかるもの。

 天架から、その良い女フィーリングを、ドキドキするくらいに感じ入るのである。




 「学校の方向は?」


 「逆のほう」


 「おいおい、何をしているんだよ?」


 僕は義理の兄らしく、彼女の不真面目を叱ってやる。


 「だからお金を貰うために来たって言ったでしょ。遅刻なんて別に大したことないじゃない、十万円が手に入るのなら」


 「手に入らないから、さっさと降りろよ」


 「だから、どうしてそんなに強気でいられるの? お兄ちゃんはまだ自分の立場をよくわかってないよね。ありとあらゆる意味において、不利な状況にいるってことを」


 「わからないね。僕の弱みを握って、それで意のままになると思っているとしたら、それはもうとんでもなく甘い見積もりだ」


 「お兄ちゃんはもう追い詰められていると思うんだけど」


 「まるで追い詰められていない! いや、実は三万円くらいなら払ってもいいかなって気になってきたことは確かだよ。君があまりに執拗だからね。まさか同じ電車に乗ってくるとは」


 「じゃあ、三万円で今日のところは引き下がろうかな。残りの十七万円はまた後日ね」


 「0か三万だよ。これでケリをつけようって交渉だ」


 「無理」


 「無理じゃない」


 いつのまにか二十万になっていることに触れる気にもならない。


 「妥協も重要だよ、天架ちゃん、それが誰かと交渉するときの鉄則だ」


 「ふーん」


 「相手が譲歩したんだから、君も譲るんだよ」


 「勉強になったかも」


 「そうだろ? だって三万円が手に入るんだ。君にとって大勝利だろ?」


 「さあ、どうかな」




 「二十万円を貰うのも当然だけど、実は返して欲しいものがあるんだけどね」


 「え? ああ、あれか」


 例のものだろう。返して欲しいものと言われたら、ピンと来るに決まっている。上下下着のセットである。


 「もちろん喜んで返す。さっさと持って帰ってくれよ」


 「会社の誰かにバレたら恥ずかしいよね?」


 「ああ、変なあだ名をつけられるだろう」


 「なんて言い訳するの?」


 「妻のだって言うしかないだろう」


 「じゃあ、お姉ちゃんにばれたときは?」


 「自分のものだって言うしかないだろうな」


 天架はその言葉が面白かったようで、腹を抱えて笑い始めた。

 朝の静かな満員電車の中で、その笑い声は明らかに異物であった。心なしか、電車内に緊張が走った気がする。

 こいつら、朝からワイワイ騒ぎやがって! 俺たちはこれから会社や学校なのに。随分と良い御身分のようだな。

 僕も天架も、そのような空気に気づかないわけがなかった。


 「返してよ、二つとも」


 天架は囁くように言ってきた。まるで聞こえないわけではなかったが、僕は身を屈めて、彼女のほうに耳を寄せる。


 「何だって?」


 「返して、あれを」


 彼女の声が耳に触れた。ゾクリとする感触である。


 「ああ、わかった」


 しかし返すとなると、何か惜しい気がしてきた。

 いや、まるで僕にはそのようなフェティッシュな趣味はないのだけど。

 人並み以上に性欲に溢れ、平然と浮気をする畜生レベルの男で、何かしかの変態性癖の持ち主なのだろうが、しかし下着に対する興味なんて皆無だった。

 本当にない。そんなものでは興奮しない。

 下着姿は好きだけど、下着そのものに1ミリの関心もない。下着泥棒の気持ちがこれっぽっちもわからないのだ。


 とはいえ、このまま返すのは惜しい気がするのである。その下着から天架の身体を想像したかった。

 それは実は嘘偽りない気持ちである。認めよう。

 会社帰り、どこかの個室に籠って、天架の下着を手に取り・・・。


 いや、こんなことに利用したくらいだから、古い下着なのかもしれないが。

 もう今では彼女のサイズに合わなくなったもの。その可能性は高いだろうけど。


 「今朝、その作戦を思いついて。咄嗟に行動に出てさ」


 しかし彼女は言うのである。


 「お兄ちゃんの背広のポケットに突っ込んで、そのまま制服を着てきただけで」


 え? 


 「だから今、ノーブラ、ノーパンって状態」


 「マ、マジかよ」


 人生でこれほど驚いたことはないかもしれない。

 あなたの子供が出来たかもしれないと、妻に打ち明けられたときでも、別にこれほど驚きはしなかった。

 おいおい、君と結婚するつもりはなかったのに、妊娠しちゃったのかよ! と笑っただけだ。


 しかし天架の言動には驚かされる。

 いや、驚きというか、意表を突かれたというか。




 天架の身体に注意が引き寄せられた。どうやっても、それに抵抗出来ない。

 今は秋で、彼女はブレザーを着ていて、たとえノーブラであったとしても、ジャケットが彼女を守ってはいるだろう。

 つまり、ブラウス越しに何も透けたりはしていないのである。

 スカートだって、極端に短い着こなしではない。それなりに長い。というか、流行に沿って、それなりに短いとも言えるのだけど。

 しかし僕のすぐ隣に、下着を一切つけていない若い女性が立っているという事実。その意味。あるいは価値。

 その重さにクラクラとして、僕は生唾をゴクリと飲み込んでしまう。


 「じょ、冗談だろ? おい」


 「それが本当なんだよね。今日一日、学校生活を下着なしに過ごすのはね、マジで無理。だからお兄ちゃんの後を追いかけて、同じ電車に乗ったわけよ」


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