2)


 残業を終えて家に帰ると、他の家族たちは皆、食事を済ませていた。

 リビングルームは静かである。テレビもついていない。

 外食するときは、妻に連絡をするというルールである。何の連絡もしなかったというか、スマホをなくして連絡の手段がなかったので、遅い帰宅であるが僕の夕食の分もちゃんと作ってもらえている。

 それはありがたい。妻に感謝する事案だろう。

 夕食があることに安心しつつも、僕はまず最大の懸案事項を処理しなければいけない。

 幸いなことに、僕の帰宅を迎えるとすぐ、妻はお風呂に入りにいった。

 その十数分の時間で、天架を問い詰めなければいけないのだ。




 「知らないよ」


 天架の部屋をノックする。「はい」と返事が帰ってくる。「ちょっといいかな?」と言いながら、僕は恐る恐る扉を開ける。

 彼女の部屋に入ったことはこれまで一度もない。中を見たことすらない。そこは家の中の秘密の園。


 「僕のスマホ、知らないかなあ?」


 その設問に対する答えがさっきの答えだ。


 「知らないよ、何で私が知ってるの?」


 天架はお風呂から上がったばかりのようだった。学習机の前に座りながら、濡れた髪をバスタオルで拭いている。

 パジャマ姿である。それはもう見慣れた姿だ。くるくると軽やかなに回転する椅子に、片足を立てて座っている。

 首を傾けて、そっちの方向にその濡れた髪を全部流して、そうやってまとまった髪の毛を、パンパンとバスタオルと叩いている。

 その音が家中に響いてしまうかもしれない。義理の両親たちに聞こえるとまずい。僕は天架の反応などを確かめもせず、彼女の部屋に入って扉を閉める。


 湯上りの香りが部屋に漂っていた。

 石鹸の香り、シャンプーの香り、あるいはそれは天架のフェロモンの香り。果たしてその正体は何かわからないが、極めて良い匂いだった。

 女の子の香りだ。今朝、天架から感じた香り。


 「なあ、おい、本気で言ってるのか?」


 「え? 本気だよ。って言うか、どうして私が疑われているのか意味がわからない」


 「今朝の電車で盗んだだろ?」


 「今朝の電車? 何それ、知らない」


 何だ、こいつは。しらを切るつもりなのか。

 もう、天架に臆するところがなくなった。今朝、あれだけ会話して、そして激しく身体を密着させ合って、これまで感じていた気遣いや遠慮という気分が逆に薄れていた。

 もうこの子とは知った関係、といった塩梅なのである。

 それに、何が何でもスマホを取り戻さなければいけないという動機も強い。



 「返してくれよ、マジでさ」


 「ふーん、お兄ちゃん、スマホ、なくしたんだ?」


 「なくしたんじゃない。盗まれたんだ。君だろ?」


 「私、知らない」


 疑惑は確信に変わっている。天架がポケットから掏ったのである。「知らない」と言いながら、彼女の目が笑っている。

 サディストのように、とは言わないが、悪戯っ子のようには笑っている。僕が困っているのを見て、喜んでいるのだ。


 「お願いだ」


 「知らないもん」


 「頼む」


 「うーん、でもお兄ちゃんだって、何の約束も守ってくれないでしょ」


 彼女の前にひざまずいて、泣くように哀願しても、この小娘に舐められるだけだろう。だから居丈高にいくべきだ。本当は泣いて、哀願したい気持ちであったが。


 「ほらよ」


 僕は三万円を財布から出して、それを彼女の前の机の上に叩きつけるように置いた。


 「少ないよ、これ」


 そう口では言っているが、天架は明らかに喜びを隠せないようであった。

 三万円の現金を前にして、彼女の欲望がぱっくりと口を開けている。


 それを掴もうとする彼女の手を、僕は上から押さえた。

 天架の柔らかい手と触れ合う。しかし柔らかさよりも、硬い骨の感触を強く感じた。余りに強く彼女の手をおしつけたからだろう。


 「スマホを返せよ」


 「痛いよ、お兄ちゃん」


 「この現金と交換だ」


 「これで終わりじゃないって約束してくれれば、ね」


 「はあ?」


 「二十万って約束だったでしょ」


 こいつ、本当に厚かましい女だ。しかし実際に現金を見ると、心が容易く動く女でもあるようであった。

 ちょろいのだ。まだ若くて、この程度の金すら見慣れていない。

 妻の栗子だとこうはいかない。


 「わかった、残りもいつか」


 「本当?」


 「ああ」


 もちろん、嘘だけど。


 「あっ、そう言えば、お兄ちゃんのスマホ、見たかもしれない。家にあったよ」


 「家に?」


 やはり彼女が盗んでいたのか。僕は途端に安堵感を覚える。


 「うん。お兄ちゃんのスマホって赤いカバーのやつでしょ?」


 「そう、それだよ。この家のどこだよ?」


 押さえていた天架の手を離す。彼女はそのお金をサッと自分のものにした。


 「えーと、どこだっけなあ?」


 しまった。手を離すのが早かったかもしれない。この程度のヒントで終わりにされて、あとは惚けられるかもしれない。

 しかし天架はそこまで性格の悪い女ではなかった。何よりも多分、僕のことが嫌いではない。

 もうそれは間違いのない事実だろう。だからこうやって、彼女は絡んでくるのである。

 本気でイラつき出した僕を慌てて宥めるように、天架は言ってきた。


 「そう言えばお風呂場で見たような」


 「風呂場だって?」


 「っていうか脱衣所ね。お姉ちゃんに見つかる前に回収しておいたほうがいいよ。何かさ、私の着替えを盗み撮りするために設置しているって思われるかもしれないから」


 いったいどう意味なのか問いただしている場合ではない。僕は出来るだけ足音を立てずに、風呂場に向かった。

 天架の部屋は二階で、風呂場は一階だ。



 ★


 妻の栗子はシャワーを浴びていた。激しい水の音が扉の向こうから聞こえてくる。

 助かった! 

 彼女がお風呂から上がってきて、身体を拭いていたら、それはもう上手くいかなかっただろう。

 それどころか、湯船につかっている時間でも、そこに侵入して、バレずにスマホを回収するなんて不可能だったと思う。

 しかし幸運にも妻は今、シャワーの途中。シャワーの音は大きくて、僕がコソコソと脱衣所に侵入した気配に気づくことはないはずだ。


 バスルームの手前の脱衣所の扉をそっと開ける。そこには大きな鏡があり、洗面台があり、浴室の手前に籠がある。そこに妻の栗子の脱いだ洋服が収まってあった。

 スマホなんて見当たらない。

 いや、すぐに目に見えない場所にあるに違いない。簡単に見つかるような場所ならば、即座に栗子は気づいただろう。

 それに天架は訳のわからないことを言っていたではないか。「着替えを盗み撮りするために設置していると疑われる」とか何とか。

 天架の企みがわかった気がする。

 いや、それよりもまず、スマホの回収だ。


 洗面台の上に見慣れない小箱があった。丁度スマホが入るくらいの高さの正方形の箱。お菓子か何かの空き箱である。

 別に洗面台の上はきれいに片付いているわけではない。歯磨き粉や洗顔料、クリームとか整髪料などが並んでいる。そこにその小箱があっても、そこまでは違和感をもたらさなかった。

 しかし昨日まで、そんなものなかったことは間違いない。

 僕はそれ手に取る。重い。開けると中にスマホがあった。間違いない、この僕のスマホである。

 僕はその箱ごと回収して、速やかに脱衣所を出る。

 汗が噴き出てくる。心臓の高鳴りが止まらない。しかし何とかミッションはクリアーしたようだ。

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僕たちは罪に堕ちていく @asyuh

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