第三の罪「盗撮と窃盗の罪」

1)


 しかし僕はまだかろうじて、プライドを保持してはいる。

 つまり、達することはなかったのだ。

 言葉を選ばずに言えば、そのとき射精はしなかったわけだ。

 完全に欲望の虜と成り果てることなく、ギリギリのところで我慢した。

 別にしたくて痴漢行為のようなものを働いたわけではないのだけど、たとえそうであったとしても公共の電車の中で射精なんてしたら、もう人間として終わりだろう。

 しかも義理の妹の身体で。

 それは何とか免れた。僕はまだ「紳士」のカテゴリーからギリギリはみ出していないはずだ。




 とはいえ、そうであったとしても、そう簡単に立ち直ることの出来ないショックを感じている。

 いったい自分は何をしているんだという情けなさ。


 若い女に振り回されている。

 違う、自分の性欲に振り回されているのだ。


 それと同時に、何やらとてもいい目を見た気分も感じていた。いや、つまり、それが性欲に振り回されているということなのだけど。

 本当にかけがえのない体験をしたことは確かだろう。

 いったいああやって、女性の身体の柔らかみを感じたことが、これまであっただろうか。

 普通のセックスよりも、気持ち良い体験だった気がする。

 あのまま、エクスタシーに達していれば、それはもう、人生最高の射精体験として、永遠の思い出となっただろう。




 同じことをC子の身体で試そうか。

 彼女に天架と同じ制服を着せて、この日と同じシチュエーション、同じ姿勢を取る。

 つまり、後ろから抱きついて、自分の身体を押し付けて、髪の香りを嗅ぎながら、そして射精にまで持っていく。

 出来れば電車に乗ってやりたいが、別に彼女の部屋でもホテルでもいい。


 だけど、きっと随分と味気なく、物足りないことだろうな。あれを再現するなんて不可能に決まっている。

 あんな体験は、この先の人生で二度と得ることはないかもしれない。一回きりの奇跡だった。


 その一回きりの奇跡のエクスタシー体験を、僕は自分の理性でストップをかけてしまったのだ。

 まあ、しかし何とか理性を総動員して、途中で止めたから、僕は何とか犯罪者に落ちないで済んだとも言える。


 あのまま快楽に溺れ続けて、彼女の身体に向かって射精なんてしていたら、彼女は躊躇なく、「この人、痴漢です!」と叫び上げていただろう。

 もう人生は終わっていた。結婚生活だけでなく、勤め人としても終わっていた。再起不能の大事件である。




 ちょっと待てよ、僕は誤解しているかもしれないぞ。

 射精をしようがしていなかろうが、僕はもう十分に罪を犯していた。

 それなのに、天架は許してくれたという見方も出来る。

 あの時点であっても、彼女が宣告通り、「痴漢されてます!」と叫んでいたら、僕は終わっていたんだ。

 きっと電車の中にいた正義マンたちに取り押さえられていただろう。

 証拠は既に、それなりに揃っていた。奴らは劣情から無理やり引き離された僕を、憐れむように見下ろしただろう。

 それなのに彼女は許してくれた。

 何も叫ぶことなく、電車を降りていってくれたのだ。

 彼女は僕に手心を加えてくれたわけだ。




 思えば、あのときの彼女の背中の悲しさは何だったのだろうか? 

 一度も振り返ることなく、電車を降りていったときの天架の後ろ姿。それは何だか、とても悲し気に見えたのだ。

 まあ、本当に僕のことを情けなく思ったのかもしれない。僕たちは家族なのだから、彼女は自分の身体で兄を興奮させたくなかったのだろう。

 兄である僕の、男の面をまざまざと感じてしまって、それで悲しんだ。

 そういうことかもしれない。つまり、僕を哀れんだのだ。


 いや、本当にそうだろうか? 

 あの子が僕を家族として見ているとは思えない。男、もしくはオスとしてしか見ていない。

 それは間違いない気がする。

 普段から僕に気を遣っているし、全く心を開かないし、何なら恐がるようであったし。


 とはいえ、天架が僕に嫌悪感だけを覚えているわけではないことは間違いない。

 むしろ逆だ。

 男として意識している。だから浮気のことを、ことさら指摘してきているのだ。

 「お姉ちゃんを裏切って、他の女を抱いている」という攻めの言葉は、こうふうにも解釈出来る。

 「私を無視するの?」とも。




 あの子は僕に近づこうとしているのだ。

 それはまず、間違いないとして。

 まあ、しかしそれは恋愛感情とかではまるでない可能性は、当然ある。それはあまりに自分に都合の良い解釈に過ぎなくて。

 天架は何か欲しいものがあるのかもしれない。それは三万円程度ではない。

 それとは違う何か。

 例えば、助けを必要としているとか? 

 家族には相談出来ない、何か問題を抱えているとか? 

 さあ、それとも、それこそ大いなる妄想だろうか。




 その気になれば、天架を惚れさせられるのではないか? 

 天架は僕に嫌ってはいない。

 むしろ奇妙な形ではあるが、こちらに近づこうとしているという前提が正しければ、それも可能。


 厄介な女を意のままに操る方法はある。惚れさせればいいのだ。つまり、恋愛地獄に堕ちしてやるのだ。

 そうなれば僕はこの脅迫行為から逃げられるだろう。天架なんてガキに、一円も払わずに済む。

 浮気相手をⅭ子から、天架に乗り換えるということである。


 まあね、「惚れさせればいい」なんて、それが大変に難しいわけであるが。

 多少の好意をこちらに感じていたとしても、惚れさせるところまで持っていくなんて! 

 年齢もけっこう離れている。ジェネレーションギャップという厄介なものが、僕たちの間を隔てている。

 そもそも、僕と天架は対立の真っ最中なのだ。しかも妻の妹である。


 だったら別の男に依頼するという手もあるぞ。

 どこかの色男に天架に依頼するのだ。あの女を落としてくれ。大人しい良い子ちゃんにしてくれ、と。

 いやいや、あり得ない。

 僕にだって、それなりの自信はある。これまで、それなりの成功体験を重ねてきた。それなのに他の男に天架を抱かせるなんて! 




 「あれ?」


 そのとき、僕は重大なことに気づいた。

 ない。なくなっている。

 ポケットにあるはずのものが消え失せていたのだ。

 天架の下着ではない。それも知らないうちになくなってはいたが、僕のスマホも消えていた。


 確か、天架の下着もスマホも同じポケットに入れていた。その二つが同時になくなっているということは、知らない間に天架が奪っていったということか。

 だとすれば、かなりのスリの腕前だということになるが。彼女にそんなことが出来るのか? 

 まあ、彼女の身体の感触に夢中になって、僕はまるで周囲への注意が疎かになっていたとは言える。

 あのときの僕はかなり間抜けで無防備だった。股間にしか意識がいっていなかった愚か者。


 いや、もちろん違うスリ犯の仕業だということもあり得る。本物のスリが、僕のスマホを奪って立ち去ったということ。

 そうだとしたら最悪である。絶対にあのスマホは返って来ないことになるのだから。

 だったら、天架が盗んでいったことを望んでしまう。彼女が犯人だったら、交渉次第では戻ってくるだろう。




 スマホが消えて、落ち着かない。まるで自分の身体の一部を無くしてしまった気分。

 あれがなければ仕事に支障を来たす。暇潰しだってままならないのだ。しかし暇潰しする気にもなれないくらい、気もそぞろである。


 このままスマホが見つからなかったらどうしよう。あれは財布でもある。

 電子マネーを勝手に使われてしまう可能性もある。

 僕のスマホを盗んだ相手が天架でなかった場合、一分一秒でも早く、その電子マネーを使用停止にする必要がある。

 いや、彼女が犯人だとしても、電子マネーで買い物をしまくっている可能性もあるのだけど。


 とはいえ、天架が盗んだのならば、まだ我慢出来るだろう。それを口止め料に充てることにすればいい。

 何よりも、交渉次第では返ってくるはずだ。何かの手違いだという可能性もある。

 とにかく、あの子を問い詰める必要があるだろう。

 早く家に帰りたい。しかしそういう日に限って仕事は立て込んでいた。すぐに帰宅の途につけない。




 電子マネーの問題もさることながら、スマホの中を見られてしまうという恐れもあるだろう。

 つまり、プライバシー侵害の問題。

 しかしそれは実はまるで心配ない。僕は浮気をしている人間である。それゆえに用心深い。

 そのスマホの中に、浮気相手とのメッセージの遣り取りやらを残したりはしていないのだ。

 C子の写真すら一枚もないのである。

 その点において、心配は皆無。

 もしロックを破られ、スマホの中を天架に覗かれていたとしても、新たな脅迫材料となる代物を彼女が手に入れることはないだろう。


 僕のスマホはある意味、全てフェイクで出来上がっている。万が一、妻に覗かれたとしても、「大丈夫なもの」となっているのである。

 完璧に無味無臭のスマホ。

 何ならばロック解除の暗号だって、妻の誕生日の数字である。

 「別に中を見られてもいいよ。何の疚しさもないからね」というメッセージをそれとなく妻に送っているわけだ。

 愛妻家という偽善の仮面を被ったスマホ。

 だからその点において心配はない。きっと天架は僕のスマホの健全さに落胆していることであろう。


 まあ、それもこれも彼女が盗んだという前提なのだけど。

 お願いだから天架が盗んでいてくれよ。そのような考えになっている。

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