第二の罪「劣情と誘惑」

1)


 次の日、天架と食卓のテーブルで顔を合わす。

 天架は学校へ。僕は会社へ。

 妻は専業主婦だから家に居るだろうが、義父も義母もどこかに出かける様子。二人の行動に興味はないからどこに行くのか知らないが。


 それはいつもの朝だった。

 トーストとコーヒー、テレビはニュースというよりも情報番組と呼ぶべきなのだろう、美味しいランチが食べられる都内のイタリアンの店を紹介している番組が流れている。

 昨夜、変な夢を見た気もする。少しうなされた記憶もある。

 しかしそれだって日常の範囲内。頻繁に見舞われることだ、特に結婚して、この家に住んでから快眠とは無縁。

 つまり、僕はいささかもナーバスになっていないということ。これが普段の僕なのである。

 それはまあね、あの脅迫事件のことが気には掛かっている。

 しかし相手は所詮、ガキ。

 適当にやり過ごしていれば、すぐに彼女も諦めるだろう。ということはつまり、昨日は何も起きなかったと同義。


 天架が朝の食卓にやって来たようだ。

 僕はそっちに視線をやらず、気配だけで認識する。

 彼女は毎朝、最後にテーブルに着く。重役出勤である。生意気な振る舞いであるが、この家族は本当に末っ子に甘い。


 昨夜は外食で夕食を済ませて、帰ってすぐに風呂に入り、寝室に向かったので、天架と一度も会うことはなかった。

 これがあの事件以来の遭遇。

 僕は思い切って顔を上げて、天架を見てみた。




 僕はいささかもナーバスになっていないと言ったが、彼女がどんな態度を見せてくるのか、少しばかり不安ではある。

 まあ、僕が思うにこの食卓で何か起きるわけはないのだけど。だって家族の前で思わせぶりな態度に出るはずがないのだ。

 まだ脅迫行為を続けるとしても別の場所で。

 夕方過ぎ、また突然、僕のスマホに連絡を寄こしてくるとかだろう。

 実際、彼女はこっちに視線を送ってこない。気怠そうに、テレビのほうに顔を向けている。

 それはいつもの仕草である。


 彼女はまだパジャマ姿である。灰色の無地のスウェットの上下。サイズが極端に大きくて、ダボダボの着こなし。

 それが流行りなのかどうか知らないが、天架は気に入っているようで、かなりの頻度で着ている。

 様になっている。悪いセンスではない。天架は部屋着もお洒落に着こなしている。さすがにSNSでそれなりにフォロワーを獲得しているだけある。


 そうなのだ、何やら彼女は、同世代女子のお洒落カリスマのようなポジションを手に入れているようなのである。

 昨日、見つけた彼女のアカウントをパッと見た感じ、そのような雰囲気を感じた。 

 それについてはまた時間のあるときに、改めて点検するつもりなのだけど。




 「あれ? いちごジャムは?」


 ところで問題が発生した。まるで食欲はないが、仕方なくパンを食べようと思った僕の手は、そのときピタッと止まった。

 テーブルの上に、イチジクのジャムはある。義父の好物のジャム。

 いったい誰が好むのかって感じのクソ不味そうなイチジクのジャムは置かれているのに、世界的ベストセラーであるイチゴのジャムが、テーブルの上にないではないか。


 普段ならイチゴジャムを用意してくれているのに。

 妻の栗子の軽い嫌がらせであろう。昨日、何も連絡せずに夕食を済ませてきたことを怒っているのだ。

 何という器の小ささ。女っていうのは何という生き物か。




 まあ、いい、自分で取れに行けばいいだけ。そんなことにイチイチ文句をつけていたら、結婚生活なんて上手くいかない。

 僕は冷蔵庫へと向かう。


 一切、不貞腐れた態度とか、面倒な素振りを見せない。そんな態度を見せてしまったら妻の狙いにハマってしまうことになるから。

 冷蔵庫をあさる僕を見て、きっと妻はわざとらしく謝って来るだろう。

 「あれ? ごめんなさい、あなたの好きなイチゴジャムを出しておくの忘れてたわね」とか何とか言って。

 別に忘れていないくせに。

 そのときだって鼻で笑う態度ではなくて、「いいよ、いいよ。誰だって忘れることはあるじゃないか」と微笑もうではないか。

 とにかく妻の挑発に乗ってはいけない。その斜め上の行動を取って、相手の意表を突いていかなければいけない。

 いつだって、そうやって敵の心を挫いてやるのだ。




 僕はイチゴジャムを取るために冷蔵庫を覗く。

 冷蔵庫の中は散らかって雑然としていた。そこに秩序のようなものが一切ない。

 それはまあ無性に綺麗好きな妻は嫌だ。息苦しくなる。しかしこの冷蔵庫の中は酷過ぎる。賞味期限切れの食材もありそうだ。


 冷蔵庫の中は雑然としているが、僕はイチゴジャムをすぐに見つける。

 それを手の取り、中腰の姿勢から立ち上がろうとしたときだった。

 何か暗い影が視界を覆った。

 「おっと、ごめん」と咄嗟に口にする。その相手とぶつかってしまったのだ。

 一瞬、妻が襲ってきたのかと思ったが違った。

 天架だった。

 僕は天架と抱き合うレベルで、身体を重ね合った。


 それはほんの一瞬だったけど。でも相手の身体の柔らかさとか香りとか、何もかも知り尽くすほどの密着であって。

 ほんの一秒、いや、それにも満たない。一瞬の交差に過ぎなかったのに、何か時間が止まったような感触すら感じた。


 妻は台所のシンクの前で、「どうしたの?」と 僕たちのほうをいぶかしげに見ている。




 イチゴジャムの味がしない。

 あの甘さの権化、美味しさの化身、イチゴジャムの味を感じることが出来ないのだ。

 だからもちろん、食パンの味もしなかった。

 呑気に朝食を味わっている気分ではなかったのだ。

 先程の天架の身体の感触を心の中で反芻し続けているから、というわけではないのだけど、確かにそれが僕をざわつかせ続けていた。


 天架はこんな身体になっていたのか・・・。

 それは見ることによってではなくて、まず先に感触によって知らしめられた。

 何やら異様な柔らかさであった。起きたばかりの天架は、下着など一切つけずにいたに違いない。

 それくらいの直接性である。彼女の乳房が触れた背中からわき腹にかけて、まだ強烈に感触が残っている。




 僕はこれまで夏物のブラウスを着た天架を見ている。Tシャツを着ている天架だって見ている。

 その衣服越し、目を見張るような膨らみなんて確認出来なかった。

 それとも自ら、見ることを禁じていたのかもしれない。

 その胸の膨らみがときおり視界に入ってはいたのに、あえて僕は見ないようにしていた。

 家族ゆえの禁忌。

 子供の頃からの天架を知っているが、ずっと彼女の身体を見ないようにしていたわけだ。


 しかし今朝、それをまざまざと知らしめられた。

 動揺するなと言われても、簡単ではないことだ。

 彼女は私にぶつかることで、それを知らしめた。ただ、冷蔵庫からジャムを取り出そうとするだけの無防備な僕に対しての攻撃。


 いや、ぶつかるという表現は正確ではないかもしれない。身体全体でそっと、「触れてきた」という言葉が近い。

 それも違うな。押し付けてきたというべきだ、これは! 

 天架は自分の身体を、僕に押し付けてきやがったのである。




 しかしわかっている。

 これはもちろん攻撃である。威嚇なのである。

 誰もいない部屋で二人きりの場合だとしたら、何か甘やかな行為だと受け取っていいのかもしれないが、ここには妻がいたのである。

 妻の前での天架との接触。この世界がいかに危ういところか、天架は警告してきたのだ。


 「きゃー、触んないで!」と妻の前で声を上げたりすれば、それでもう僕は加害者である。

 我が妻、栗子、あの女にフェアネスやら、客観やらという観念などない。

 僕と天架が近くの距離にいたら、僕が何か邪な意思を持って近づいたと判断してしまう。

 ましてや「触らないでよ」という言葉を天架が口にすれば、もう終わり。

 何という攻撃力の高い言葉だろうか。僕は即死させられることだろう。


 触ってなんていない。押し付けられたのだ。しかし感触を感じたことは事実。

 その感触を感じた事実が、僕の態度や表情に現れていたら、もう妻は僕を罪人として認定するだろう。

 つまりこれは天架からのメッセージ。あなたをいつでも追い落とせるわよ、という。

 天架は僕に告げているのだ。だからさっさと、「十万円を払ってほうが身のためだぞ」と。


 いや、偶然かもしれない。ただ単に天架もチーズを冷蔵庫に取りに来た。

 それで偶然、ハプニング的に身体が接触してしまっただけ。

 彼女に悪辣な企みなんてなかったのかもしれない。

 しかしだ、その行動はそれなりの効果を上げていた。さっきから妻が僕のほうをチラチラと見てくる。

 睨んでいると言ってもいいのかもしれない。ただ単に怪しんでいるのかもしれない。

 きっと、妻も混乱しているのだと思う。何か起きているの? そんな感じの混乱。

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