2)


 地獄のようなというか、奇妙なというか、これまで決して体験したことのない朝食の時間を終えて、僕は逃げるように家を出る。会社に行くのだ。

 天架が迫ってくる。妻が怪しんでくる。義父と義母は無言であるが、何か不気味だった。

 酷く汗をかいてしまった。表情もずっと、引きつっていたかもしれない。

 妻に話しかけたられたときの受け答えも、どこか変だったかもしれない。


 家を出た途端、僕はいつもの自分を取り戻すのだけど。

 いつもの自分に戻ると、いったい何をビビっていたのかという気になってくるのだけど。

 別に何も決定的なことは起きていない。そんな朝ではないか。ここまで感情的に揺さぶられるほどのこともなかったのに。


 まあ、確かに、いつかそれが起きるかもしれないという気配は感じたのだけど。

 どうやら天架は本気だ。

 本気で僕から金銭を奪い取るつもりだ。何せ、ああやって身体を張ってきたくらいなのだから。


 十万か・・・。

 そんな大金、払うわけがないのだけど、しかしだ。

 いくらかの出費は覚悟しなければいけない気もする。




 僕は電車の中で天架のSNSを改めて点検することにする。

 天架のことを調べ尽くして、彼女との対決に向けて、次の作戦を練らなければいけないから。

 昨日は寝る寸前に、妻の目を盗んでコソコソと観るしかなかった。ちょっと上っ面を眺めただけ。じっくりと読み込むことは出来なかったのだけど。

 しかしその一瞬の時間で、僕はちょっとした眩さを覚えたのである。

 見事な着こなし、カメラの前での板についた態度。そしてそんな彼女の姿を絶賛するフォロワーたちの熱量。

 それが彼女のアカウントを観た僕の素直な感想。

 これはちょっとしたインフルエンサ―ではないか。「カリスマ」の称号をつけてやってもいいのかもしれないレベル。

 天架は全くの素人であるはずなのだけど、彼女の存在を知っている赤の他人はこの世にたくさんいるという気配。




 しかし今、改めてそのアカウントをよくよく見ると、それほどフォロワーは多くもないのかもしれない。

 彼女の投稿にリアクションをしている人数だって、驚くほどの数でもない。

 昨日は圧倒されてしまったが、それはちょっとした早とちりだった気もする。そんな気にもなってきた。


 同世代女子に支持されるファッションリーダー的ポジション、天架がそのような身分を目指していることは間違いないのだろう。

 しかし今のところ、そこまで上手くもいっていないようだ。まだまだその一歩を踏み出そうとしている状態ってところだろうか。


 とはいえ、まるで芽がないわけでもなく、それなりにフォロワーがいて、何かのきっかけがあれば、その地位を一気に上昇させることが出来る可能性があるのだろう。

 少なくとも天架はそのように思っている。だからこれほど熱心に投稿しているのだ。


 自分にはセンスがある。容姿に恵まれている。天架は自分をそのように見積もっている。

 むしろ平凡に生きている同年代を見下したりしているかもしれない。

 なるほどね。

 それは金もかかりそうである。プライドだって高くなるわけだ。




 天架は今、ちょっとした躁状態にあるのではないだろうか。なんてことを僕は思う。

 彼女は日々、ネットの向こう側を相手にして自分を売り込み、それに何となく成功していている。

 つまり、全能感のようなものを覚えている。

 ハイテンションなのである。

 彼女は人生というショーを生きている気でいるのだ。それは天架が主役の舞台で、周りは全て脇役であり、端役であり、その他大勢。


 ということは、だ。


 「この僕を、その自分のショーに加えようとしているのか?」


 いったい、あの子は僕にどんな役割りを望んでいるというのか。




 そのときだった、着信があったのは。天架のSNSをじっくりと分析していたら、スマホが揺れ始めたのだ。

 妻か、それともⅭ子、我が愛人からだろうか。

 僕に何か用事があるとすれば、この二人しかいないわけであるが、実はⅭ子とはスマホで遣り取りするなんて危険な連絡法は取っていない。

 彼女と逢うときは突然、こっちから彼女の部屋に行くだけ。

 ということは栗子か。


 いや、それはある日までの日常。昨日から我が人生には、とある外敵が襲来してきたのだ。

 言うまでもない。天架である。

 実際、そのメッセージはあの娘からだった。


 しかし別に驚きはしない。ただ嫌な気分になっただけで。

 むしろそのメッセージの到来は予見出来た。

 やはり、僕にコンタクトを取って来たかという感想である。天架はまだ僕から十万もの脅迫料をせしめるつもりである。


 まるで諦めていない。あともう少し強く押せば、僕が支払うと見積もっているに違いない。

 それゆえに執拗なのだ。

 ああ、ムカつく。絶対に払ってやるか。




 いや、果たしてそうだろうか。

 別の角度から考えることも出来る。

 天架はもっと簡単に、僕から脅迫料をせしめることが出来ると思っていたのかもしれない。

 それなのに、意外に強硬な僕の態度に戸惑っている。手強い相手だと、考えを改めているのだ。

 それで彼女は慌てている。

 むしろこれは彼女の焦りの現れではないのか? 簡単に手に入るはずの金が手に入らなかった。

 切実にそれを欲しているから、彼女は執拗に迫ってくるのだ。

 実は余裕がない可能性もある。


 ところで、彼女は奇妙な文言のメッセージを送って来ていた。なぜか、この僕を泥棒呼ばわりしてきたのだ。




――泥棒! 


 彼女からの脅迫メッセージなんて無視してやってもよかったのだけど、どうして泥棒呼ばわりされなければいけないのか理解出来ない。

 好奇心もある。どういうつもりなのか、尋ね返したい。


――はあ? 何だって? 泥棒だって? この僕が? ついに頭がおかしくなったのかな。良い医者を紹介してやろうか、え? 


――返して。


――何を? 


――私の大切なもの。


 何を言ってくるんだ、こいつは。僕が彼女から何かを盗ったと? しかも大切なものを? 


 尊厳とか、ピュアな幼な心とか、何かそのような類のものを奪われたと言いたいのか。

 つまり、僕が妻を裏切り、他の女と逢っていたことが天架にバレたことは、男性一般への信頼を失した出来事だという批判なのである。


 笑わせるな。それなりにすれた性格をしている癖に。

 良いように言えば、年齢よりも大人びた性格なのである。そんな彼女が今更、何を失うというのか。


――ねえ、私から盗んだもの、例えば背広のポケットとか、あったりしない? 


 彼女はそんなメッセージも送ってくる。


 え? 

 それは具体的な物だと言うのか? 

 

 僕は自分がすっかり勘違いしていたことに気づく。

 天架は観念的、というより道義的な問題で僕を攻めているのかと思っていたのだ。昨日の会話の続きならば、その理解で間違ってはいないだろうが。


 しかし違うのか。

 僕は恐る恐る背広のポケットに手を入れる。何が出てくるというんだ、いったい。

 確かに何かあった。ポケットの中に、本来ないはずの異物が。

 それは繊細な手触りだった。そして嫌に軽くて、意外なほどに薄くて、驚くほどに儚い感じで。

 その触り心地だけで、何やら女性的なるものだということがわかる。

 ハンカチか。

 あり得ない、違う。これは! 


 僕はそれを数センチほど引き出した後、慌ててポケットの中に押し込んだ。

 それはブラだった。女物のブラ。紛れもなくそれ。


――妻のだろ? 


――私のよ。お姉ちゃんに言ってやる、お兄ちゃんに盗まれたって。




 天架の下着だって? 


 それが今、僕のポケットに入っているって? 


 何てことをしやがるんだ、このクソガキは! 


 しかし僕は信じられない被害に遭って呆然としながらも、そのブツに興味も抱かざるを得ない。

 何か彼女は、とてつもなく大きな秘密を開示してきているのではないか。

 だってそれを子細に観察すれば、そのサイズ感、つまり、具体的にはカップ数などであるわけであるが、そのような数値をこの僕に堂々と知らしめているも同然なのだ。


 恥ずかしくないのか? 

 あの小娘の、他人との距離感がわからない。混乱させられる。訳のわからない大胆さだ。


――両方とも見つけた? 


 混乱の極みに居る僕に、更に困惑させられるメッセージが来る。


 はあ? どういう意味だ。


 僕は今、スマホを左手で持っていて、空いている手は右手だったから、右のポケットを探った。そしてそこから天架のブラを見つけた。

 左側にもまだあるというのか? 


――ねえ、どっち? 上? 下? それとも二つとも見つけてる? 


 僕はスマホを持ち替えて、左のポケットを探った。

 あった。右があれだということは、左側のポケットはあっちのほうか。

 満員電車である。周りに乗客がいる。それはもう大勢。

 その電車の中、女性ものの下着を取り出すなんて変態の行為である。

 しかも少女という感じの年齢の下着。


 取り出すわけにはいかないが、それが本当に「それ」なのか、確かめずにはいられなかった。

 僕はポケットの深淵を覗き込み、目を凝らす。

 彼女の言葉に嘘はなかった。


――さっさと昨日の約束の十万をお支払い頂ければ、その窃盗行為はなかったことにしてあげるけど? 




 なるほど、天架という小娘は、そのような実力行使も駆使するわけか。

 それはなかなかのやり口だ。

 彼女は僕と妻がいない一瞬の間、コソ泥か忍者のように足音を立てず、コソコソと僕たちの寝室に侵入して、壁に吊るしてあった僕の背広に自分の下着を押し込み、素知らぬ振りで部屋を出て、そして今、その事実を誇らしげに僕に知らしめて。


 いや、あるいはわざと声を上げながら、「お姉ちゃん、ちょっとさ、聞きたいことがあるんだけど?」と小芝居を打って、その実、部屋に無人だということは確かめていて、「あれ、いないの?」と言いつつ、その代物を背広に押し込んだという方策を取ったのかもしれない。

 どっちにしても卑劣! そのような泥棒同然の行為に出てまでも、僕を落とし込もうというわけなのか。


――いつでも私は、お兄ちゃんを犯罪者に仕立て上げることが可能だということです。


 天架はメッセージを送ってくる。


――確かに恐ろしい相手だよ、君は。




 妻の妹と一緒に住んでいることが間違いなんだ。その時点で、僕はもうかなりのリスクを背負っている。

 その上、その妹は大胆で行動力がある。目的を達成するためには躊躇しない。

 確かに厄介な相手を敵に回してしまったようである。

 しかしだ。


――詰めが甘いね、君は。このメッセージの遣り取りが証拠になるだろう。


――どうして? 


――この文言を栗子に見せる。それで終わりだ、僕は妹に脅迫されているってね。


――なぜ脅迫されているんだっけ? 


 それはもちろん、浮気の現場写真を天架に撮られたからだ。


――それも同時にバレてしまうことになるのだけど? それはそうでしょ、浮気がお姉ちゃんに知られても問題にならないのなら、お兄ちゃんは誰も怖くないでしょうね。


――大人を舐めるのもいい加減にするんだね。


――はいはい。


 一度だけの過ちだったんだ。そういって心の底から謝りさえすれば、許してもらえるだろうか? 

 いや、無理だ。我が妻の栗子、嫉妬深さだけは一丁前の女だ。

 愛情深くはないのに、嫉妬心だけは深い。女として最低の部類。それが栗子の性格である。


 それにまあ、その浮気は一度だけの過ちってわけでもないしね。

 だいたい妻に頭を下げるなんて、どんな目に遭うよりも気に食わない。


――その覚悟さえあれば、ね。私はお兄ちゃんとの争いに負けるかもしれないよ。だけど、お兄ちゃんに覚悟なんてないよね? 


 覚悟。それはつまり、屈する覚悟だ。

 嫌なもの、気に食わない相手、そういうものに屈する覚悟。


――ちゃんとした規定の料金を支払えば、全てなかったことになります。


――脅迫料だろ? 何が料金だよ。


――その呼称はどうでもよくて。払えば終わる、それだけのゲームです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る