3)
★
そういうわけで、天架と僕は一緒に暮らしているのにもかかわらず、一切の交流はない。
こうやって二人でファミレスにいるのは何かの間違いなのだ。
この姿をもし我が妻の栗子が目撃しようものならば、栗子は仰天して、逆上して、僕を責めて、詰るだろう。
詰る、なんて生ぬるい表現かもしれない。
ちょっとした修羅場が展開されるに違いない。
口汚い言葉、尖った刃、光るナイフ。
「偶然、会ってね。ちょっとコーヒーでも一杯ご馳走してあげようかなってね」なんて言い訳は通用しない。
普段、僕と天架は家庭の中で会話はしないのに、こうやって二人で一緒に居ることは異常だ、と妻は判断する。
我が妻は馬鹿ではない。むしろあらゆることに聡いタイプ。
「私の知らないところで、秘密の関係が進行してた!」
そんなふうに勘違いするに決まっている。
「違うんだ、実はあの子に脅迫されているんだよ、仲良くしているわけじゃないさ」
そんなことは言えない。脅迫の材料は僕の同級生との浮気なのだから。
★
おそらく、きっと、昔の同級生との浮気が、妻にバレるほうがマシかもしれない。
それよりも栗子は、妹の天架と僕が仲良くすることを嫌がるに違いないのだ。
理解出来ない感情ではない。実の妹に夫を寝取られるなんて、それは考えられる限り最悪の事件。
まだ別の女と不倫されているほうがマシに決まっているさ。
そういうわけで、いつまでもこのファミレスで天架と一緒に居られない。
妻はここに現れることはないだろうけど。きっと今頃、夕食の準備のはずだから。
しかし誰が見ているか分かったものではない。妻の友達とか、義母の知り合いとか。僕や天架のことを知っている誰かとか。
その誰かが、妻に密告したりするかもしれない。
さっさとこの案件を片付けて、立ち去らなければいけないわけだ。
もう少しこの小さな脅迫者と戯れていたかったが、そうもいかない。
天架の存在は脅威ではないが、危険ではある。天架と一緒にいることが危険なのである。
えーと、僕は三万円を要求されているんだっけ。
そんなお金、持っているわけないだろとさっきは言い放ったが、まあ、さすがに財布に三万円くらいは入っているだろう。
その三万円をこのガキの目の前に叩きつけて、これで席を立つことにしよう。
「大切に使えよ、参考書でも買いなさい」
それだけ言って席を立つ。
それで終わり。大人な態度ではないか。
これで何もかも解決するだろう。
天架が味を占めて、また金銭を要求してくる可能性もなくはないが、そんなことになれば全力で戦おう。
いや、こんな小娘を相手に戦うなんて表現は笑ってしまうな。
戦うのではなくて、潰してやる。また金銭を要求してきたときは潰してやる、ゴマか何かを磨り潰すようにね。
★
しかし僕は財布から三万円を出したりすることなく、それどころか余計なことを口走ってしまうのだ。
「これは立派な脅迫だよ、こんなことはしちゃいけない。君のお父さんとお母さんが知ったら悲しむと思うな。確かに君と僕は、血なんか繋がってはいない。しかし僕たちは一応、親族だ。家族だよ。君が人生の横道に逸れていくのは見てられないな」
「はあ?」
天架は手に持っていたスプーンを落とした。
それほどに僕の発言に呆気にとられたようだ。もしくは呆気に取られたという芝居。
「何よ、説教するつもり、浮気している分際で?」
★
確かに説教なんて自分には似合わないことだ。人に倫理や道徳を説くなんて。
他人が何をしてようが知ったことではない。それが僕のスタイル。
常識とかルールとか、この世で最も興味のないことではある。
しかし僕は言う。
「いやいや、これは説教じゃない。何ていうか、普通に常識を説いているだけさ。君がやっているいることは犯罪だってことを、子供を相手に教え諭しているっていうかね」
僕だって大嫌いだ、説教してくる大人なんて。それはもうマジで虫唾が走る。
とはいえ今、僕は三万円もの大金を脅迫されているわけだ。
やっぱり払いたくない。単純にお金が惜しい。
それに抵抗するのは当然ではないか。
そのためには何だってする。
信じていない正義を持ち出して、相手の罪の意識に付け込む。それくらいのことは別に許されるだろう。そんなのは戦いの常道。
相手は子供である。簡単に口先で丸込めるだろう。
★
「なあ、天架ちゃん、まだギリギリ引き返せる。全部なかったことにしてやるから。別に謝らなくてもいい。そんなことは要求しない。ただ単に、今日のことはすっかり忘れてやるって言ってるんだ。だからもうこれで帰ろう。一緒に帰るわけにいかないな。君が先に席を立て」
「え? はあ?」
天架は愕然としている。さっきまでほとんど感情を表に出すことはなかったが、今、彼女の態度と声には強烈な感情が宿り始めた。
「何が忘れてやる、なかったことにしてやる、よ! 私は忘れない。なかったことにしない。あなたはお姉ちゃんを傷つけようとしているのよ! どうしてこんな酷いことをするのか理解出来ない」
人間のクズのくせに!
天架は僕に向かって吐き捨てるように言った。
「浮気なんてよくあることだ。大人の世界ではね」
本気でこの程度のことに憤っているのか。だとすれば、天架はかなりピュアな性格だ。
もう少し物分かりの良いタイプだと思っていたのに。
しかし何か「この人間のクズ」という罵倒には、もっと別の意味も含まれている気がする。
浮気とか不倫とか関係なく、この娘は僕を罵っている。
こんなにも感情的になりやがって、どういうつもりだ、こいつは。
しかしこんなガキに面と向かって罵られるのは、なかなか愉快な体験である。
ニヤニヤしてしまいそうだ。実際に僕はニヤニヤと笑っていたと思う。
★
哀しいことがあっても、ムカつくことがあっても、怒りで頭の中がいっぱいになったときでも、笑ってしまうのだ。僕はいつだって笑ってしまう。
いや、まあ、実際には笑わない。
笑いそうになるだけで、本当に声を上げて笑ったりはしないけど。
「おいおい、お前らごとき下等な家畜プランクトン級最底辺が、この上等な俺を怒らせるというのか。これは笑うしかない事態だぞ」と思いながらも、顔には何の感情も出したりしない。
何せ僕は真っ当な社会人である。年上を敬い、子供を大切にして、上司には従順で、時間もルールも守る男。
心の中で爆笑してはいても、それを見事に押し隠すことが出来る人間だ。
しかし天架を前にして、僕はヘラヘラと笑ってしまったのかもしれない。こいつ、マジで笑わせやがるぜ、と。
すると天架は言った。
「五万!」
★
テーブルが音を立てて揺れた。水の入ったグラスが一瞬浮いたような気がした。
「三万じゃ駄目。決めたから。五万円用意して。さもないとお姉ちゃんにこの写真を見せる」
天架は怒っているようだ、けっこうマジな感じに。
「五万だって」
僕のニヤニヤした笑いを自分への侮辱だと受け取ったのか、天架は値段を釣り上げてきやがった。
しかし僕はますます、笑いの発作に襲われてしまいそうになる。
「馬鹿らしい。君の撮ったこの写真は、ホテルから出てきたシーンを写したものでもない。君はまだ若いから何もわかってないようだけど、これには何て言うか本当の意味で男女のさ、ヤバいものが写ってないんだよ。腕を組んでいるとか、キスしているとか、そういう写真を持ってこいよ!」
笑っている、依然として、心の中では笑いの衝動が激しく渦巻いているよ。
しかしこの辺りでビシッと、このガキに大人の厳しさを教えてやらなければいけないだろう。
★
「なあ、おい、天架ちゃん、君は男と付き合ったことがあるのか、え? ましてキスしたことは?」
僕はテーブルに手をドスと突き、天架の顔に身体ごと近づく。
「な、ないけど、・・・だから何よ」
その気になれば、天架の唇に触れるくらいの距離感である。
実際、彼女の息が僕の唇にかかる。それはミルクのような香りがして、僕はケッと舌打ちしてしまいそうになる。
「そんなことも知らない子供のくせに、粋がってスキャンダルを仕立て上げようとしやがって。恥を知れよ、おい、マジでさ!」
僕はかなり強い口調で彼女を言ってやった。僕を怒らせたらどうなるのか、天架に教えてやるのである。
おい、その気になれば君を少年院送りにしてやることだって出来るんだぜ。だって君は罪を犯しているんだから。
少年院は怖いところだ。君はついこの間まで、お化けが怖くて一人で夜中にトイレも行けなかっただろ?
そういえば虫も苦手だったよな。
少年院は不潔な場所でもあるぜ。ゴキブリどころじゃない。ムカデやら、ヤモリやら、ネズミやらもきっと、多分、うじゃうじゃいるような場所だよ。
飯だって不味いはずだ、それより何より、あそこには自由がない。人間として扱われない。
僕は自由を奪われるのが一番嫌だな。まあ、少年院なんて年齢ではないから、放り込まれるとしたら刑務所だけど。
お前だってそうだろ? なあ、天架。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます