微睡

鳥居は朽ち、彩度の概念は

ほぼないに等しかった。

柱は途中で折れていたり

崩れた上部が床に転がっていたりして

とても歩きづらくなっている。

体全身を使って

乗り越える場所もちらほらあった。

石段も鳥居崩壊故さらにひび割れ、

場所によっては元々

整備されていなかったかのように

土が剥き出しになっている。

周囲に群がっていた草花も

枯れ果ててしまって

見るも無惨な姿のまま項垂れている。

生えている量もまばらだったようで

痩せて皺の目立つ土が目につく。

地面はどこまでも続いており

先まで全く見えなかった。

朗らかだった日差しも

今では空が落ちてきそうなほど

真っ暗な雲に覆われている。

雨が降っていないのが奇跡のよう。


詩柚「……。」


もうすぐでこの選択肢のある日々も終わる。

そう予感せざるを得なかった。

最後には何があるのだろう。

こんなにも色褪せ、

朽ち果てた道の先に

虹のように明るい場所があるとは思えない。


倒れた鳥居へ

寄りかかるようにして目覚めてから

やっとのことで階段もどきの先へ進むと、

いつものように看板が現れた。

文字が掠れて読みづらい。

形も燃やされた後のように歪で

隅は黒や焦茶色に変色している。

看板に触れない程度に

眉を顰めてその文字を読む。



『渡邊彼方の弟が母親に連れて行かれる』。

『高田湊が留年する』。



詩柚「……っ!?」


心臓が、今一瞬だけは

自分のものではないと思った。

そのくらい頭から血の気が引いていき、

目の前の文字を文字として

認識できなくなっていく。

けれど、脳裏には

先ほど読んだ文が確と刻まれている。


彼方ちゃんが命を賭けて

守ったとも言える弟が、

自分たちを捨てた母親に

連れて行かれるか。

それとも、高校1年生の時に

留年した湊ちゃんを

もう1度、留年させるか。

大人にならないでほしいとは

思ってしまう時がある。

けれど、留年してほしいとは

今はもう願ってもいない。


詩柚「…………やだ。」


やだ。

嫌だ。

両方とも、こんなの…

選びたくない。


本人に危害が加わることが嫌なのか

自分が選ぶという

責任がつきまとうのが嫌なのか、

濁った大人の器では

綺麗に映し出すことができなかった。


ここで選ばなければ

一体どうなるのだろう。

もっと前から試しておけば良かった。

選ばなければここから動かずに済んだのか、

勝手に選ばれてしまうのか

知っていれば良かった。

間違いだと思うことを

早めのうちから経験していれば

良かったのかも知れない。

それが今更になって重く響く。

正解ばかり求めるせいで、

選択の内容は間違えられない。

間違えてはいけない。

そんなものにまでなってしまった。


…そんなの、後から嘆いているだけで

ただの戯言にしかすぎないのだろう。

やれることはやった。

それで良いはずなのに、

ああしていれば良かったのかも、

こうしていれば今は違ったかとも

しなくて良いはずの後悔が

止まることを知らずに

脳内で破裂して溢れている。


詩柚「……ぅ…。」


その果て、どうして私が。

私だけがこんな目にと

被害者ぶるのだ。

被害者は間違いなく

彼方ちゃんと湊ちゃんだというのに。


間違えられない。

間違いたくない。

目の前にあることは

全て夢になったりなどしない。

どうにか…首の皮一枚でいい、

繋がる方はどちらなのか。

どちらかを選んで、

選んだ先で誰かが

亡くなるなんてことは

絶対にあってほしくない。


選べ。

どちらにせよ、1度は悪い方に転がる。

悪くなってしまうことは

この選択肢上避けられない。


避けられない。

なら、私は。





***





アラームが鳴る。

もうすぐ学校なのだから

起きろと告げる音だ。

けたたましい音が無くなるよう願っても

私が動かない限りは止まらない。

それでも頭まで毛布を被り、

この世の全てのものを否定するように

小さく丸くなるしかなかった。


詩柚「…………っ。」


布団ってこんなに重かったっけ。

2枚掛けは寒くなってきてからは

常にしていたはずなのに、

今だけはやけに重たく感じる。

もう、動けなくなってしまったみたいだ。

そのくせ聴覚だけは

過敏になってしまっていて、

時計の音や自分の血の音、

呼吸で擦れる布団の音が

大音量となって耳に届くよう。


詩柚「……うるさい…。」


耳を塞ぐと、手のひらの

ごうごう、ととと、ど、と

地鳴りのような気持ちの悪い音が

頭の中を支配するので

すぐに手を離した。

投げ出された手が布団を掴む。

体の芯から温まっていて

隅から隅まで暖かいはずなのに、

指先と、心臓付近が冷たく感じる。

なのに頭や顔や

熱ったように暑い。

自分の体がおかしい。

コントロールすらまともにできないのだ。


詩柚「…。」


どのくらい時間が経ったのだろう。

スマホが鳴った。

何度も、何度もなった。

メッセージがしばらくきたと思えば、

少し時間を空けて今度は電話がかかってきた。

それも出れなかった。

無視してしまった。

また電話がかかってきた。

何度も、何度もかかってきた。

それでも体は動かなくて、

そのうち瞼は閉じてしまった。


また何時間か経たと思う。

外は先ほどまで夕陽が

差し込んでいたはずなのに

既に暗く部屋の中は闇ばかり。

起きるのも億劫で

寝転がったままようやく

背を丸めるのをやめて

大の字になって寝転がった。


その瞬間だった。

インターホンが鳴ったのだ。

何か注文していた記憶もないし、

セールスだったら尚更

布団から出る意味もないが、

もし私が忘れているだけで

何かしらの点検だったらあるのであれば

ちゃんと出て対応しなければ。

辛うじて残った理性が

無理矢理体を起こす。

感覚を頼りに家の中を歩き、

電気をつけることも

髪を整えることもせず、

扉の方へと向かった。


詩柚「……寒い。」


背から凍える。

ぼさぼさの髪が頬を撫でる。

もう少し、まともな格好をしとけば良かった。

でももうどうでも良いか。

何だって良い。

死にはしない。


伸びた爪がドアノブに触れ、

そのまま体も使って扉を開いた。


そこには。


彼方「…寝起き?」


詩柚「…っ!?」


そこには何故か

彼方ちゃんが立っていた。

どうして。

そう思ったのに声が出ず、

口をぱくぱくとさせてしまう。


彼方「何回も連絡しても見てなかったみたいだし、高田に連絡して住所教えてもらった。」


詩柚「な、何で。」


彼方「だから連絡見てなかったでしょって。」


詩柚「学校は。」


彼方「はぁ?今日土曜日ですけど。」


詩柚「……ぁ…そう、だっけ。」


彼方「寝すぎておかしくなってんじゃん。」


詩柚「…ごめん。」


彼方「ま、いいや。どうせ夜暇でしょ。」


詩柚「え…そう、だけど…。」


彼方「すぐ一泊できる荷物用意して。待ってるから。」


詩柚「え、え…?お風呂とかもまだだから時間かかるよお…。」


彼方「お風呂もご飯もいらないから。早よ。」


詩柚「えっと、どこ行くの。」


彼方「うち。」


詩柚「……どういう…?」


彼方「むしゃくしゃすることがあったから付き合えって言ってんの。わかる?」


詩柚「…そんな無茶苦茶なあ…。」


彼方「早く。待ってるから。あと玄関入れて寒い。」


詩柚「要望多いなあ…。」


彼方ちゃんは私に有無を言わせず

玄関にずかずか入ってきては

靴を履いたまま玄関の段差に

腰を下ろして背を向けた。


むしゃくしゃすることがあった。

その言葉が気がかりなまま

彼女の背を後に

言われるがまま荷物を詰める。


詩柚「…。」


顔を洗うと、まだ眠そうな目が

鏡越しに瞬きをした。

簡単だが髪を整える。

その間も、むしゃくしゃしたことが

何なのか考えては

唸り声を漏らした。


だって、私が選んだのは

『高田湊が留年する』だったから。

最後の最後に裏切ることをしたのだ。

自分が1番許せない。

けれど、どれを選んでいたとしても

自分を責める他できないのも事実で。


準備を終えて、彼方ちゃんに連れられ

電車へと乗った。

気温が低いこともあり、

列車内は弱く暖房がついている。

ぽかぽかとしてしまって

また眠りそうになるところ、

彼女の家の最寄駅に着いたようだ。


夜が暗い。

いつにも増してそう思う。

対して街灯が眩しいと思う中、

突如彼方ちゃんは足を止めた。

急だったもので、

後ろをついてまわっていた私は

思わず背中に突進しそうになる。


詩柚「うわっ……えっと…彼方ちゃん?」


彼方「ここ。」


詩柚「え?」


彼方「ここ、うちの家。」


そう言って指差したのは

とんでもなく立派なお家だった。

夜だから暗色がかってはいるものの、

きっととても綺麗な

明るい色をした一軒家であることはわかる。

小さいながら門のようなものがあり、

数歩歩くと玄関が待っている。

横を見ると中庭らしき部分もあり、

富裕層のファミリー向け物件であることは

紛れもないだろう。


私の今の家や昔の家とは

比べものにならないくらい

良い家に住んでいるとは思っていなかった。

お金が必要だと言っていたから、

てっきり狭い木造の家に

住んでいるのではと

思っている節があったのだ。

急に恐れ多くなって

リュックを前で抱えるようにして持った。


詩柚「……お邪魔します。」


彼方「そこらへんに荷物置いといて。」


詩柚「……。」


彼方ちゃんが指差す方へと

小さい歩幅で歩いていく。

ソファの近くを指していた気がして、

その横の床にリュックを下ろす。


外から見ても綺麗で大きな

一軒家だと思っていたけれど、

中も清潔感のあるものだった。

天井まで伸びる大きな窓、

吹き抜けのある2階建て。

ぱっと見ただけでも

明らかに裕福な家庭であることは明らかだ。

それなのに彼方ちゃんが

お金を欲している理由な

なんだっけと思った瞬間、

そういえばまともに親が

養育してなかったと話したことを思い出す。

まさかこの家のローンまで

払っているなんてことはないだろうが、

少なくとも生活費は

渡されていなかったのだろう。


ソファに座ると、

自分の家のものとは違って

体が地の底まで沈むようにふかふかだった。

思わず背を預けてうとうとしてしまう。

来て早々眠るなど

流石に非常識だと思い、

重たい瞼を開いて

キッチンにいた彼方ちゃんの方へと向かった。

カウンター型になっていて、

子供の顔が見えるようにと

考えて作ったような構造だった。


詩柚「……何で急に…誘ってくれたの。」


彼方「気分?」


詩柚「気分?って…。さっきはむしゃくしゃしたとか何とか。」


彼方「それも踏まえてだって。」


詩柚「う…。」


彼方「寝起きで急に色々言われて混乱してんならちょっと寝たら。」


詩柚「……そうするよお…。」


彼女の言うとおりだ。

夢であんな選択肢を選んで、

起きて、動けなくて、

やっと動けたと思えば

彼方ちゃんの家に連れられたのだから。

お泊まり会、と聞くと

数日前に湊ちゃんとした

お泊まり会を思い出す。

もしかして…と

彼女のほうへと振り返る。

戸棚を開けて何かを探しているよう。

お湯も沸かしているから

もしかしたらお茶を入れたり

ご飯を作ったりするのかもしれない。


もしかして、私と湊ちゃんが

お泊まり会をしたから、

その当てつけだったりするのだろうか。


詩柚「…。」


彼方ちゃんならしかねないなと

不意に思ってしまう。

そう思ってしまうことも

申し訳ないように思えて、

またソファに座っては

背に体重を預けてうとうととした。


少しして、階段を駆け降りてくる音がして

ゆっくりと目を開く。

振り返ると、2階から降りてきた

男性がきょとんとした顔で立っていた。

ぎょっとして思わず

ソファから飛び起きる。


彼方「詩柚。こっち、弟の大地。」


大地「あ…初めまして。」


詩柚「初めまして。羽元詩柚ですー。よろしくねえ。」


大地「よろしくお願いします。」


そっか。

そうだった。

弟くん…ちゃんと家にいるんだ。

母親に連れ去られたりしてないんだ。

良かった。

そう思うと同時に、

本当に湊ちゃんの方の選択肢を

選んでしまったことが頭を悩ませる。


大地「姉ちゃんが西園寺さん以外といるの珍しいね。」


彼方「知り合い。」


大地「学校の人?」


彼方「そ。大地も詩柚も手洗ってきて。」


大地「はぁーい。」


詩柚「…。」


そういえば西園寺さんと

彼方ちゃんって仲良かったんだっけ。

けれど今はそれどころじゃなく、

彼方ちゃんの言葉の通り手を洗って、

のちに3人で夕食をとって…と

行動はするのだが、

何をしていても頭を経由しないような

生返事ばかり口から漏れる。


夕飯を終え、弟くんが

先にお風呂に入ることになり、

それぞれソファに座って

適当につけたテレビを流していた。

私たちの間には

人が1、2人座れるほどの間があり、

この隙間はどちらからも

埋めようとしなかった。


詩柚「…。」


彼方「…。」


けたけたけた、と

芸人さんが周りの人を笑わせる。

彼方ちゃんの家に来て

すぐに夕食をとっただけなのに、

もうすぐで22時を

周りそうな時間になっている。


彼方「部屋。」


詩柚「…?」


彼方「同じベッドでいい?」


詩柚「…他の場所でいいよお。ここのソファとか。」


彼方「やめときな。」


詩柚「どうして。」


彼方「聞かない方がいいかも。察して。」


詩柚「…難しすぎるよお。」


彼方「じゃ、うちの親は昔っから男遊びばっかする人である前提をして。そしたらわかる?」


詩柚「…。」


彼方「そゆこと。それで言うとうちの部屋は安全だから。うちずっと外でしかお金稼ぎしてないし。」


詩柚「……。」


彼方「ど?」


詩柚「…わかった。」


彼方「別に襲ったりしないよ。」


詩柚「うん。」


そう思うと、今座っている場所すら

気持ちの悪いものに思えてしまって、

けれど露骨になるのも駄目な気がして

体を縮めて硬直させたまま

テレビを眺めていた。

それを見かねたのか、

彼方ちゃんがため息を吐く。


彼方「コンビニ行かね?」


詩柚「この時間に…?」


彼方「弟寝るまでテレビ見ながらなんか食べよっかなって。たまにはいいでしょ。」


詩柚「…そうかもねえ。…1人にして大丈夫…?」


彼方「声かけてから行く。ちょっと待ってて。」


そう言い残して、

迷うこともなくお風呂場へと

向かって行ってしまった。

リュックから小さいカバンと

お財布、スマホやらを取り出す。

伸びた爪が光を淡く反射した。

そういえばこの家は明るい。

カーテンをしているが

照明が付いているのだから当然と言えるのに、

思わず自分の家と比較してしまった。


彼方ちゃんも弟くんも

お風呂場を覗かれることは

割とあることなのか、

ノックして開くような音が

遠くから聞こえた。

それを聞かないフリをして

荷物を整え玄関で待つ。


戻ってきた彼方ちゃんは

手ぶらでスマホだけを

ポケットの中に突っ込んだ。


彼方「行こ。」


詩柚「うん。」


冬の迫る夜は冷えるだけでなく

どこか青っぽい気がした。

寒いし暗い。

そんな冬の隅は

待っていればいつの間にか

周ってなくなってしまうのに、

今だけは永遠に続くものではと

思ってしまうもので。


彼方「詩柚の部屋みたい。」


詩柚「…暗すぎて?」


彼方「そう。」


詩柚「まあ…確かにねえ。」


彼方「ずっと寝てたの?」


詩柚「…うん。なんか、起きる気分じゃなくて。」


彼方「じゃあ詩柚の家行って良かった。」


詩柚「…そう?」


彼方「だってそのまま寝かせてたらいつの間にか死んじゃってそうだから。」


詩柚「それもそうかもねえ。」


思えば彼方ちゃんは

いつだって無理矢理だった。

依存関係を始めるのも、

昼間に駅ビルで遊ぶ時もそう。

2人でどこかに行く時は特に

予定が空いているかは

聞いてくれるけれど、

最終的に行くかどうかは彼女が決める。

そのあたりは

湊ちゃんと全く異なっていた。


湊ちゃんは私のことを優先してくれる。

その上で、ここにも行きたいけれど

現実的に考えて難しいから、

近場で似たところを…と選んでくれる。

もしくは、家の中で楽しめることに

してくれるのだ。

無理矢理連れ出すようなことはしない。

途中で眠れば良いと私が言っても、

長年見ているだけあって心配なのか、

あまり遠出をしなかった。


だからこそ彼方ちゃんの無理矢理さが

私にとっては新鮮で、

新しい経験が溢れていたのだと思う。

それが良いものが悪いものかは別にして、

間違いなく私の人生で

ないものばかりが詰め込まれていた。


コンビニはこんな時間になっても

お客さんはまばらにいて、

それぞれ今日の夕飯や

明日の朝食などを買っていた。

今日は私も彼方ちゃんも

部屋着で出歩いていたもので、

隣にいてもさほど緊張しなかった。

おつまみやおやつを

ぽいぽいとカゴに入れていく彼女を

ぼうっと眺めていた。

まるで酒飲みのような、と思っていると

彼方ちゃんはお酒の並ぶ棚の前に向かった。


彼方「詩柚って酒飲むの。」


詩柚「飲まないねえ。」


彼方「飲んだことは?」


詩柚「ないよお。」


彼方「もったいな。」


詩柚「いやいや、彼方ちゃんが言える言葉じゃないでしょお。」


彼方「確かに。うちノンアル。」


詩柚「え、ちょっとお。」


彼方「法律上は問題ないから。はい、詩柚も入れて。」


詩柚「ええ…。」


彼方「入れないなら適当に強いやつ入れるよ?」


詩柚「それは困るからやめてねえ…。…ノンアルならジュースと変わらないんじゃない?」


彼方「背伸び代。詩柚いるし買えるから。」


詩柚「利用したなあ。」


彼方「使えるもんは使っていくの。」


詩柚「だからもったいないって?」


彼方「そーゆーこと。」


ろくにお酒を飲んだことがないから

好きなものどころか

ビールとチューハイ、カクテルの

違いすらわからないままに

アルコール量の少ないものを入れた。

すると、彼方ちゃんは追加で

結局強いお酒も入れて、

お会計を済ませた。

元から私に拒否権などなかったよう。

それなら何で聞いてきたんだと

少し笑いそうになった。


彼方「ただいまー。」


詩柚「…ただいま。」


久しぶりのただいまが

彼方ちゃんの家に響く。

自分の家なら言わない言葉を

ここでなら口にできてしまうことに

驚いている自分がいる。


大地「姉ちゃん風呂空いたよー。」


彼方「はーい。」


大地「ぬるくなったから湯も変えたー。」


彼方「ありがとー。お菓子いるー?」


大地「いるー!」


2階から声が伸びる。

普通の家ってきっと

こういう暖かさがあったのだろうな、

彼方ちゃんは自分の努力で

その暖かさを作ったんだ。


私は、どうにかできたのかな。

あの家で。

どうにか。


弟くんはコンビニで買ったもので膨れた

レジ袋の中を見ると

目を輝かせて喜んでいた。

それが微笑ましくて、

思わず口角が上がっていたことに

気づかないままでいたかった。

弟くんが好きなお菓子をいくつかとって

スキップをするように

跳ねて2階へと戻ると、

他の購入品は冷蔵庫にしまわれ、

先に風呂だと指を指されていわれた。

そういえば昨晩入ったとはいえ

今日はまだお風呂に入らず

来ていたことを思い出し、

だからかと思っていたが、

どうやらお酒の前にお風呂に入る方が

体に優しいらしい。

私の知らないことばかり

知っている人だと

改めて思い知らされる。


着替えを持って脱衣所に向かうと、

どうしてか彼方ちゃんもついてきた。

びっくりしていると、

バスタオルはここシャンプーはこれ、と

教えに来てくれたらしい。

警戒して損したかと思えば、

今度は当然のように服を脱ぎ出して

思わず目を丸くしてしまう。

目のやり場に困ることには変わりないけれど、

下着の上にヒートテックを

身につけてくれていて本当に良かった。


詩柚「…え、っと。」


彼方「一緒に入る。」


詩柚「き、急すぎないかなあ。友達の関係とはいえ…」


彼方「依存関係ね。そうじゃないなら知り合い。」


詩柚「…どちらにせよ、一緒は…。」


彼方「じゃ、先に体流して浸かってて。よくなったら呼んで。」


詩柚「そういう問題…?」


彼方「見られたくないとかそういう話じゃないの?」


詩柚「そうじゃなかったけど…。」


彼方「ま、寒いから早く入って。」


詩柚「上着て待っててよお。時間かかっちゃうだろうし…。」


彼方「ん。」


そう言って意味は伝わっているのだろうか、

放り投げた自分用のバスタオルを

肩から羽織っていた。

弟くんが入った後なお陰で

そこまで冷えることはないだろうが、

薄着でそのままにさせておくわけにもいかず

振り回されるようにしてお風呂に入る。


1人暮らしの家からは

考えられないほど広く、

まず浴槽で足が伸ばせることに感動した。

いいよ、と声をかけると

少しして髪を上の方で

まとめたままの彼方ちゃんが入ってくる。

彼女のいう通り、

先に入っていて良かったかもしれない。

湯気が邪魔をしてくれるし、

浴槽についた小窓の方を見ていれば

気まずくならずに済む。

時折シャワーの水滴が

わずかながら飛んでくる。

その度に、今一緒に

人とお風呂に入っているんだと

実感せざるを得なかった。


そっぽをむき続けていると

やがてシャワーは止まり、

膝を抱えて浸かる私と対面するように

彼女がお湯へ足を伸ばした。

嵩が人1人分ぐっと増す。

心臓が圧迫されるようで

水泳の授業ってこんな感じだったよなと

不意に想起させられた。


意識している自分が

悪いだけなのだろうけれど、

それでも顔を合わせることも

俯くこともできず

窓の方を眺め続けた。

申し訳なくて、気まずくて、

湯で思考の波がおさまっているままの頭で

言葉を口から滑らした。


詩柚「そういえば、むしゃくしゃしたことって何だったの。」


彼方「ああそれ。話してなかったっけ。」


詩柚「聞いてないよお。」


彼方「母親が連絡してきたの。今更。」


詩柚「…!……なんて来たの…?」


彼方「近くに来たからいくかも、みたいな。」


詩柚「……そんな勝手な…。」


彼方「結局こなかったから良いんだけど。」


詩柚「…そうなんだあ。」


彼方「来なくて本当に良かった。」


詩柚「…。」


彼方「でも、うちもうちだよね。」


詩柚「そうかなあ。彼方ちゃんは何も悪くないと思うんだけど…。」


彼方「母親の連絡先、ずっと残してたんだよ?」


詩柚「あ…。」


彼方「もう2度と連絡なんて来ないと思ってた。でも、消せなかった。」


詩柚「…忘れてただけだよお。」


彼方「多分そう。その時間が最近は長かった、と思う。でもさ、時々思い出してはいたんだよ。」


詩柚「…。」


彼方「なのに消さなくて良いかって思ったのはうちで。…ないってわかってても縋ってる感じが滑稽だなーって。」


詩柚「……縋りたいって思えるお母さんだったの?」


彼方「昔はね。」


詩柚「…。」


彼方「昔はちゃんと母親してたよ。好きだった記憶もある。でも、最近のことばかり思い出して、もう嫌いになった…なったつもりにしてるんだと思うけど。」


詩柚「恨んでる…?」


彼方「うん。」


詩柚「……いなくなって欲しいとかは、思わないの?」


彼方「思うよ。思うに決まってんじゃん。」


詩柚「…!」


思わず窓から目を離して

彼方ちゃんの方へと振り向いた。

華奢な肩が湯からはみ出している。

それ以上に、いつもの鋭さのない

潤った瞳に目を奪われた。


彼方「だからむしゃくしゃしたの。昔からのものって何かと無意識のうちに覚えてたり繋がってたりして、嫌いになれないよねって話。」


詩柚「……そうかもね。」


昔からある繋がりは嫌いになりづらい。

なら、湊ちゃんは。


水面を眺む。

自分の顔がぐにゃぐにゃに歪んで

そこにあるのが見えた。

それからすぐにのぼせてしまって、

先に脱衣所へと避難する。

彼方ちゃんはまだ髪も洗ってないからと

ゆったり湯船に浸かったまま言った。


お互いお風呂から上がると、

彼方ちゃんが先程買ってきた

あれやこれやを机の上に出した。

こんな量は食べきれないね。

寝る前だしね。

そんな会話をふわふわとした頭で

したのを覚えている。

睡眠をとり、床に座って、

ローテーブルを前にする。

今度は彼女の真横に位置し、

缶ビールをかしゅ、と開けた。

その途端、記憶をくすぐるような

アルコールの匂いが鼻を突く。

自分もあれらと同じ

大人になってしまったと

認識する他なかった。


彼方「乾杯。」


詩柚「うん。…乾杯。」


口をつけてみると

甘いチューハイを選んだからか

ジュースっぽい風味がする。

それ以上に後味の

手を拭く時のような

アルコールの味になれず、

すぐに口を離した。


彼方「不味い?」


詩柚「…慣れない。」


彼方「何%?…なんだ、3%じゃん。」


詩柚「それでもちゃんとアルコールの味はするよお。」


彼方「ほんとに飲んだことないんだね。」


詩柚「そっちはどお?」


彼方「ノンアルだけど多分ビールに近いんじゃない?苦めな方だと思う。」


詩柚「そうなんだあ…。」


彼方「それ、うち飲めないから開けた分何とかしてね。」


詩柚「えっ。」


彼方「え、って。そりゃそうでしょ。」


詩柚「……どうしても無理だったら捨てて良い?」


彼方「無理ならね。お酒弱い?」


詩柚「それもわからないんだよねえ。でも、匂いは好きじゃない。」


彼方「あーね。タバコみたいな。」


詩柚「それも好きじゃないねえ。」


彼方「詩柚子供舌じゃん。」


詩柚「大人になってもあんまり特権あるぞって感じしないんだよお。」


彼方「お酒もタバコもしないならそうかもね。あとは運転とか?」


詩柚「できると思う?」


彼方「あー…無理か。」


詩柚「寝ちゃうと危ないから。」


彼方「ふうん。」


そう思うと子供の頃から

何も変わっていないのだと

突きつけられているようで、

今更ながら虚しくなった。

大人になったらもっと変わると思っていた。

学校に行って、ほとんど中学校から

持ち上がりの交友関係なんじゃなくて、

知らない人たちと仲良くなって

勉強したり話したり遊んだりして。

それから、大学に行って

知りたいことをさらに深く勉強して。

それから大学院に行くか

働くかを決めて。

好きなことをして、

時々ミスをして凹んで、

でも同期の人たちと励まし合って。

そして、いつか信頼し合える人と

時間を共にして、結婚して。

暖かい家庭を築いて行けたら。


そんな日を夢見ていた時期も

いつだかあった気がする。

思い出そうにも思い出せず、

口寂しくなって

飲みたくもないお酒を口につける。


適当に少量ずつ、

雀のようにちまちまと飲み食いしていると

僅かに酔いが回ってきたらしい。

テレビを見ていると、

さほど面白くないことのはずなのに

吹き出してしまうことが何度かあった。

それでも、どこか虚しいのは消えなくて、

またお酒をちびちび口につける。


彼方「あれだね、これ。」


詩柚「うん?」


彼方「楽しいから飲むっていうより、酔うために飲む、みたいな。」


詩柚「歌舞伎町と一緒?」


彼方「まあ、似てる。」


詩柚「…そっかあ。…でも、そうしたくなる理由もちょっとわかる気もするよお。」


彼方「酔ってないとやってられなくなった?」


詩柚「うん。」


ことり、と

缶ビールを置いた。


詩柚「何にも変わんなかったなあって。」


彼方「変えたかったんだ。」


詩柚「変えたかったし変わりたかったよお、でももう化け物は化け物でしかいられないねえ。頑張っても擬態することしかできないし。」


選択肢で、湊ちゃんが

留年することを選んでしまった。

先日、あれだけ守ると

豪語してそうしてきたのに、

彼女を傷つけるようなことをしてしまった。

守ることで、私も普通だと

思いたかったのかもしれない。

でも、もう遅いのだ。

化け物は化け物でしかなくて、

この眠りと一緒、根本治療はできない。


私の優先順位は元より決まっていた。

彼方ちゃんよりも湊ちゃんを守りたい、

そうだったはずなのに

湊ちゃんを蔑ろにした。

そして、彼方ちゃんから提示された条件も

破ることとなった。

結局は1人。

最初からこの形が

1番お似合いだったのだと思う。

湊ちゃんと長く

一緒に居続けていたせいで

そのことに気が付かなかった。


彼方「化け物ね。」


詩柚「うん。」


彼方「クリオネと同じだ。」


詩柚「…あはは、懐かしいねえ。」


彼方「でも擬態できるだけ良いじゃん。」


詩柚「……そうかなあ。」


彼方「完璧は無理だよ。特にうちらは。」


詩柚「それもそうかもねえ。」


彼方「…。」


詩柚「…。」


彼方「…それでさ。」


詩柚「うん。」


彼方「高田とはどうなったの。」


詩柚「やっぱり聞くよねえ。」


彼方「週末だし。」


詩柚「無理だったよお。」


彼方「普通には無理だったって認識であってる?」


詩柚「そう。普通に恋愛して…って、思ったんだけど、やっぱり駄目でさあ。」


彼方「んで、何もしなかったと。」


詩柚「……結果的にはそうだねえ。」


彼方「あっそ。」


詩柚「言い訳すると、未成年の子に手を出すわけにはいかないと言いますかあ…。」


彼方「適当な言い訳すぎ。どうせ自分の抵抗感でしょ。」


詩柚「…やだなあ、何でもわかってるみたいで。」


彼方「少しはわかったよ。今ので、意外と自分が大人って認識はあるんだなとか。」


詩柚「お酒飲んでるしねえ。」


彼方「今日が初めてじゃん。そうじゃなくて、高田のこと未成年扱いするから。」


詩柚「4つも下なんだよお?そりゃあ全然違うよお。」


彼方「この前は5つくらい違うって言ってたじゃん。」


詩柚「くらい、だからあってるよねえ。」


彼方「うわっ。悪いやつ。」


詩柚「あの田舎出身の人、みんな2歳差なんだよねえ…私が22で、間が花奏ちゃんで今年20歳でしょ?確か。それで、湊ちゃんが18。」


彼方「そっか、留年してるから。」


詩柚「そお。…でも、湊ちゃんはまともに私の年齢なんて覚えてないと思うよお。」


彼方「流石にそんなことないでしょう。」


詩柚「あるある。私と湊ちゃんの家の名残かもしれないけど、誕生日の時の蝋燭適当なんだよねえ。」


彼方「歳とりたくない人みたい。」


詩柚「実際時間を気にしたくなかったんだよお。1番知りたいし気になってるくせに、目を逸らしたかったんだあ。」


彼方「現実逃避ってやつ?」


詩柚「まあねえ。ともかく、私が大人ってことはわかってるとは思うけど、年齢なんて忘れるもんだよお。」


彼方「幼馴染なのに。」


詩柚「だからこそじゃないかなあ。」


からん。

あれだけきつかったはずの

アルコールの匂いはいつのまにか馴染み、

3%だがひと缶空けていた。

飲んでしまった。

やっぱりお酒なんて

飲めば飲むほど虚しくなるものじゃないか。


詩柚「幼馴染だから、長く一緒にいすぎたんだよお。」


彼方「…そう。」


彼方ちゃんは少し口を噤むと、

ぱっとその場を立って

何かのリモコンを操作した。

途端、大きな窓にかけられた

カーテンを開き始めて、

秋になったからか

一部枯れて程よい長さになっている

中庭が現れた。


カーテンの開く音を聞きながら

テレビをの隅の時刻をながむ。

日付が回って今日は12月1日。

もう12月になってしまった。


彼方ちゃんが私の手を取って、

そのまま引いていく。

窓際は裸足だと寒いはずなのに、

家の中は暖房がついているのか、

それとも酔っているだけなのか

冷たいと思うことはなかった。

窓の外を指差す。

木々の隙間を埋めるように

空が広がっていた。


彼方「今日、新月なんだって。」


詩柚「空が暗いねえ。」


彼方「街灯があるからそこまでじゃないでしょ。」


詩柚「でも、普段あるものがないと変な感じがするよお。」


彼方「それはちょっとわかるけど。」


手が離れない。

彼女は強く握っているわけじゃないのに、

今だけは引き剥がそうという思いが

底から抜け落ちているらしい。


横顔を見ていると、

彼方ちゃんはこちらを向いて

「そうだ」と私の手を握ったまま

空いた手で腰を支えた。


彼方「社交ダンス的なやつ、やろ。」


詩柚「ええ?彼方ちゃんが酔ってるんじゃないー?」


彼方「アルコールの匂い嗅いだし、じゃあそれで。」


詩柚「雰囲気酔いっていいなよお。」


彼方「なら、雰囲気酔い。」


詩柚「私踊りとか全く駄目だよお。」


彼方「うちもそんなにしたことないよ。それっぽく合わせといて。」


詩柚「だから、それが1番難しいんだってえ。」


1歩踏み出され、

その手に引かれるようにして

辿々しく足を突き出す。

あまりにぎこちなかかったのか、

彼方ちゃんはあはは、と

声を上げて笑った。


彼方「いいじゃん。そんな感じ。」


詩柚「絶対違うじゃんー。」


彼方「あってるあってる。」


詩柚「適当なあ…。」


たん、たんたん。

リズムとかよくわからないけれど、

腰を支えられるままに

ぴょこぴょこ足を動かした。

彼女の足を踏まないようにするだけで

精一杯なのだが、

彼方ちゃんは余裕があるよう。

酔いが回ったのか、

自分のあまりのできなささに

面白くなってきてしまう。

腰に手を当てられ、彼女との距離は

これまでよりもぐっと近いのに、

全く嫌にならなかった。


こんなことしてる場合じゃない。

笑ってる暇などない。

笑う権利がない。

そう頭の隅ではわかっているのに、

お酒のせいか、雰囲気のせいか。

今だけは酔うことを

許して欲しいとすら願った。

その言葉を直接聞いたかのように、

彼方ちゃんは静かに口を開いた。


彼方「今は月にも太陽にも見られないよ。」


詩柚「街灯はあるよお。」


彼方「あんな人工物、何でもない。神さまは今日は不在だから。」


詩柚「何したってバレないよって?」


彼方「そ。こんな可愛い2人が踊ってんのに、それを見れない神さまは可哀想。」


詩柚「可哀想。」


彼方「うん。うちらを「可哀想」と思わせる対象にした神さまを、可哀想って思い返してやりたかった。」


詩柚「じゃあこれで叶ったんだねえ。」


彼方「詩柚は自分のこと、可哀想と思う?」


詩柚「…。」


自分のことを。

可哀想と。


…。

思っては、行けないんだろうなと思っていた。

可哀想だなんてそんな大義なことを

経験したわけじゃないと思っていたから。

過去の傷も膿んで、傷痕になった。

眠ってしまう症状ももう慣れた。

今、辛いことはないと思っていた。

可哀想ではないって。

でも。


過去のことを見て。

今までを振り返って。

…そう思っても良いのかなって

感じてしまって。

それがほろ、と口からこぼれた。


詩柚「…思うよお。何年も前から思ってる。」


彼方「なら良かった。間違いじゃ無かった。」


言ってしまった。

お酒のせいで、話したくないことまで

話してしまったんじゃないか。

幻滅される。

そう覚悟したのに、

彼方ちゃんはうっすら笑う。


彼方「うちらの可哀想は対等だったと思う。」


カーテンがふわりと浮かぶ。

私たちが半回転したからだった。


彼方「可愛い人間が他の人間を可愛いと思うように、可哀想が可哀想だと思って良いじゃんね。」


詩柚「…傷の舐め合いだけど、それしか方法がないのならこれだって正解だったのかもねえ。」


彼方「ね。」


でも、と言って

彼方ちゃんは口をつぐんだ。

軽やかだった足取りが

緩やかに、緩やかに時間をかけて

やがて止まった。


彼方「でも、合わなかった。」


詩柚「……そう…だったね。」


彼方「…こういう時にだけ断言するんだもん、悪い女。」


嘲るように笑った。

その笑顔はこれまでで1番辛いもので、

1番吹っ切れたものに違いなかった。

腰から手を離し、彼女の手を取る。

爪の先まで手入れの行き届いていた。


詩柚「彼方ちゃん。」


彼方「ん。」


詩柚「依存関係、終わりにしよっか。」


彼方「うん。…うちもそう言おうと思ってた。」


ぎゅっと手を握って、

そして離れた。


終わったんだって事実が

頭から降り注いでくる。

あれだけ大変で

いろいろなことが起こったとはいえ、

いざ終わるとなると

寂しさが込み上げてくる。


彼方「…さて、遊んだことだし、片付けて寝ちゃお。」


詩柚「うん。そうしよっかあ。」


遊んだ。

それは今日のこの夜のことか、

はたまたこの1か月のことか。

何かが終わったはずなのに、

何かはまだ続いていて

一緒に後片付けをしたのだった。





***





詩柚「……。」


ぼろぼろの鳥居も、

ぐずぐずになった石段も

枯れ果ててしまった草木もない。

空ばかりはずっとのしかかるように重いが、

ついに続いていた道が途切れた。


詩柚「……ここ…。」


階段を上り切った先には、

いかにも年数を経た見た目をしている

神社がひとつ建立していた。

まるでモノクロ写真を見ているのではと

見紛うほどに褪せており、

お賽銭箱はあろうことがひっくり返され

襖のような扉は猫が引っ掻いたどころか

人間が通れそうなほどに

砕けてしまっている。

絵馬をかける場所は倒れ、

手を洗う場所も土で埋まっている。


詩柚「……廃墟…みたい。」


おおお、と木々もないのに

大きな獣の唸り声がする。

どこからともなく刺々しい風が

私の肌を刺していく。

それだけで恐怖心は一層強まるばかり。

それでも、もしかしたら

神社の中に何かあるのかも、と。

もしかしたらこれまでの選択肢を

全て無かったことにしてくれるような

悪魔のような神さまがいるかもしれないと、

むしろそうであることを願って、

おずおずと足を踏み出した。


たくさん、たくさん選んできた。

自分に飲料がかかってしまうことを選んで、

定時制の生徒から連絡先をせがまれた。

定期券を落とす方を選んで、

戻ってきたものの最寄駅を抑えられた。

彼方ちゃんの傘を壊す方を選んで、

一緒の傘に入って雨の中歩いた。

20時間眠ってしまう方を選んで、

彼方ちゃんに迷惑と心配をかけた。

下校時に電車が遅延する方を選んで、

夜の街を通ることになって

彼方ちゃんを拒絶してしまった。

彼方ちゃんが性被害に遭う方を選んで、

彼女をうんと傷つけてしまった。

湊ちゃんの家の鍵をなくす方を選んで、

誰かが拾っていたら

強盗が入ってしまうかもしれない状況に

陥れてしまった。

自分が道端で眠る方を選んで、

彼方ちゃんに余計な手間をかけてしまった。

湊ちゃんにお母さんから連絡される方を選んで

1番嫌だったであろうことを

聞かせてしまった。

大切な、大切な湊ちゃんを

留年させることを選んで、

彼女の将来を無碍にしてしまった。


最後、何があるのか。

狂気的に尖った木材がところどころにあり、

取手も壊れていたので

身を屈めて木の棘に当たらないよう

ゆっくりと潜った。


すると。


詩柚「…っ!」


そこには、見覚えのある

普通の部屋があった。

木造で、古くて、こたつが真ん中に

ぽつんと転がっている

棚の中はぐちゃぐちゃ、

あたりには酒瓶が転がっている。

お金の管理も杜撰で、

こたつの上や棚の隙間、

私の足元にまで転がっている。


詩柚「……ぁ…………。」


足、が震えた。

匂いはないのに、

アルコールの匂いが

漂ってくるような気がした。

ふらついてしまって、

思いもせず1歩踏み出す。

床に散ったタバコの吸い殻をいくつかと、

ぱさついたこたつの布の下に

隠れていた何かを踏んでしまった。


詩柚「うえっ……。」


裸足の裏についた吸い殻を払う。

気持ち悪い。

早く出ていってしまいたい。

それなのに、こたつに下に隠れた何かが

気になってしまう。

よくよく見てみれば、

足を折り曲げたような──。


詩柚「…!」


汚い、汚いこたつに手をかけて

すり減った体力精一杯を使って

こたつを持ち上げた。

奥に古ぼけたテレビや服やら

散らかっていた気がするがどうだって良い。

もう、既にぐちゃぐちゃだ。


こたつをひっくり返す。

…すると、そこには

背をうんと丸めて眠る

中学生の時の制服を着た私がいた。


詩柚「……そう…だよねえ…。」


近づいてはしゃがみ、

その頬にかかった髪を

そっとずらしてあげた。

夢の中だからもう1人私がいたって

おかしくないだろう。

その過去の私は

手紙のようなものを握っており、

記憶にないもので気になって

できるだけ優しく取り上げた。

和紙のようにざらざらとしていて、

この家の風貌にはぴったりなほど

色が落ちている。



『眠り方を過去に戻すなら連れ出せ。』



と。

たった、それだけ書かれていた。

ここまできたのに

労いの言葉もないらしい。


詩柚「……はは…あはは。」


紙が、手から滑り落ちそうになる。

それを逃さぬよう

くしゃりと握った。

汚いとわかっているのに、

力が入らずお尻を床につけた。

こんな環境でよく生きていたものだ。


もう、紙は見なかった。

目の前のあなただけを目に焼き付けている。

眉間に皺がよっていて、

既にまともに眠ることすら

できていなさそうな顔に

思わず苦笑してしまう。

どうしようもない時って

人は笑ってしまうらしい。

心は痛いのに、正常に涙が

流れてこなかった。


ずっと、眠りが正常になるようにと、

そうするためにと選択し続けていた。

少なくともそのはずだ。

そのていのはずだ。

けれど、ずっとずっと前から

心の中での覚悟も決意も

定まってしまっていた。


この眠りの症状は、

決して彼方ちゃんと依存関係を築くためでも

湊ちゃんに面倒を

見てもらうためのものでもない。


詩柚「…これは、私が隠したものを忘れさせないようにするための傷。」


あーあ。

ここまできたのに。

眠りも改善できるチャンスなのに。

勿体無い。

彼方ちゃんならそう言うだろうな。


けれど、決めてたんだ。

これは忘れちゃいけないことで、

うっかり口に出してもいけないことで。

話せないままはしんどいけれど、

でも、それが正解なんだ。

大人になってもお酒もタバコも

しなかった、実に私らしい選択だった。

足掻いて、足掻いて。

チャンスが降ってきて。

そして、その全てを無駄にする。

まるで人生みたい。


詩柚「……あはは。…あはは、はは。」


どうせ死ぬのに

何故生きるんだろうね。

過去の私ならわかっていなかったよね。

今の私にはわかるよ。

幸せだとかそんな

まやかしのもののためでもない。


時間が経つのを、ただ待つの。





***





目覚めると、知らない布団の上にいた。

幾分もふかふかで、寝心地がいい。

頭まで被っていた布団を剥がすと、

そういえば彼方ちゃんの家に

来ていたんだったと思い出す。

服がたくさんハンガーにかかっていて、

いかにも女の子らしい部屋だった。

彼方ちゃんの姿がなく、

部屋を出て階段を降りると

彼女がキッチンにいるのが見えた。


彼方「おはよ。」


詩柚「おはよお。」


彼方「ブラックコーヒーいる?目、覚めるんじゃない?」


詩柚「どうせすぐ寝ちゃうけどねえ。」


彼方「効果あんまりないんだ。」


詩柚「うん。でも飲もうかな。」


彼方「そこは飲みたいで。」


詩柚「飲みたいです。」


彼方「それならよし。くっそ濃くしてやろ。」


詩柚「あはは…意地悪はやめてねえ。」


乾いた笑いが出た。

これでよかったとはいえない。

眠りのことも、湊ちゃんのことも、

今目の前にいる彼方ちゃんのことも。

けれど、これまでのいつの時よりも

気を抜いて話せている。

彼女の言葉尻も柔らかで、

朝の日差しのようだった。


…私たちは似たもの同士だった。

それはきっと本当。

けれど、依存し合うには

思う形が違いすぎた。

きっと少し離れて、

隣よりも斜めにいるくらいが

ちょうどよかったんだ。


髪を下ろした彼女が

コーヒーを淹れる姿を見て、

依存関係が終わった味を噛み締める。

夢のような味がだった。

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