定規
涼やかな風と朱色の鳥居。
目を覚ますと何度目かの
滑らかな石段が素肌に触れた。
詩柚「…またここ…。」
また、とは言いつつ
どこか久しいと思う私がいる。
実際には何度も眠って起きてを
繰り返しているもので、
何回眠るたびに来るのか
全くわかっていなかった。
時間にしてみればざっと
2日ほど空いただろうか。
今日も二手に分かれた道の根に立ち、
前には看板が設置されている。
『自分が定期券をなくす』。
そして『高田湊がバイトに遅刻する』。
どちらも嬉しくないことには変わりはない。
定期券は長期休暇を考慮して
3ヶ月単位で購入していて、
もうすぐ期限が切れるとしても
損失であることには違いない。
湊ちゃんの遅刻の理由は分からないし、
彼女の価値は変わらないが、
それでも多少は信頼に関わるだろう。
どちらも嬉しくない。
けれど、その上で湊ちゃんに
損失がいくことはもっと嬉しくない。
詩柚「なら…。」
自分を選ぶ他ない。
なくすだけであって
すぐに出てくるかもしれないんだから。
無くしたとしても買い直せば
大丈夫だから。
そうして、自分が定期券をなくすと
示された方の道へと進む。
小さなことだけれど、
湊ちゃんを守ることに繋がるのなら
私は喜んで受け入れたい。
大切な湊ちゃんのためなら。
***
彼方『今日も残るから授業終わるくらいになったらそっちいく。』
スマホの画面には
渡邊さんからの連絡が来ていた。
一昨日に依存関係になろうと
提案されてから、昨日、今日と
毎日一緒に下校している。
提案を承諾したはいいものの、
じゃあ今から依存関係ですなんて
ぱっと切り替えてそうなるものでもない。
今のところはただ最近よく
一緒にいる人となっている。
定時制の人たちとすら話さず
湊ちゃん以外の人と
関わりのなかった私からすれば、
それは大きな進歩ではあるけれど。
そして、直近では
定時制の人と話していないわけでもない。
見方によっては、だけれど。
「本当にダメ?」
詩柚「…すみません。」
「連絡先教えてって言ったって、別に電話しようとか思ってないから!前言ってたクリーニング代を送金するだけだって。」
詩柚「それでもです。」
すみません、ともう1度断りを入れて
顔を伏せて真っ暗な中
机の木目と顔を合わせる。
一昨日に私の鞄に
お茶をこぼした人から
よく話しかけられるようになった。
何でいつも寝てるの?
寝不足?
昼はバイトしてるの?
一緒に帰ってた人は友達?
そして、理由はどうであれ
要約すると連絡先が知りたい。
話してはいる。
鬱陶しいことこの上ないが、
話さないよりはいいのかもしれない。
馴れ馴れしいが、言ってしまえば
私もそのテンションで話せば
友人としての距離っぽく見えるのだ。
湊ちゃんが望んでいたのは
はい、いいえだけの
冷たい会話ではないと思うけれど、
しないよりかはした方が
事実として話すことはできるのだから。
これまで授業と授業の間は
眠らなければ授業中で
眠ってしまうからと
準備のために眠っていたのに、
最近は話すことから
逃げるために眠っている気がする。
「では今日の授業はここまで。」
今日の授業が終わり、顔を伏せる。
眠る。
渡邊さんは待たせてしまうけれど、
道の途中で眠るよりは
今眠った方がいい。
意識が一瞬途切れるも
すぐに目が開いては顔を上げる。
詩柚「…!」
すると、何故か連絡先をせがんでくる男性が
教室の中に残っていた。
授業が終わって5分ほどしか
経っていないのだし、
話しかけられる前だって
この時間はまだいたのかもしれない。
けれど、ふと目が合った瞬間
故意にしか見えなくなってしまった。
「あ、起きた。」
詩柚「…。」
「今日も友達来んの?」
詩柚「…。」
「ね、あの子の名前──」
話す。
話す、ことは嫌いじゃない。
でもそれは湊ちゃんだから。
他の人はどうだっていい。
楽しくない。
俯いたまま慌てて鞄を抱えて
廊下まで飛び出した。
すると、前を見ていなかったせいで
誰かに正面切ってぶつかってしまった。
突進してしまって顔を上げると、
機嫌の悪そうな顔をした
渡邊さんが立っていた。
彼方「痛。」
詩柚「あ……ごめんねえ。」
彼方「流石に前見ろ。」
詩柚「今度からはそうするよお。」
彼方「…。」
ちら、と渡邊さんが
教室へと視線を移す。
あの男性と目が合ったのだろうか。
背中からの視線は
どうなっているのか怖い。
渡邊さんは興味がなくなったかのように
顔を廊下の先へと向けて
「帰ろ」とひと言言ってくれた。
暖かい光の漏れていた
教室から距離を置く。
振り向くことすらせずに
校門から出たところで
ようやく深く息を吐いた。
彼方「寒。」
詩柚「ねー。」
彼方「こんな寒い中毎日帰ってんの?」
詩柚「そうだよお。」
彼方「去年も一昨年も?」
詩柚「うん。」
彼方「1人で?」
詩柚「うん。」
彼方「さむー。」
詩柚「2人で歩いてても寒いものは寒いよ。」
彼方「それはそう。」
手をさすり、ブレザーへと
手をしまった渡邊さん。
先ほど眠ったからか
さほど手は冷たくなく
ぽかぽかとしていたので、
あまり共感できなかった。
どうでもいいことを話す。
先ほどの男性と話している時よりも
幾分か気が楽だった。
背筋を短く震わせるような
冷たい風が吹く。
そこでふと夢のことを思い出して、
鞄の中に手を突っ込む。
今日は確か、定期券をなくす方を
選んだんじゃなかったか。
行きは問題なかった。
それなら。
詩柚「…あ。」
やっぱり。
いつも定期券を入れている場所は
すっからかんになっていた。
彼方「何?」
詩柚「定期券が…。」
彼方「忘れ物?」
詩柚「そうかも。行きの時はあったから…。」
彼方「なら一旦学校戻ろ。」
詩柚「…いいよ、多分ないし」
彼方「明日も必要じゃん。」
詩柚「明日行った時に確認してみるよお。」
彼方「詩柚がいいならいいけど。」
今戻って例の男性と
鉢合わせても嫌な気分になるし、
1回の往復ならまだ仕方ないと思える。
戻らない言い訳ばかりを探している間に
駅まで辿り着いていた。
別れ際、渡邊さんが私の鞄を引く。
意図がわからず顔を見上げても、
無表情で何を考えているのかわからない。
思えば渡邊さんは
嬉しいや楽しいといった感情を
顔に出すことはなかった。
期限が悪いかそうじゃないかだけ。
彼方「ねえ。」
詩柚「なあに。」
彼方「夜電話していい?」
詩柚「いいけど…どうして?」
彼方「勉強付き合って。」
詩柚「真面目だねえ。」
彼方「もうすぐ期末テストでしょ。」
詩柚「それもそっかあ。じゃあ帰っていろいろ終わったら連絡するねえ。」
彼方「ん。」
さっきまで勉強していただろうに
まだするだなんて偉いなあと思いながら
駅でそれぞれの方へと帰る。
電話をしようと言い出してくるなんて
少し意外だった。
思っている以上に
しっかりと依存関係を持とうとしているらしい。
渡邊さんにとって依存とは
どういうことなのだろう。
寒空の下、空を見上げても
ろくに光すら見えなくて、
夜なら空も床も同じだと
地面を眺めながら帰った。
昼なら影が見えるのに、
街灯の下を通らなければ
そこには影すらできない。
見上げた頃には自分の家のある
マンションにたどり着く。
私の部屋はもちろん真っ暗。
湊ちゃんは勝手に
私の家に入ることをしないから。
でも。
詩柚「…!」
マンションから私の方へと
大きく手を振る姿が見えた。
お風呂も終わったのか
髪を下ろしているけれど、
ひと目見てすぐわかる。
湊ちゃんだった。
途端に体が軽くなったような気がして、
足早にマンションの扉をくぐる。
エレベーターの上り下りすら待ち遠しい。
嬉しい。
嬉しい。
今日も湊ちゃんと話せるなんて。
湊「お疲れ様ー!きちった!」
エレベーターが開くと
笑顔で彼女がそう言ってくれた。
湊「連絡さっきしたんだけど、多分見てないよね?」
詩柚「うん。ごめんねえ。」
湊「んーん!ちょっこしお菓子とかご飯も持ってきたんだー。冷蔵庫入れとくねん。」
詩柚「ありがとお。」
湊「どういたしまして!」
私と湊ちゃんは小さい頃から
ずっと一緒にいるだけ。
これが他所からすれば依存に見えるなんて
私にとってはよくわからない話だった。
息をしていなかった部屋に
あかりを灯して呼吸をさせる。
人がいるあかりの温かみがあった。
湊「最近どう?定時制の人と話したりした?」
詩柚「うん、したよお。」
湊「え、本当に!?」
詩柚「そんな驚くかなあ。」
湊「驚くよ!びっくりだよ!ひゃー、湊さん嬉しいよ。」
詩柚「ならよかった。」
湊「どんな人なの?聞きたいなー。」
詩柚「多分、普通の人だよ。」
湊「そうなんだー!女の子?男の子?定時制って年齢は幅広いんだっけ?年上?年」
詩柚「聞きすぎだなあ。」
湊「気になるじゃーん!だって数年間鉄壁の守りをしてたゆうちゃんが話した人なんだもん!」
詩柚「必要なことは話すし、渡邊さんや忽那さんとも最近話してるから、そこまで鉄壁の人じゃないと思うけど。」
湊「そーなの!?わーっ、嬉しいー!」
詩柚「嬉しい?」
湊「うん!友達同士が仲良くなってるってそりゃ嬉しいよん。」
詩柚「そっかあ。」
そういえば湊ちゃんと渡邊さんは
修学旅行の班が同じだったと聞くし、
忽那さんは湊ちゃんと同じ
全日制なのだから
話すタイミングくらいたくさんある。
共通の友人は昔住んでいた場所以来
いないに等しかった。
久しぶりにそのような存在ができて、
同じ話ができて嬉しい反面
いらぬ話が流れてしまいそうで
手放しに喜べないでいた。
湊「そーだ、ゆうちゃんってちゃんと防犯のやつ設定してる?」
詩柚「防犯の?」
湊「あー、その感じしてないでしょ。」
詩柚「大体家にいるからねえ。」
自分が家を空けている時に
もし空き巣が入ってきたら、
警報がなるといった機械が
家の中に設置されていた。
入居してすぐの設定をお勧めされたのだが、
うまくいかず設定できないまま
そのままにしていた。
詩柚「湊ちゃんはしてるの?」
湊「もっちろん。」
詩柚「おー。」
湊「設定の説明書まだ持ってたはずだから、すぐ写真送るよん。」
詩柚「ありがとねえ。夜ご飯は食べた?」
湊「もう食べちった!長居してもあれだから今日は早めに戻っちゃうね。」
詩柚「いつまでもいていいのに。」
湊「わはは、ありがたいけど明日も朝から学校なんだよー。」
詩柚「テスト近いらしいね。」
湊「そーなの!今回の範囲なかなかまずくって今からめたんこ勉強しなきゃ!もう留年するわけにはいかないかんね!」
詩柚「頑張ってね。」
湊「ありがと!よおし頑張るぞー!」
湊ちゃんは空になった鞄を持ったまま
両手を上に上げた。
彼女の動き、言葉ひとつで
自然と笑顔になってしまう。
その姿を見ていると
私も頑張らなきゃなと
感化されるのだった。
1人、チラシの山を視界の隅に
今日の分のテキストを広げる。
画面には渡邊さんの名前が
表示されていた。
スピーカーを通して伝う彼女の声は
普段の声よりも低く聞こえた。
彼方『何でテストってあるんだろ。』
詩柚「普段ちゃんと勉強してるか」
彼方『正論モンスターはお帰りください。』
詩柚「そんなあ。理不尽だよお。」
彼方『てか実際範囲内のテストとか数日で詰め込めるじゃん。そんなん日々頑張ってるかどうかより容量の良さじゃない?』
詩柚「そのための全範囲全国試験じゃないの?」
彼方『学校のテストの点数よりも模試の点数の方が大事じゃんね。』
詩柚「でも学校の点数とってないと卒業もできないよお。」
彼方『そのギャップが気に入らないの。』
確かに大学に進学するなら
模試対策の勉強は必要だけれど、
その基礎が学校の範囲内の
ものなのではと思う。
彼方『学校と模試で分けて考えてる時点で無駄な気はしてる。』
詩柚「そういうことも考えてるんだねえ。」
彼方『高2の秋だよ?もうすぐ冬だけど?すぐ3年になるんですけど。』
詩柚「そんな怒らなくてもー。」
彼方『怒ってない。けど、時期も時期だしそりゃあ考えてるって話。』
詩柚「そっかあ。」
彼方『詩柚はどうすんの。』
詩柚「え?」
彼方『卒業したら。進学?』
考えてなかった、とも言いづらくて
その場で適当に言葉を並べる。
詩柚「就職かなあとは思ってたけど、体質的にどうなるかなあって感じ。」
本当は何も考えていない。
何も考えたくない。
目の前のことが終わって、
その時に考えようと
後へ後へと引き延ばしてきたんだから。
話を深掘りされないよう、
別の方向へと移ることを願っている。
未来の話はいつだって
優しく優しく私の首を絞めるのだ。
一間空いて、電話越しの
シャーペンの擦れる音が止まった。
彼方『寝ちゃうやつ?』
詩柚「そお。」
彼方『手帳おりないの?』
詩柚「対象外っぽいんだよねえ。」
彼方『生活に支障出てんのに。』
支障、か。
そう思ったこと、なかったな。
いや、あったのかもしれないけれど、
今となっては無くなってしまった。
保証もないのなら
自分で細々と背負って生きるしかない。
昔からそう諦めていたことだったから。
詩柚「いつか一緒にいる時、急に寝ちゃったらごめんねえ。」
彼方『いいよ。いつ寝ても。』
詩柚「道の真ん中でも?」
彼方『流石に引きずってどうにかするけど…まあいいよ。』
詩柚「優しいね。」
彼方『そういう関係でしょ。』
目がテキストの文字の上を泳ぐだけで
何ひとつ内容が入ってこないまま
電話を始めて数十分過ぎていることに気づく。
そういう関係。
依存の関係。
そういえば、と
渡邊さんに聞きたいことがあったのを
思い出して口を開く。
詩柚「渡邊さんにとって依存関係ってどんな形なの?」
彼方『何急に。』
詩柚「聞いてみたいなあって思っただけ。」
彼方『ずっと一緒にいる。見捨てない。自分の時間を多少犠牲にしてでも隣にいること。』
詩柚「ずっと。」
彼方『うん。』
詩柚「今日一緒に帰ったのも?」
彼方『依存するためって言ったら?』
詩柚「ううん、それでもいいよ。」
過ごした時間に比例して
信頼できるかどうか
正確に判断できるというのは
きっとある話だろうから。
だから、渡邊さんの思う
依存関係にはなれるかは
未だ全くわからないが、
時間をかけてみることには
損はないかもしれない。
少しずつ確かめていって、
最終的に無理だったら
それはそれで区切ればいい。
人は信用ならない。
それがもし揺らぐのなら。
…なんて、想像したくないことすら
考えてしまう夜に、
さー、とホワイトノイズが広がった。
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