身代わり

詩柚「…。」


ここにはあと何度

訪れるのだろう。

初めて鳥居の並ぶ階段に来た時より

景色の色が褪せている。

鳥居は艶々と輝く赤色から

灰色がかったえんじ色へと変わり、

滑らかだった石段には

ひびが見えるようになった。

木漏れ日が降り注ぐほど

いい天気だったはずが曇っており、

草木は青々としたものから

秋に移り変わったときのように

葉はまばらになり色素が薄くなっていた。


誰もいないというのに

目覚めてから前髪に触れ整える。

寝ぼけているらしい。

靄がかった視界がようやく晴れる頃、

看板の文字を捉えることができた。


が。


詩柚「…っ!?」


思わず言葉を失う。

看板には、



『渡邊が校内で性被害に遭う』。

『高田湊が腕を骨折する』。



の2択だった。


詩柚「何、これ。こんなの…っ!」


言葉が出ない。

こんなの、酷い。

親しい人たちの大切な何かを捨ててまで

過度にうとうとしてしまうのを

治したいのか。

それほどまでにする価値はあるのか。

犠牲にする、価値は。

私の価値は。


詩柚「……。」


選ばないことはできるのだろうか。

これまでにしたことがないから

わからないけれど、

その先でランダムに

選ばれるのだとすると、心が痛い。

責任を負わなくていいこと自体は

気が楽であるはず。

それなのに心が痛いと思ってしまうのは、

きっとその前に「湊ちゃんが選ばれたら」の

言葉が挟まるからだ。


湊ちゃんを1番に考えたい。

でも、彼方ちゃんのは被害で、事件だ。

こんなことあってはならない。

どんな過去があろうと誰だろうと、

決して起きてはいけない。

防がなきゃならない。


どんどんと悪化していく

選択肢の内容を前に

時間をかけて悩み、

最終的に犠牲にすることしかできない。


詩柚「………っ。」


なのに。

彼方ちゃんならもしかしたら

大丈夫かもなんて思ってしまう。

大丈夫じゃない。

決して大丈夫じゃない。

大丈夫なフリをしてしまうだけで

本当は心の底から怖くて、

けれど声すら出せなくて、

貼り付けた笑顔が戻らなくて。

そういうことだってあり得るのに。

彼方ちゃんだって

普通になりたいんじゃないの。

中学の時から歌舞伎町に

行っていたとは話していたけれど、

行かなくてよかったなら

行かなかったんじゃないの。

喜んで自分を

傷つけているようには見えなかった。

幸せになりたいだけ。

それだけな気がして。


私と同じなのに。

彼方ちゃんは私を見捨てなかったのに。

私は。


詩柚「どう……したら…っ。」


よたよたと看板の前に立つ。

どちらを選ぶか、選ばないか。

そんなの、悲しいことに

決まってしまっている。


詩柚「…。」


ぎゅっと目を閉じ、

ゆっくりと開く。

気温が下がっているような気がした。

そして。


『渡邊が校内で性被害に遭う』方へと

足を踏み出した。


詩柚「……っ…ごめん…。」


私はどうしたら、

彼方ちゃんのことを

対等に見れるのだろう。





***





夢から覚めてから気が気でなくて、

けれど早くに学校に行く勇気もなく、

普段よりも回数多く眠気に襲われてから

漸く学校へと向かった。

授業前直前についてしまい、

そのまま先生が教室に入っては

流れるように講義が始まった。

その間もどうしても

彼方ちゃんのことが

頭から離れなかった。


今どこにいるのだろう。

もう事件は起こってしまったのだろうか。

それならちゃんと被害届を出しているのか。

それとも、弟のことがあるからと

警察にすら言っていないのだろうか。

全てを自分のせいだと傷にして

癒えることもなく抱えるのか。


絶対彼方ちゃんのせいじゃない。

弟のことも、今日起こることも全て。

なのに、全部全部

彼女が背負うのは違うんじゃないか。

頼れる場所がないのは

非情じゃないか。


詩柚「……お願い…。」


どうか無事でいて。

そう願うことしかできなかった。


授業後もいつものように

眠くなってしまった。

この体質がこんなにも憎いのは初めてで、

起きて今すぐに彼方ちゃんを

探さなきゃと思えば思うほど

眠気は強まるばかり。

瞼を開けていられなくて

また深い溝に落ちる。

そして次に目を開いた時には

多くの生徒はいなくなっていた。

この前、私の鞄にお茶を溢した人も

先生も早めに退室している。


詩柚「…。」


スマホを開くと、

今日も彼方ちゃんは残っているようで

授業後迎えにいくと

連絡が入っていた。

顔を上げて教室を見渡す。

しかし、あの特徴的な髪型は

見当たらなかった。


詩柚「……彼方ちゃん。」


あと5分。

5分くらい待ったら

来てくれるかもしれない。

今日は多分スマホを触り過ぎて

時間感覚がわからなく

なっているだけ、とか。

電話をかけようか、とも思った。

けれど、杞憂だったら。


…杞憂、なわけあるか。

これまで選択してきた全てのことが

実際に起こっているじゃないか。

電車の遅延も、彼方ちゃんの傘が壊れたのも

全て全て、私が選んだ。


詩柚「……っ。」


震える指で電話のマークを押した。

迷っている間に

教室には私だけしか残っておらず、

電球が心細く光っている。

夜に1人なのが

こんなにも怖いなんて。

スマホからはコール音が

数回続いた後、

ぷち、と切られた音がした。


詩柚「…意図的に切った?」


明らかにコール音の回数が

少なかったのにも関わらず

切られたということは、

彼方ちゃん側から切った他ならない。

彼方ちゃんか。

もしくは。


詩柚「…っ!」


もしくは、加害者か。

そう考えた途端恐ろしくなって、

鞄を勢いよく両手で手にして

廊下へと駆け出した。

このまま帰ってしまいたかった。

見ないふりをして、

明日や明後日、来週の月曜日から

何も知らないですよという顔をして

呑気に話してみようとも考えた。


けど。





°°°°°





彼方「要するに高田以外の依存先があればいいんでしょ。」


詩柚「え、まあ…そうだねえ。」


彼方「うちも欲しいと思ってたし、ぎり知らない仲じゃないしちょうどいいじゃん。」


詩柚「そんな感じで決めていいの?」


彼方「一応利害の一致じゃない?」



---



詩柚「渡邊さんにとって依存関係ってどんな形なの?」


彼方『何急に。』


詩柚「聞いてみたいなあって思っただけ。」


彼方『ずっと一緒にいる。見捨てない。自分の時間を多少犠牲にしてでも隣にいること。』


詩柚「ずっと。」


彼方『うん。』



---



彼方「じゃあ1個条件。」


詩柚「…?」


彼方「自分から他者に依存しろ。」


詩柚「自分から?」


彼方「そう。自分から進んで相手に時間を使って。身を削って。」


詩柚「彼方ちゃんがしてくれたみたいに?」


彼方「言い方うざいけどそう。じゃなきゃ詩柚の求めるものがわかんない。人間さ、人からして欲しいことを自然とするもんじゃん。だから、詩柚から動いてくんないとそもそもして欲しいことがわかんない。」


詩柚「なるほどねえ。」


彼方「今後の条件にするから。」


詩柚「基準とかはないんだ?」


彼方「ずうっと意識してて。それだけ。」


詩柚「ほお。」





°°°°°





でも、見捨てちゃ駄目なんだ。

自分から他者に、

彼方ちゃんに依存するために。

それから。





°°°°°





詩柚「やだっ!やめてっ…!嫌っ」





°°°°°





詩柚「…っ。」


思い出したくないことを思い出して

足が止まりそうになる。

そうだとしても足を動かし続けて、

彼方ちゃんを探さなきゃならない。

そうしなきゃいけない。

それが私の取るべき責任だ。

彼方ちゃんはまだ未成年で子供なんだ。

見捨てちゃ駄目だ。

駄目だ。


もう人がいないのか

真っ暗になった廊下が目につく。

その先に、ぼう、と

カーテンの隙間らしいところから

光が漏れている教室があった。

彼方ちゃんがどこにいるのかわからない。

けれど、もし被害に遭うのだとしたら

こういう人気のないところに

行くんじゃないだろうか。


人に傷を負わせるような人間は

いつだって陰湿で自分勝手で

他人のことなんて考えてすらいない。

相手も人間であることを忘れるのだ。


相手を人間だと思えない瞬間は、

私にだって存在するものであって。


たとえば。


詩柚「…っ!?」


例えば、カーテンの隙間から

彼方ちゃんと見覚えのある男性が

向かいあっている瞬間を見た時とか。

その男性は私の鞄にお茶を溢した人だった。

連絡先を教えてとせがまれることが数回あり

顔を覚えてしまったのだ。

最近でこそなくなったが、

まさか彼方ちゃんへと

標的を変えているなんて

思ってもいなかった。


間に合ったのか、

いくつか並べられた机に彼方ちゃんが座り、

彼女に迫るようにして

男性が正面から対峙していた。

私のいる扉からは男性の背と

怪訝な顔をした彼方ちゃんの顔が見える。

中ではひそひそと何かを話しているようで、

くぐもった音は聞こえるものの

どんな言葉を交わしているのかまでは

わからなかった。


詩柚「…かな、た…ちゃ…っ。」


扉に手をかける。

間に合ったのだから

今、手に力を入れてひらけば。


なのに。

…なのに。


詩柚「……なんで…。」


手が震えて、うまく力が入らない。

その場に座り込みたくなる。

もし眠気が襲ってきたら

それこそ時間切れかもしれないのに。

間に合ったのに。

焦燥感で一層手の震えは止まらず、

まだ大丈夫かと

カーテンの隙間から状況を見守ろうと

覗いた時だった。


彼方『…!』


ふと。

彼方ちゃんと目が合った。

思わず目を見開く。

助けろよ、と睨みつけられるかと思った。

しかし。


詩柚「…?」


実際、私を見つけて以降

何事もなかったかのように

男性の方へと向き、

口角を片方上げてにたりと笑ったのだ。

私を見つけて安心したわけでもないだろうし、

かと言って、そもそも私を

見つけていないことも考えづらい。


どういうわけかわからず

その場をじっと見ていると、

彼方ちゃんはスマホを見て

男性に時間か何かを見せた後、

窓側の方へとスマホを置いた。

彼方ちゃんは横髪をそっと持ち上げた。

人差し指と小指を立て、

中2つの指で髪を支えている。

その手のまましばらく

止まっており、

ちらと時折私に視線をやった。


詩柚「…!」


もしかしてと思い咄嗟にしゃがむ。

そして、スマホを取り出した。


詩柚「……もしかして。」


もしかして、今電話をかけろということ?

けれどどうして?

助けるために扉を開け、でもなく?

意図はわからないけれど、

それでも、彼方ちゃんが

やれと言っているのだ。

警察か。

警察に電話すればいいのか。

それともまずは学校の先生に…。


慌ててつけた画面には

先ほどかけた彼方ちゃんの

電話の履歴が残っている。


詩柚「…………。」


その画面を見た瞬間、

電話する先は警察じゃないのではと

思ってしまった。

男性に時間か何かを見せた後、

窓側の方へとスマホを置いた

彼方ちゃんの行動を思い出す。

男性がそちらに注意を向けても

私からすれば背中しか

見えないままの場所だった。

電話して、注意を引けということ?


こうして迷っている間にも

犯罪は進んでいるかもしれない。

どくどくと口から飛び出そうな

心臓を押さえつけて

恐る恐る彼方ちゃんに電話した。


すると、教室の中から

コール音が鳴り響いた。

これに驚いて男性は

退散するという読みなのだろうか。

安定しない膝になんとか力を入れて、

またカーテンの隙間から覗いた。


詩柚「……!」


彼方ちゃんは制服を

途中まで脱がされているところだった。

ブレザーが近くに畳まれないまま放られ、

ブラウスのボタンの

いくつかが外されている。

私がすぐに判断できなかったせいだ。

呼吸が浅くなる。

私のせいで。

そう思うたび。


けれど、彼方ちゃんは

冷静を取り繕っているように見えた。

男性に何かを呟くと、

彼方ちゃんのスマホへと手を伸ばし、

そして電話を切った。

耳からしていたコール音が途切れる。

それからまた彼女が

何かを言ったのか、

彼方ちゃんの鞄へと

スマホを仕舞おうとする

男性の背中が見えた。


その時だった。

彼方ちゃんが手をカメラの形にして

私の方へと向けたのだ。

それが何を意味するのか

理解するまでに時間がかかった。

男性が動くのが見え、

またもう1度しゃがむ。


もしかして。

もしかして。





°°°°°





詩柚「悪い人に嫌なことされないか心配だよお。」


彼方「手出させたら勝ちだよ。こっちは被害者になれるから。」


詩柚「言ってることが怖いよお。」





°°°°°





詩柚「…………そういうこと…?」


今止めたとしても

手を出しているはいるけれど

罪としては軽くなってしまう。

学校も退学とはならず

あったとしても停学程度に

なるだろうことは予測できる。


それを見越したのか、

彼方ちゃんはこいつを

徹底的に潰そうとしている。

その証拠に。


彼方『やだって…離して!』


『静かにしろよ。さっきまでそんな……かっ……』


彼方『………に怖く……んだ……』


冷静でまるで受け入れるように

座っているだけだった彼方ちゃんが

僅かに聞こえる程度に

嫌だと言い始めた。


これで私は被害者だ。

お前は罰せられる人間だ。

そのレッテルが貼られてしまった。


怖い。

無論自分が同じような目に遭うのも、

たとえ他の誰かが

そのような被害に遭っているのも、

演技だとしても、

自分の目に焼き付いてしまうのは怖い。

それでも、彼女がそうしろというのなら。

そうすることで

助けることができるなら。


詩柚「………っ。」


録音の音が漏れないように

しゃがんだまま腹と足の間に挟み

制服で音を殺した。

ぴこ、とくぐもった音が

微かに漏れるも、

彼方ちゃんの声が大きかったからか

それに気づいていない様子だった。

ゆっくりと立ち上がり

カメラを部屋の中に向けた。


男性は彼方ちゃんが

声を上げ始めたことに焦っていたのか、

すぐにズボンを

下ろそうとしているところまで見かけ、

それ以上は吐き気に襲われてしまいそうで

目を逸らしていた。


それからどのくらい時間が経たかわからない。

たった1分だったかもしれない。

もっと長かったかもしれない。

彼方ちゃんの痛がる声がして、

それ以上は頭も耳も、

全てが歪んでしまうようで、

耐えられなくて。


詩柚「…っ!」


録画を止めて慌てて

職員室へと駆け込んだ。

視界が揺らぐ。

しっかりと地面を踏み締めている感触がない。

でも、辛うじて立っているようで。

顔色が悪かったのか、

まだ残っていた先生が

駆け寄ってきてくれた。

きちんと口が回ったかもわからない。

友達が、奥の廊下、被害が、無理矢理。

そんな言葉しか出ていなかったと思う。

けれど、先生は察してくれたのか

懐中電灯を持って

すぐさまその教室の方へと

向かってくれた。


それに安心して、

地べたに座り込んでしまう。

定時制の授業をしてくれている

見知った先生が背をさすってくれた。

緊張の糸が切れたのか

数分間意識が途切れてしまった。


次に意識が戻ってきた時は

あたりは騒然としていて、

先生について例の教室まで向かうと

男性は取り押さえられた後で、

彼方ちゃんは素肌にブレザーを羽織って

寒がるように両手で腕を握っていた。

きっ、と怯えて、

しかし抵抗するように睨んで

御託を並べる男性と目が合う。


「こいつが!話してやったのにろくに──」


私を指差して言う。

けれど屈強そうな男性の先生に

取り押さえられ、口答えするなと

強く止められているのを

ただ見つめることしかできなかった。

見たくなかった。

それでも、目どころか

体が動いてくれなかった。

彼方ちゃんのことを傷つけた。

傷つけたのは

男性ではなく私である。

その事実が頭から離れなくて。


男性は先生らに連れられた。

そのまま警察に突き出されるのだろう。

その時、私の録画した動画も

証拠として扱うことになるに違いない。

教室の中では女性の先生たちが

彼方ちゃんのケアをと、

服を着せた後に事情を聞いたり

怖かったよねと言葉をかけたりしていた。


証拠の刻まれたスマホを

両手でぎゅっと握りしめながら

おずおずと彼女に近づく。

彼方ちゃんは私に気づくと

一瞬目を丸くして、

そして目を逸らした。

先生の前だからかにたりと笑うことも

録画について多くを語ることもしなかった。


ただ。


彼方「優しい人。」


とだけ、

私に向かって溢したのだった。


その後、彼方ちゃんと私は

先生の車に乗せてもらい、

警察まで向かうことになった。

彼方ちゃんは一貫して

嫌だと言ったのに無理矢理されたと

主張していたと聞く。

彼女と1対1で話す時間はなく、

深夜も深夜だったので

帰りも別々の先生が車に乗せて

家まで送ってくれた。


家に着いた瞬間、

これまで夢の中を

歩いていたような気持ちになった。

同時に、やっと現実に帰ってきたようで

力が抜けて廊下に寝転がった。


詩柚「…。」


彼方ちゃんと、きちんと話がしたい。

謝らなきゃ。

そう思えば思うほど

また重い眠気がやってくる。


…。

たかが眠気のために、

彼方ちゃんを犠牲にしたことが

眠る直前まで何度も脳内で反芻された。

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