狂痴
授業後の教室は閑散としていて、
1人でいるには広すぎた。
期末テストも無事終わり、
詩柚を待つ間の時間は
勉強道具ではなくスマホを
手に取る時間が増えた。
とはいえ高2だし、
受験の話もちらつかせられるようになった。
けへど、補修の内容も詰め込みすぎで
かと言って授業は進みすぎ。
できないが重なるタイミングのせいで、
何事もやる気が起きなくなっていた。
上半身を机に伏せ、顔を横に倒して
ぼうっとスマホを眺める。
そこには、何度も検索した
ナルコレプシーの治し方
という文字が浮かんでいる。
彼方「……はぁ。」
ナルコレプシーとは夜にたくさん眠っていても
日中に強烈な眠気に襲われる病気らしい。
詩柚のそれと一致していると見ていいだろう。
薬物療法などで抑えることはできるらしいが、
肝心な根本治療は
まだないのだそうだ。
原因は事故だったり睡眠不足、
あとはストレス。
これらの情報は何日も前から
わかっているのに、
こうして見返してしまうのだ。
彼方「…だるー…。」
なくなった街に行って、
おばあちゃんと話すうちに
弟のことを考える時間が少なくなった。
戻ってからは、おばあちゃんと
話せなくなった喪失感でいっぱいになった。
その分余計に弟のことばかり考えてしまって
頭がおかしくなりそうだった。
これまで通りに戻っただけのはずが、
視野が狭められているように感じる。
このままでは弟を縛りかねない。
そう思っていた時、詩柚が高田との関係を
拗らせていることを知った。
だから、私たちが依存すれば
ちょうどいいと思ったの。
ひとりぼっちが2人いたなら
そこで仲良くなればいいと思うのと一緒。
でも昨日、小津町さんと話している時の
穏やかな表情を見て、
うちじゃなくていいんだって
心の底から思った。
°°°°°
彼方「詩柚は、1、2時間に1回眠るんです。だから、今もその波が来ただけだと思います。」
歩「ところ構わず寝るもんなんですか?」
彼方「起きたくても起きていられない、そういう病気。」
歩「そう…。」
彼方「でも、手帳とかはおりなかったんだって。こんなに日常生活に支障が出てるのに。」
歩「昔から?」
彼方「そう言ってました。でも先天性じゃなくて、多分ストレス性の病気の一種。この前、この障害を治せるなら治してるよねって話したらどうだろうって言ったんです。」
花奏「…治したくないってこと……?」
彼方「そうかもしれない。慣れたからもういいとは言ってるけど、不便なことには変わりないし。…理由はあるんだろうけど、話してはくれない。」
歩「話すまで待つことにしたんですか。」
彼方「…後天的にここまでの障害が出るってよっぽどのストレス負荷がかかってると思うんです。無理矢理聞いて追い詰めるほど余裕がないわけじゃない。」
花奏「……そんな大変な状態やったのに、あの時声かけてくれたんやね。」
彼方「似た人には優しいのかも。優しくて、でも不安定で…それから、とても可哀想な人。」
歩「……お言葉ですが、他人事すぎません?」
彼方「どこがですか。」
歩「冗談じゃなければ、可哀想って言葉は他人事の時に使うか何かしら自分より下に見てる人に使うと思ってたんで。」
°°°°°
詩柚が眠っていた間の会話が
無意識のうちに再生される。
可哀想な人。
私も、あなたも。
けれど、今度は詩柚のことを
考える時間が増えてしまった。
詩柚はどれほどうちとして
譲れない理由があったとしても
うちのことを汚いと思っているし、
最近は特に怯えていることだって
目に見えてわかる。
どちらが可哀想なんだろうね。
そしてこの可哀想は
あなたより私の方が
不幸だったと言いたかったのかな。
スマホの画面を消す。
人相の悪い目が画面越しに映った。
彼方「上手く行かね。人生。」
傷を抱えるもの同士だからといって
上手くいくなんて甘い話はなかった。
ひとつ挟んで斜めに配置
するはずだったパズルピースを、
無理矢理真横にくっつけようとしたのが
間違いだったのだ。
***
詩柚「…。」
彼方「…。」
空気が重いのか、
それとも気を許している
からこその無言なのか、
はたまたその中間なのか。
彼方ちゃんは授業後いつものように
教室に迎えに来てくれて、
一緒に帰路を辿っている。
彼方「ここらの道、昼見たら結構風でイチョウが飛んでたよ。」
詩柚「遅めの紅葉な気がするねえ。」
彼方「今年は夏が長かったし。」
詩柚「だねえ。仕方ないかあ。」
ふたつの足音がコンクリートを叩く。
誰もいない夜の道は
2人だけのために用意されているみたいで
まるでぬるま湯のお風呂に
浸った時のように心地よかった。
彼方「もう11月も終わるよ。」
詩柚「そんなことを言ってる間に、今年もあっという間に終わっちゃうねえ。」
彼方「来年受験生とか…はぁ。」
詩柚「進学するの?」
彼方「興味のある分野ができれば。」
詩柚「そういえば音楽とか動物とか好きだよねえ。人狼ゲームの時、確か音楽室でクラシック聞いてたでしょ。」
彼方「それは趣味。芸術学とかはやるつもりない。やってもその分野と関係ないところに就職するオチだろうし。」
詩柚「あぁ…あるあるだねえ。」
彼方「結局うちは夜職やりそう。」
詩柚「…そっかあ。」
彼方「金は動くし、あそこは依存の海だから。酔いが覚めたら負け、ずっと溺れるが正しい場所。例外はあれど、大体そう。」
詩柚「それは……酔ってないとやってられないんじゃなくて?」
彼方「そうだろうよ。酔って、知らない目の前の人間に時間中頭いっぱいにして、絶対客観視はしないの。うちにぴったりだと思わない?」
詩柚「…それは彼方ちゃんが決めることだよお。」
彼方「ぴったりそうか聞いただけなのに。」
詩柚「彼方ちゃんは自分が思ってるよりも手際はいいし堂々としてるから、どこでもやっていけるよお。」
彼方「はは、何それ。海外でも?」
詩柚「うん。海外は飛躍しすぎにしろ…お昼で、肉体労働系じゃなければ…秘書とか翻訳者とか、そういうのになってそうだなって思った時はあるなあ。」
彼方「うちが?」
詩柚「彼方ちゃんが。」
彼方「誰にも言われたことなくてウケる。似合わないでしょ。」
詩柚「そうかなあ。」
彼方「詩柚はどうすんの。定時制卒業したあと。」
詩柚「…どうだろうねえ。」
目の前に転がっていた石が
つま先に蹴られて転がっていく。
からんからんと跳ね、
最後は草むらに飛び込んでいく影が見えた。
彼方「それも話す気はない?」
詩柚「決めてないだけだよお。」
彼方「そ。」
珍しく何でと
問い詰めてくることはなかった。
その隙を幸運と思い、
期末テストがどうだったと話を振った。
帰宅してから少しすると、
湊ちゃんが沢山の食材を持って
家まで来てくれた。
ある程度は家で作ってきたけれど、
タッパーがなくなったから
私の家でまた少し足そうとしていたらしい。
湊ちゃんなら何したっていいよと
家の中へあげた。
フライパンで何かを焼いているらしく、
ごま油を使用したのか
香ばしい風味が漂っていた。
キッチンに立つ湊ちゃんを
ソファに座ったまま眺める。
三角座りをして素足を手に絡める。
末端は両方冷たかった。
湊「そいえば今日、お母さんから電話あったんだー。」
詩柚「…!」
ふと、今日の夢の中の選択肢で
何を選んだかを思い出す。
『渡邊彼方が母親にお金を持っていかれる』。
『高田湊が母親から帰郷するよう連絡される』。
彼方ちゃんがこれまで
自分を犠牲にして必死に稼いだお金を
無碍にするのは心苦しく、
湊ちゃんの方の選択肢を選んだのだった。
連絡ならまだいいのでは、
とは思っていたものの、
これまでのものと毛色が
やや違うことが気がかりだった。
帰省ではなく、帰郷の連絡。
これが彼方ちゃんのお金を奪われることと
同等に並んでいる。
けれど、幾らかはわからないが
もしも全額持っていかれたらと思い
焦ってしまった頭では
碌に冷静になることすらできず、
この選択をしてしまった。
詩柚「…久しぶりだったんじゃない?」
湊「そうかも。メッセージは来るから返事してたんだけど、電話は最近なかった気がする!」
詩柚「あと話すのは帰省した時くらいだもんねえ。」
湊「だねん。」
詩柚「何の話したの。」
湊「勉強頑張ってるのーとか、いろいろ。部活もバイトもして元気もりもりだから安心してねって伝えといた!」
詩柚「そっかあ。」
湊「あとね。…急だったんだけど、帰ってこないかって言われたんだ。」
詩柚「……それはどういう意味合いで?」
湊「もうずぅーっとあっちの方にいないかって。」
もうすぐ一旦の区切りの冬が来る。
それを機に戻ってくるよう
説得しているようにも映った。
私が選択したことでしかないのに、
この話が上がった理由は
無論私以外の何でもないのに、
理由が透けて見えるようで気持ちが悪い。
湊「でもさ、上京した手前今更だなって思っちったし、大学に行くんならどっちにしろ家を出なきゃいけないわけじゃん?あそこって高校までしかないし。」
詩柚「進学するならそうだねえ。…それに、来年もまだ高校生活はあるのに。」
湊「そーなのそこなの!編入手続きやまたまた引越しするくらいなら、ここにいたいなって思うんだよね。」
詩柚「それ、お母さんに言った?」
湊「こう、びし!ばし!とは言ってない。お母さんそんなに心配事とか事情左右しちゃうこととかに強くないしさ。断言して後から「やっぱりやめます」ってなるくらいなら、今はなあなあにしとこうかなと。」
詩柚「…その方がいいと思う。…湊ちゃんはこっちに来てからの方がのびのびしてる。」
湊「えへへ、そうかなあ。前からそんなに変わってないと思うけども!」
詩柚「…。」
湊「でも、いずれ戻るのかなとか最近たまーに思ったりするよ。」
詩柚「……戻る…?」
湊「うん。お母さんも私も歳をとって、もし介護が必要とか、もっと先の話あの家が伽藍堂になっちゃったらと思うとね。」
詩柚「戻らなくていいよ。」
湊「…!」
湊ちゃんは思わずこちらを振り向いて、
箸を落とすのではと思うほど
意識がこちらに向いていた。
湊「湊さんびっくり。ゆうちゃんなら帰ろって言ってくるかと思ってたよ。」
詩柚「湊ちゃん、あの場所好きじゃないでしょお?」
湊「まあ合う合わないはあると言いますか。いろんな人と話すの好きだし、ちーっと世間は狭いかなとは思ってたくらいで、全然そんなことはないよん。」
口角を上げて笑った。
けれど、鍵は合っていてきちんと開くのに
錆びついていて回りづらい鍵穴のように
僅かなぎこちなさがあった。
これか、と思った。
彼方ちゃんが湊ちゃんの笑顔を
嘘っぽいと話す理由。
これを彼方ちゃんは
私よりも先に気づいていたのだ。
ぎこちなさは前々からあった。
話をしづらくなった。
一緒にいづらくなった。
その言語化ができなかった。
何となくおかしい、何となく距離が空いた。
どちらが悪いわけでもなく、
多くの人と関わるようになった中で
ただ自然とそうなったのだと思っていたのに、
それを全て打ち砕かれるよう。
湊「久しぶりに戻ったら戻ったでもしかしたら」
詩柚「戻りたいか、そうじゃないかで答えて。」
湊「たはー、急に真面目になっちまってぃ。」
詩柚「真面目だよ。湊ちゃんに関する話は、ずっと真面目。」
湊「…そーだなー。もうちょいあの田舎からは離れた場所で過ごしたいね。」
詩柚「戻りたくないんだね?」
湊「そうとは言ってないよー。」
詩柚「断言するのも、こういう話をされて嫌だったって言うことも悪いことじゃないよ。怖いことでもはあるかもしれないけど…。」
湊「…じゃあ、ゆうちゃんはどう?」
詩柚「戻りたくない。でも、もし戻る選択をしたとしても、私が近くにいられる限り…湊ちゃんと一緒ならどこでもいい。」
湊「へへ、嬉しいこと言ってくれるねい。さあて将来はどうかなーん。」
ここで「もしどちらかが結婚したら」と
口に出さないのが彼女の優しさだった。
優しさか、それとも
本当に彼女だと思っているのか。
不意に昨日の帰り際に
彼方ちゃんが話していたことを思い出す。
°°°°°
彼方「高田に奪ったこれまでの普通を返してあげられるかどうか。これで決めよう。」
詩柚「普通を。」
彼方「解釈は任せる。高田が普通の人だというのなら何もしなくてもいい。ただ、うちらはそこで関係を切ろう。」
詩柚「切るって…何もそこまでしなくても」
彼方「そのくらいの気持ちでいろってこと。」
詩柚「…っ。」
彼方「今週末くらいにどうだったか聞く。」
詩柚「…短すぎるよ。」
彼方「長くしても詩柚は決めない。時間に甘えて先延ばしにするに決まってる。」
詩柚「……。」
彼方「それまでうちらは普通に会うし話す。けど、頭に入れといて。」
°°°°°
もしも、湊ちゃんを
普通でないと仮定するなら、
普通にするために一体何が
できると言うのだろう。
湊ちゃんは料理を終えたようで、
洗い物に入ろうとしていた。
ソファに足が沈みながらも脱し、
彼女の隣に並ぶ。
詩柚「私やるよ。」
湊「いーのかい!じゃあ頼んじゃおっかな。他の出しっぱのもの片付けちゃうね。」
詩柚「ありがとう。」
湊「いいえー!」
詩柚「…あの。」
湊「ほい?」
詩柚「…今日、お泊まり会しない?」
すぐなのかそうでないのか
わからないけれど、
もし本当にあの田舎に帰ってしまうなら、
残された時間は短いのかもしれない。
そう思って、湊ちゃんの顔を見れないまま
呟くように言った。
断られるだろう。
きっとそうに違いない。
…と、思ってたのに。
湊「え、楽しそう!するする!」
湊ちゃんは楽しそうに声を弾けさせた。
振り返ると、目を輝かせている。
詩柚「そんな簡単にいいの…?」
湊「もちろん!家がめたんこ遠いわけじゃないんだから。」
詩柚「もうちょっと…こう…明日も学校あるし、とか…急だからとか言われるかと思ってた。」
湊「楽しいことはしたいじゃん?うおー、わくわくしてきた!ぱぱっと片付けて服とかタオルとか持ってきちゃうね!」
詩柚「タオルは荷物だろうし貸すよお。」
それから後片付けを終えると、
湊ちゃんは準備をして
簡単な手提げだけを持ってまた家に来た。
その間にお風呂を沸かしていたので
先に入ってもらい、
仮眠をとってお風呂に入る。
最近は睡眠の周期がずれで
よくわからないタイミングで
眠ることが多くなった。
今日だってあり得ない話じゃない。
湯船の線を抜き、シャワーを浴びた。
ベッドは1人分しかなく、
湊ちゃんにはどうやら
片方はソファで寝るという
考えはなかったらしく、
2人で並んで布団に潜った。
1人用なもので、とても狭い。
身動きを取れば肩が触れた。
湊「こうやって2人で布団の中入るのいつぶりだろうね。」
詩柚「…湊ちゃんが小学生の時以来かなあ。」
湊「だよね!高学年の時とか…?」
詩柚「……。」
湊「だいぶ時間が経ったねぇ。そりゃあうちも縦横にぐんと伸びますわー。」
ぐっと両手両足を伸ばす。
布団から彼女の足が飛び出た。
それからうんと伸びをして
「布団の外ちべたい」と言って
また蓑虫のように包まった。
詩柚「…あんなにちっちゃかったのにね。」
湊「ゆうちゃんから見たらより一層そう思うかも!うちの中のゆうちゃんは中学生くらいのイメージなんだよねえ。」
詩柚「わかるなあ。湊ちゃんは小学生のイメージがまだあるからねえ。」
湊「もう高校生だよーん。」
詩柚「いい意味で変わってなくて安心するなあ。」
湊「そーお?うちから見てゆうちゃんもそんな感じかも。」
詩柚「いやいや変わったでしょお。」
湊「じゃ、うちといる時は変わってない!ちょいとミステリアスなとこも、意外とおっちょこちょいなとこも。」
詩柚「そんなおっちょこちょいじゃないよお。」
湊「おっちょこちょいだよ!だってここで1人暮らし始めてほんとすぐの時、自分で料理してたでしょ?その時ホットケーキミックスと間違えてただの小麦粉入れて」
詩柚「わーわー、恥ずかしい、その話はもういいよお!」
湊「あとベタだけど塩と砂糖」
詩柚「ぽいぽい出してこないでよお。」
湊「たはは。意外と抜けてるよね。」
詩柚「それをいうなら湊ちゃんだって、お祭りか何かでもらったぷよぷよボールが割れた時、花と一緒の容量で水やって天日干しに」
湊「だーっそれは小学生かそれより前の話でしょー!それで元気出るって思ったらしいけども!」
詩柚「ほーら湊ちゃんの方が天然だよお。」
湊「昔すぎてうちそもそも覚えてないことだしね!?」
隣でけたけたと笑うと
空気やベッドが揺れるのがわかった。
これがよかった。
これで十分じゃないか。
2人で昔話して、
お互いたまにつつき合って、
それで支え合って生きて。
これを依存というのなら
世の中どこまでいっても
友情も愛情すら依存以上でも以下でもない。
湊「ひー、笑いすぎてお腹取れるかと思ったー。」
詩柚「…そうだねえ。」
湊「これからもこういう時間があれば楽しいよねー。」
詩柚「…!……湊ちゃんは、将来何したい?」
湊「え?広いなー。何でもできちゃうし色々したいよ。スカイダイビングとか、吹きガラス体験とか。」
詩柚「じゃあ、進路に絞ったら?」
湊「そうだなー。人と関わるの好きだし、接客業とか?人のお世話も好きだから…とにかく、人と関わるお仕事したいとは思う!」
詩柚「そっか。……。」
じゃあ、と微かに口から漏れる。
下唇を噛みそうになり、
思わず毛布を頭まで被った。
詩柚「…………………ぃ……。」
湊「ええ、何て言ったのー。聞こえないぞー!」
湊ちゃんが私の方へと
寝転がってきそうで、
不意に体を起こして
彼女の頭の左右に手を伸ばす。
髪を踏まないように枕につき、
腹部にぎりぎりつかないようにして、
馬乗りのような形で彼女を見下ろす。
湊「ゆうちゃん…?」
詩柚「……じゃあ、恋愛は。」
湊「恋愛かー。なーんも考えてなかった!楽しいことが多すぎて、それどころじゃなくってさ。」
詩柚「…湊ちゃんは、将来結婚するのかな。」
湊「なーにどーしちまったんでい、照れちゃうよ。」
詩柚「したいと思う?」
湊「ええっ、どうだろう…?」
詩柚「……っ。」
湊「でも。」
すらっとした手が私に伸びる。
さらさらとした指の腹が頬に触れた。
冷え性の私とは真逆で、指先まで暖かい。
湊「たった今の恋人はゆうちゃんだよ。」
背筋に驚きが波のように伝わり
勢いよく顔を上げると、
その手は宙へと漂って、また触れた。
いつも結ばれている髪は下ろされており、
ベッドの上で散乱している。
きょとんと目を丸くしている
湊ちゃんの表情が脳に焼きつく。
普通は、普通の恋人なら
このまま進むんだろう。
進む先が前か後ろかは知らずとも
そこで1歩を踏み出すのだ。
頬に添えられた手を
包むようにして握る。
彼女の手はうんと暖かかった。
安心、した。
湊ちゃんなら、もしかしたら
受け入れてくれるかもしれない。
この先の私たちの関係だって、
だらだらと続けていても怒ったり
呆れたりしないかもしれない。
これまで通り隣にいるのが
当たり前なままでいられるかもしれない。
湊ちゃんの目が細まる。
優しく笑うその顔が
心臓を悪い意味で締め付ける。
でも。
でも。
…どうしても……っ。
どうしても、駄目で。
詩柚「……っ。」
湊ちゃんの顔の左右に伸ばした手を離す。
そして、彼女の上から退き、
彼女の足元で座り込んで手で顔を覆った。
ベッドがいつも以上に
深く沈み込むようだった。
私は今何をしようとしたのだろう。
とんでもないことを
自らの手でしでかしてしまうところだった。
私が彼女を傷つけることはできない。
できるはずがない。
そうしないように守ってきたのに、
そうしてもうすぐで7年経つのに。
時が経つのをただ待ってきたのに。
自ら破る馬鹿がどこにいる。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
いなくなってしまえ。
布団が沈む。
かと思えば、横から包み込むように
手が伸ばされて、
そのまま背や膝に暖かさが滲んだ。
わけもなくぽろぽろと
涙が溢れてしまって、
顔を覆った指の皺に落ちていく。
詩柚「……ごめん…っ。」
湊「なーに謝ってんの。嫌なことも悪いこともなーんもなかったよん。」
詩柚「………でも……私、普通じゃ、ない…から…っ。」
湊「普通?」
詩柚「……湊ちゃんは………自分…自分のこと、普通だ、と………思う…?」
途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
涙が出たのも数年ぶりで、
自分でも訳がわからなくなっていた。
私と彼方ちゃんは
お互いに普通じゃないから
半依存関係を続けられた。
なら湊ちゃんは?
どうして私と湊ちゃんは
この関係を続けていられるの。
湊ちゃんが普通だから
私の異常が緩和されるの?
それとも、湊ちゃんも
とっくに普通じゃなくて、
普通に戻ることすらもできないくらい
私たちは底に落ちているの?
答えを知りたかった。
湊ちゃんとの関係の答えと、
これでよかったかの答えを、どうか。
湊「…普通がどんなものなのかうちはよくわかんないよ。みんな違うのが当たり前で、それぞれいろんなことがあって…だからみんな普通じゃないんだよ。」
詩柚「……っ…でも、湊ちゃんは…。」
湊「うちも普通じゃない。けどね、普通じゃないから個人として見れるんだと思うんだ。」
詩柚「……。」
湊「みんな一緒でみんな普通だったら、うちはゆうちゃんを見つけられないよ。」
詩柚「……。」
湊「普通とか基準のない言葉よりもさ、うち、それから、ゆうちゃん。それでいいじゃん。」
詩柚「………後悔…してない…の…?……恋人、の…こと……。」
湊「彼女になったこと?」
詩柚「…そ、う。」
湊「してないよ。」
顔を覆っている手のせいで
湊ちゃんの顔が見れなかった。
どんな顔をしているのだろう。
冷ややかな目つきだろうか、
呆れて、無表情で
都合のいい言葉を言っているのだろうか。
怖い。
怖い。
どうしようもなく
顔に真っ暗な穴の空いたあなたが怖い。
湊ちゃんは横から抱きしめたまま
私の肩に頭を寝かせた。
首裏に髪の毛が触れてくすぐったかった。
湊「…確かに、付き合おうって言ったあの日の状況は…まあいろいろと良くなかったなーとは思うけど、でもそのおかげでゆうちゃんとの繋がりが切れてないのは素直に嬉しい。」
詩柚「……。」
湊「わかってるよ。好きで付き合おうって言ったんじゃないってこと。でも、一緒にいるには1番よかった関係だってことも。」
詩柚「………っ。」
湊「でも、うちもそれがよかった。」
ぎゅう、と強く抱きしめられる。
それでも全く嫌じゃなく、
むしろ安心してしまって
余計に涙が手を叩く。
湊ちゃんを守るために
高校を辞めて、一緒に上京して、
同じ高校の定時制に入った。
側からしたらおかしいのかもしれない。
でも、私にとっては必要なことだった。
そうだと思っていた、のに。
私は湊ちゃんの近くに
いない方が良かったのかもしれない。
こんな言葉を言わせてしまったことが
嬉しくもあったけれど
言わずもがな苦しくて仕方がなかった。
涙が止まらず、湊ちゃんは手を離して
ティッシュを持ってきてくれた。
それから落ち着くまで
ベッドの上でただ座って、
ようやく鼻も落ちなくなって
また2人でベッドに寝転がった。
湊「ねね、小指結ぼ。」
詩柚「……急だね。」
湊「昔やってくれたじゃん。悪いものから守る魔法だーっていって、帰り道小指を結びながら帰ったの覚えてない?」
詩柚「…覚えてるよお。」
湊「それして寝ようよ。今日はうちがおまじないかけてあげる。悪いもの取っ払っていい夢見れますようにーって。」
詩柚「……うん。…ありがとう。」
布団の中で小指を結ぶ。
熱を奪う私の指があったとしても、
湊ちゃんの指が冷え切ることはなかった。
うとうととした時、
遠くで「おやすみ」と子守唄のような
優しい声が聞こえた気がした。
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