毒牙
何もせず寝転がっていると
回想に回想を重ね、
頭がぐるぐると回ると
動けなくなってしまいそうで
まだ全日制の放課後の時間にすら
なっていなかったのだが
学校に向かうことにした。
昨日のことを思い出しては
体の芯から震えてを繰り返している。
肩や腹にまとわりつく手、声。
私が湊ちゃんの普通を
奪っているという言葉。
身体接触の依存性。
わかっていたさ。
わかっていたはずだ。
色気のある服装に貰った香水、
出てくる見知らぬおじさんの話。
弟と2人暮らしならば
身内の伯父という話でもないだろう。
Twitterを遡れば
自分の身を売っていたという話だって
見覚えがあったはずだ。
それでも無視をした。
過去だから、と。
その人の格ではないと。
見た目だけで判断しては
いけないと思ったから。
でも駄目だった。
見た目は判断基準にならずとも
過去は十分判断基準になり得る。
そしてそれは今を形成するものだから、
名残があって当然なのだ。
彼方ちゃんはきっと
触れ合うことを求めてた。
彼女の過去を恨みたくなる。
金のためなら身を売ることを
選んだ事実とその時の感覚を
今目の前にも引っ張ってきていること。
こんなものはただの他責でしかないけれど、
そうせずにはいられないほど
混乱が止まらなかった。
詩柚「……っ。」
誰に相談するわけにもいかず、
逃げ場がなくなってしまった鼠のように
学校の隅の教室に入り丸くなる。
しゃがんだまま壁に凭れた。
普段は誰も来ないのか
埃っぽくて乾燥し切った咳が出た。
本当は湊ちゃんに話したかった。
話を聞いて、それで辛かったねと
言って欲しかった。
けれど、私の傷であなたを
傷つけるわけにもいかず、
守るためと虚勢を張って
黙り続けるしかないのだ。
無知は罪というけれど、
無知は守られている証拠でもある。
だからあなたが
何も知らないままでいることが
守り続けてられているという
たったひとつの証拠だ。
私みたいに覚えていないで。
思い出さないままでいて。
幼いままでいて。
詩柚「……大人にならないで。」
行き場のない感情が
防波堤を失った海岸を打つ
荒波のようで苦しい。
気泡は数多浮いているのに、
粒が小さいせいで空気以上に
海水が喉奥に流れ込んでいる。
息ができなくて、
もがけどもがけど手は波に飲まれ、
視界は水面を捉えることすらできないほど
深く深くへと足を引かれる。
鼻から水が入り、
がふ、と最後の息を吐き切る。
感情を吐き切った先、
海水の如く流れ込むのは
思い出したくない痛い過去。
痛い、痛いが体を支配し、
深海まで辿り着く頃には
痛いことに慣れたと、
ここは深海じゃなくて海面だと言い聞かせる。
海にぷかりと体を浮かせて
空気を吸って吐いて、
まるでうまく呼吸しているかのように見せる。
思い込ませる。
自分すらも騙すのだ。
人間は馬鹿だから
思い込み続ければ容易に騙せる。
無論、自分のことすらも。
詩柚「…。」
考えれば考えるほど
思い出すことにつながり、
それがどうやらストレスになるようで
急激な眠気が襲ってきた。
1度眠って起きる頃には
ちょうどチャイムが鳴り、放課後になった。
少しぼうっと宙を眺めた後
廊下を歩いていると、
何人もの生徒とすれ違った。
はしゃいで帰る男子生徒たちや
下ばかり向いて歩く生徒、
まとまって歩く女子生徒に
1人すたすた帰る生徒。
皆、きっと今後も私とは関わらない人たち。
人気の少ない廊下に差し掛かる。
どれだけ歩けど、まだ定時制の授業が
始まるには早くて、暇で不安で。
心細くて仕方がない。
その時だった。
すらっと伸びた背筋に
一緒だけ見えた横顔。
1人の女子生徒が階段から降りて来たのが
遠くながら見えた。
詩柚「…!」
息を呑んだ。
そういえば、そうだっけ。
前にも1度すれ違ったことがあるけれど、
その時には話そうとすら思っていなかった。
けれど、何故か今日は足が前に出る。
意図せず、また1歩、1歩と進む。
そうして歩くうちに
歩幅は大きくなっていき、
やがてその人の袖を掴んだ。
驚いて振り返ったのがわかり、
咄嗟に手を離した。
「…わ!びっくりした…。」
下の方でひとつに括った髪は
昔見た時より随分と短くなっている。
けれど、光の差す目には
輝きが宿っており、
当時とは全く違った人のよう。
人違いかと思うほどの変わりようで、
思わず言葉を失う。
その人は小さく首を傾げるのを見て、
細かに息を吸ってその名前を呼んだ。
詩柚「………小津町さん、だよね。」
花奏「えっ、そうやけど…ごめん、会うたことあるっけ?」
詩柚「……え。」
「…?」
いつまでもきょとんとしていることに
疑問を覚えて、
今度は私が首を傾げた。
数年前すれ違った時にも思ったけれど、
目の前の彼女は私のことを
一切覚えていないらしい。
苗字まであっているし
顔もこれ以上ないほど似ているのに
人間違い、だろうか。
あの夏何度も顔を合わせていたのに
こんなに綺麗に忘れることがあるだろうか。
どうしたら私だと気づいてもらえるの。
そう思った瞬間、
左手首をそっと掴んだ。
我ながら最悪な思い出させ方をするなと思う。
それでもいいやと思ってしまうほど
破滅思考に片足を突っ込んでいた。
彼女が息を呑むのがわかる。
その手首を掴んだまま、
空いた手で肘と手首の間に
垂直線を引くように手を引く。
短い息が漏れた。
間違いない。
あの時のことはちゃんと覚えてる。
なら、思い出せる。
詩柚「本当に覚えてない?」
花奏「覚えてな」
詩柚「相談室。夏休みの間に通ってくれたよねえ。」
花奏「…!」
°°°°°
花奏「…!」
「お、やっほー。待ってたよぉー。」
花奏「…本当にいた…。」
「ん?いるよ。当然じゃん。」
花奏「……何で?」
「んー…ここの方が安心できるんだよねぇ。」
花奏「…。」
「安心してよ。決して小津町さんにここに毎日いるからって言ったから義務感で来てることはないからね。」
花奏「…。」
「言うなれば、小津町さんのためじゃないよ。」
花奏「…でも、さっき待ってたって。」
「そりゃあ、来てくれた方が嬉しいけどね。」
花奏「…そう…なんですね。」
「この言い方は寂しかった?」
花奏「安心、しました。」
---
「…小津町さんはさ、楽しい時ってある?」
花奏「…。」
「例えば、映画を見てる時、ご飯を食べてる時、寝てる時、とか。」
花奏「……ない。」
「そっかぁ。」
花奏「けど、気が楽な時はあるよ。」
「気が楽な時?」
花奏「うん。…夏休み。」
「学校がない時ってことかな。」
花奏「そう。」
「私といるのは気が楽?」
花奏「…ずっと気張ってる。」
「…ふふ、あはは。そりゃあいいね。」
花奏「…。」
「私も。」
花奏「え?」
---
詩柚「私も、同じ。人って信用ならないよね。」
°°°°°
花奏「……ふか、み…さん…?」
詩柚「…!…そう。」
畏怖して目を丸くしている彼女とは対照的に
私は思わず笑みをこぼしていた。
人は信用ならないものだった。
その考えを、今よりもさらに狭く狭く
凝り固まっていたその思考を
あの田舎で共有できた唯一の人。
周りの人はもちろん、
湊ちゃんにすら話せなかったあの言葉。
それを他の人に漏らすことなく
自分の中で噛み砕いて血にしてくれた人。
この卑屈な考えも
受け入れてもらえるんだって教えてくれた人。
そっと手を離すと、
自分で左腕の傷をなぞるように
袖の上から撫でていた。
驚きのあまりか口を小さく開けるも
次の言葉が出てこないよう。
花奏「……何で、この学校に…?」
詩柚「それはいろいろと事情があるんだけど…小津町さんを追って来たわけじゃない。これは確か。」
花奏「…そうなんだ。」
詩柚「強制的に思い出させるようなことをしてごめんね。」
花奏「ううん。ちょっとびっくりしただけだから。」
詩柚「…全日制?」
花奏「あ、うん。そう。」
詩柚「そのネクタイの色だと…。」
花奏「3年生になったよ。」
詩柚「…!……そっかあ。」
彼女はどこまで忘れているのだろう。
何故手首に傷があることを
直接話を聞いていない私が
知っているのかは気になっていないのか、
呼吸は浅いままだが
目は少しずつ落ち着きを取り戻している。
小津町さんが再度高校に入っていたことは
それこそ数年前にすれ違った時から
もしかしてとは思っていたが、
こうして再入学し
3年生になっている姿を見れるのは
ものすごく嬉しかった。
あの地獄を生き抜いて、
今こうしてここに立って
生きていることが嬉しい。
小津町さんにとって私は
悪い思い出かもしれないけれど、
心の中で喜ぶくらいはさせてほしい。
小津町さんが「深見さんは」と
何かを切り出した時だった。
不意に彼女の背後で
ふわりと髪の毛が揺れた。
2つのお団子が目に入る。
偶然にしてはあまりにタイミングよく
彼方ちゃんが現れたのだ。
いや、タイミングは
最悪と言ってもいいのかもしれない。
小津町さんが振り返ると
彼方ちゃんは首を傾げた。
私が見覚えがない人と話していて
疑問が湧いた純粋無垢な子供のようだった。
彼方「詩柚?」
詩柚「…あ。」
彼方「誰、その人。」
詩柚「……知り合った人だよお。」
彼方「もうちょっと詳しく。」
詩柚「…昔住んでた場所で知り合った人なんだあ。」
彼方「そんな偶然ある?」
彼方ちゃんは昨日から特に
何を考えているのかわからない言動をとった。
今だってそう。
小津町さんの背に近付いて、
何を思ったのか昨日私にしたように
背後から手を回して肩に顎を乗せた。
彼方「背、高い。」
花奏「あ…え…?ありがとう…?これどういう…?」
彼方「詩柚に何かされたんですかー。」
花奏「…ううん、そういうわけじゃ…」
彼方「にしては心音早いし、さっきうちの方見た時目が泳いでたけど。」
花奏「それは少し驚いただけで。」
彼方「嫌なことされたなら嫌って言った方がいいですよー。」
詩柚「…小津町さん困ってるし離れてあげて。」
彼方「えー。」
小津町さんは知らない人に抱きつかれて
嫌そうというより訳がわからないと
言った感じで身動きが取れず
目をぱちくりとさせており、
彼方ちゃんは流し目で
学校の外の方を見た。
そして、何かを思いついたように
瞼を開いて私の方へと視線を飛ばす。
彼方「せっかくなら家まで送ってあげようよ。うちもついてく。」
詩柚「どういうつもり?」
彼方「この人1人で帰らせるのよくなさそ。ぱっと見軽くだけどパニック発作出てるし。」
花奏「いや、本当にちょっと驚いてるだけやから」
彼方「歌舞伎とか夜の街にこういう症状出てる子たまにいるし、まあまあ見てきたからわかるよ。」
詩柚「私と小津町さんの問題に入ってくるのはやめてよ。」
彼方「無理かな。うち、普通じゃないし?」
昨日私が口走ったことに
よっぽど腹を立てていたのか、
それとも軽いやり返しのつもりなのか
彼方ちゃんは片方の口角をあげて言う。
彼方「まあ後は…2人の関係知りたいから?それでもいいですか?」
花奏「えっと…今日友達の家寄る予定やから、送るとかは大丈夫なんやけど…。」
彼方「じゃあそのお友達さんの家まで。話したいだけですから。このまま学校で話す時間もないんでしょう?」
花奏「2人がよければ……?」
詩柚「断っていいんだからね。」
彼方「ひどぉい。」
花奏「いや、私はほんまにどっちでもええんよ。2人にお任せすると言うか。」
彼方「じゃ、送る。」
花奏「わかった。」
彼方「だって、詩柚。あ、でも定時制の授業だっけ。」
詩柚「…。」
彼方「休んでこっち来なよ。休めないほど単位かつかつでもないでしょ。」
彼方ちゃんは小津町さんから手を離し、
靴箱の方へと歩いていく。
小津町さんは未だ状況を
把握できてないようで
その場で立ち止まっていたけれど、
「仲悪い訳じゃないんだよね…?」
「悪い誘いだったりする…?」
「授業行かないといけない内容だったりは…?」
とおずおずと聞いて来たが、
全て否定するとひとまず
安心はせずとも納得はしたのか、
小さく手を振って靴箱へと向かった。
どうしてこんなことに。
昨日のことで彼方ちゃんは私のことを嫌って
嫌がらせをしているつもりなのだろうか。
それなら仲が悪いと
伝えても差異はなかったかもしれない。
帰路を辿る間、
彼方ちゃんは小津町さんと話をしていた。
先輩って名前なんて言うんですかー。
小津町花奏、全然タメ口でいいで。
じゃあ遠慮なく。どこで知り合ったの。
大阪にある田舎で。
どんな関係なのか。
先輩と後輩で。
どのくらいの頻度で会ってたの。
確か夏休みに少し、
それ以降は全くなかったはず。
どうして神奈川に引っ越したの。
親の都合で。
なら詩柚は。
何となく。
ほら隠した。
一問一答のように
これまで私から引き出すことが
できなかった話を中心に
言葉を投げかける。
小津町さんは素直に
彼女の問いかけに答えていたが、
時折私の方へと振り返っては
「それは本人に聞いた方がええと思う」と
私に関する話は
あまり答えなかった。
そもそも再会してすぐで
あの記憶の抜け具合で
答えられなかったり、
夏休み以降は会っていないから
答えを知らなかったり
するのだろうとぼんやり思う。
電車に乗り数駅。
最寄り駅から歩いていると
段々と閑静な住宅街になっていった。
どこに向かっているのかと思えば、
隣には長く続く塀が伸びる。
地図を見ると、隣はお寺らしい。
花奏「ここの裏口というか、玄関口の方で到着。」
詩柚「ここってお寺じゃ…?」
花奏「そう。お寺に住んでる友達なんだよ。」
彼方「…。」
花奏「もうすぐで着くし、この辺りで大丈夫。大切な時間使って送ってくれてありがとう。」
詩柚「ううん。こちらこそ勝手な申し出だったのにありがとお。」
彼方「…。」
詩柚「…彼方ちゃん?」
彼方「……はは、ウケる。」
詩柚「…?」
彼方ちゃんは見たことのない表情をしていた。
顔をこわばらせて、
まるで強がるように笑っている。
けれど眉間に皺が寄っており
明らかにこれまでとは違う
嫌悪感が溢れていた。
なのに、彼女は風をはみ言う。
彼方「用事、できた。」
花奏「…用事?」
彼方「そ。この家の人間に用事があんの。」
詩柚「急じゃない…?」
彼方「だとしても、どうせ行けばわかるよ。」
花奏「えっと…会う人に連絡入れるからちょっと待っ」
彼方「駄目。連絡なしで行かなきゃ多分突き返されるから。」
花奏「…?」
小津町さんはスマホをしまい、
お寺をぐるっと回って
私用で使うのだろう玄関口の方へ向かった。
インターホンを鳴らす時は
彼方ちゃんは影に隠れていた。
ぷち、と言う音と共に中の人の声がする。
小津町さんは急でごめんと断った上で、
「2人連れがいるんだけどいい?」と聞くと
中にいる人は快く応じた。
今すぐ玄関を開けにいくからと
音声が途切れると、
彼方ちゃんはようやく顔を出す。
そんなに嫌なら
会わなければいいのに、と思う反面
この家の人と
どのような関係があるのか
不思議と知りたくなっていた。
木枯らしが吹く中1分ほど待つと
やっと玄関の扉が開いた。
玄関とは言えど門の扉でしかなく、
先にまた小道が続いているのが見えた。
目の前には、肩を越すほど伸びた髪を
ツインテールにまとめている少女が1人
制服姿のまま立っている。
見覚えがある。
確か、横浜東雲女学院だったような…。
花奏「お邪魔します。急でごめんな。」
「いえ、全ぜ………っ!?」
花奏「…美月?」
美月「…あなた、どう言うつもりでまたここに来たの。」
彼方「…。」
その視線は明らかに
彼方ちゃんの方を向いており、
人当たりの良さそうな
表情と声色をしていたのに
突如その全てを抑制されたような
威嚇するような声を出していた。
対して彼方ちゃんは
先ほどとは打って変わって
まるで冷静そのもののように
表情を変えなかった。
彼方「あの後どうしてるかなーっていう興味です。」
美月「あなたっ…!」
小津町さんの横を通り抜けて
ツインテールの子の手が
彼方ちゃんの胸ぐらを掴む。
何が起こっているかわからなかった。
ただ、相手方は彼方ちゃんに対して
相当な怒りを携えていることだけは
嫌なほどわかる。
美月「あなたのせいでっ!」
花奏「ちょっと美月、どうしたん。落ち着いて。一旦離れよ。」
美月「嫌よ。1発くらいぶってやんないと気が済まないわ。」
彼方「うちとしても離れてほしいかなって思うんですけど。」
美月「ここに平然とこれるくらいなのだしそりゃあ図太いわよね。」
「何事?」
花奏「あ!」
お寺の方からまた1人が出て来た。
小津町さんはぱっと顔を上げたが、
渦中の2人はそれどころじゃないらしく
声も耳に届いていないのか
胸ぐらを掴んだままだった。
お寺に住む人だろうかとも思ったが、
モノトーンの私服が妙にそれっぽくない。
髪もひとつに結んでいて簡素だった。
花奏「歩!」
歩「…どういう状況?」
花奏「美月と、私がさっき知り合った渡邊さんの間でなんかあったみたいなんよ。」
歩、と呼ばれた人は興味なさげに
「そう」とだけ言うと、
美月と呼ばれる人の肩を引いた。
しかし、胸ぐらを掴んだ手は離さない。
彼方ちゃんもこのままの体制が
続くのは嫌だったのか、
呆れたように息を吐いてから言う。
彼方「何回でも殴っていいよ。その分ちゃんと殴り返すけど。」
美月「あなたのせいで散々苦しめられたのよ!?今だって!なのに落ち着けるわけ」
歩「昭和の喧嘩されるとこっちが困るから。何とか話し合いにして。」
美月「けど…っ!」
彼方「……。」
美月「私だけならまだしも、友達の人生も狂わしている上謝罪もないわ。」
彼方「私は私の目的があってしただけだから、反省とかない。謝る理由もない。」
美月「こんなやつとまともに話し合えって?」
歩「美月らしくない。何の関係でこうなってんの。」
美月「だってこの人…っ。」
強く肩を引かれ、
ようやく彼方ちゃんから手が離れた。
しわくちゃになったブラウスを整える彼女は
まるで畏怖する様子もなく、
常に上に立っているかのような姿勢だった。
肩を引かれた彼女は
行き場のなくなった手を
スカートへと移し強く握った。
憎しみが込められた声が
寒空に静かに響く。
美月「この人、私が今でも「食事」が必要な体質になった原因の人よ。」
歩「…!」
花奏「……そうなん?」
彼方「へえ、今でも。」
歩「それは…私にとっても許しがたい話ではあるけど、長くなりそうだし一旦上がって話さない?」
彼方「何もしないよ。」
美月「…信じられないわ。」
彼方「なら、手足を縛ったっていい。口を塞いだって何したっていいよ。話がしたいなら付き合う。経緯だってしてあげる。」
美月「どうせ嘘なんでしょう。」
彼方「嘘じゃない。全貌と、なんなら治し方だって話したっていい。」
美月「…!」
花奏「聞くだけならええんちゃう…?」
美月「……。」
奥歯を噛み締めた後、
喉の奥を潰したような苦しい声で
「そうね」とだけ返事をした。
彼方ちゃんはその返事を
もらえたことに安心したのか、
短く息をひとつ吐いたのがわかった。
お寺の奥の方へと入ったのは初めてで、
その中の一室へと通される。
部屋は広々としており、
一面の壁には本がぎっちりと
詰め込まれていた。
机の上には高校3年生の参考書が
ずらりと並んでいる。
制服を着ているし、
もうすぐ受験生であることは
容易に見てとれた。
歩「かっとなりすぎ。」
美月「…そうね。もう少し冷静に話せるよう、少し席を外してもいいかしら。」
歩「そうしてきて。」
そう言って部屋から出ていった。
知らない人でしかない私たちを
放置することは怖くないのだろうか。
それほど目の前に座る2人に
信頼をおいているということなのだろうか。
ローテーブルを真ん中に
対面するように座る。
隣には足を崩して
あぐらをかく彼方ちゃん。
図太いと言われた意味が
今更ながらよりわかった。
歩「まず、初めまして。三門歩です。こっちはもう知ってると思うけど、小津町花奏。」
花奏「よろしくね。」
歩「それで、席を外してるのは雛美月。」
彼方「雛さんね、なつかし。うちは渡邊彼方。」
詩柚「羽元詩柚です。」
歩「そもそも今回どう言った経緯でここに来ようってなったんですか。」
彼方「詩柚とそっちの子が話してて、小津町さんがパニックになりかけてたから送り届ける話にしただけです。友人宅に向かうって言うからじゃあそこまでって。」
歩「それで来てみたらある意味知り合いの家だったと。」
彼方「そーです。だから現状どうなってるのかなってせっかくなら見に行こうと思って来ました。」
歩「一応ことの発端は花奏と羽元さんが話してたことで…パニックって聞いたけど。」
詩柚「私が良くない思い出させ方をしちゃったんですよお。」
歩「思い出させ…?」
花奏「苗字変わったんやって。この方、深見さん。」
歩「…!」
目を見開くと、ややこしいことになったと
言わんばかりに手首を額に当て頭を抱えた。
小津町さんは昔のことを
この人には全て話しているのだろう。
それくらい信用できる相手が見つかったんだ。
歩「ややこし…ここの人間関係…。」
詩柚「私は小津町さんと、彼方ちゃんは雛さんと関係というか因縁というか…があるって感じですかねえ。」
歩「そうみたいですね。」
明らかに声の鋭さが
増したのがわかった。
小津町さんがどう言った形で
話したのかは知らない。
ひたすら被害者ぶって話したのか、
それとも事実を淡々と述べたのか。
どちらにせよ、私にいい印象は
抱いていないらしい。
当たり前だ。
あの田舎の人間だというだけで
知っている人からは疎まれて当然だ。
詩柚「でも私は用事はなくて。送って、それだけのつもりだったんです。」
彼方「うちのせいみたいにいうじゃん。」
詩柚「実際そうでしょお。」
歩「なら、美月が戻り次第、過去の出来事と改善方法を伝えてもらって、すぐに退室してもらえませんか。」
詩柚「敵対心強いなあ。」
歩「そりゃあ」
花奏「待って。私、羽元さんには悪いことされてへんよ。」
歩「あんたが色々されてきてたのを知った上で見過ごしてたでしょうが。」
花奏「そういうところまで話した…?」
歩「この件になると記憶が曖昧になりやすいんだっけ。夏休みに相談室で過ごしてたこととか、深見さんは夏休み以外ではほぼ関わりないこととか…何で見てるだけなのか聞いたら謝られたこととかは話してたよ。ちゃんと覚えてる。」
花奏「そっか。」
深見、と呼び続けるあたり
私を敵とみなすことはやめないようで、
半端にいい人じゃなくて安心した。
見過ごしたのは仕方ない、
それでもいいなんて
言われてしまった暁には、
小津町さんのことはそこまで大切では
ないのだろうと邪推して
勝手に呆れていただろうし、
何より自分のしてきたことは
間違っているのに正しいとされるようで、
今後も間違ったままだとしても
許されてしまうと
錯覚してしまいそうだった。
そんな紛い物を過信するよりも
鋭い現実を突きつけられた方が
まだ地に足をついて生きていられる。
たとえ普通でないとしても。
いくら深見という苗字が嫌いだろうと、
それはどうでもいい話なのだ。
それでも、どうか嫌いを避けるよう
願ってしまうもので。
花奏「羽元さん。」
詩柚「…詩柚って呼んで。」
歩「何だってよくないですか。」
詩柚「苗字、あんまり好きじゃないから。」
花奏「じゃあ、詩柚さんで。」
詩柚「うん。ありがとう。」
花奏「まず…謝りたいことがあるの。」
詩柚「…?」
花奏「…確か、なんだけど…昔、森中に連れられて……その……詩柚さんの家を、燃やしかけたと思う。」
詩柚「…ああ、あれ。」
花奏「ごめんなさい。」
詩柚「町の人は皆小津町さんを悪者にしたがってあの後も噂は流れてた。…けど、夏の間接してみて、そんなことする人とは思ってなかったから…させられたんだろうなって思ってたから、大丈夫。」
花奏「でも、あの時すぐに嫌って言えなくて、結果的に火を」
詩柚「大火事になって家がなくなったわけじゃない。むしろあの家なんか燃やしてくれてよかった。」
花奏「…っ。」
詩柚「そのくらい、私にとってはどうでもいいものだったから、どうか気にしないでほしいなあ。」
花奏「………わか、った。でも…本当にごめんなさい。」
詩柚「…いいよお。顔を上げてよ。」
花奏「…うん。」
詩柚「他の話にしようよ。何か近況とか、気になることとか。」
花奏「あ、それなら聞きたいことがあって…。…昔、一緒の高校行ってたよね。何でまた高校に行ってるの…?」
そりゃあ気になるよね、と
思わず笑いそうになる。
私からしても当時
高校1年生だったあなたが
今高校3年生であるのはおかしく、
留年か中退を挟んでいるのだろうことは
想像できるのだけど、
それには一旦蓋をする。
段々と視界に重力がかかったかのように
じわじわ歪み始めている気がした。
詩柚「高校3年の時に退学したんだよ。お金を貯めるためにバイトして…でもほら、すぐ眠くなっちゃうからあんまりいい顔されなかったけど…それで引越し代を貯めて、上京して定時制のある高校に入ったんだ。」
彼方「そうなの?じゃあ余裕で20歳超えてるってこと?」
詩柚「うん。お酒もタバコもいける年齢だよお。」
彼方「は?知らなかった。」
詩柚「聞かれなかったからねえ。」
彼方「じゃあ高田とは何歳差になんの。5つくらい?」
詩柚「かもねえ。」
花奏「高田って……。」
彼方「高田湊。」
花奏「…そこも繋がるん?」
詩柚「知ってるの?」
花奏「1年の頃1番仲良くしてもらったんだ。湊は留年しちゃったから学年もクラスももう違うけど、今でもたまに話すよ。」
詩柚「…そうなんだあ。」
花奏「歩は知ってるっけ。」
歩「あんたが入院してたときに会ったことがあるくらい。ほぼ関わりはない。」
花奏「あぁ、そうなんや。」
歩「そちらと高田の関係は?」
詩柚「……幼馴染。」
歩「じゃあ例の田舎に?」
詩柚「…そう。でも、湊ちゃんは何も悪いことはしてないんです。だから偏見で悪く思って欲しくなくて。」
彼方「…。」
隣に座る彼方ちゃんが
興味なさげに自分の爪を
じっと見つめているのが
ぼうっとする頭に焼きつく。
明らかに頭が回らないなと思っていると
睡眠をとってからだいぶ
時間が経っていることに気づいた。
詩柚「……話途中にごめんなさい。少し…寝ていいですか。」
歩「え?どういうタイミングで?」
彼方「いいよ。説明しとく。」
歩「しかもあんたがいいよって言うんだよね。」
彼方「駄目ですか?」
歩「…ご自由に。」
そこまでなんとか聞き届けてから
自分の鞄を枕に横たわる。
長い間気を張っていたのか、
シャットダウンするように
ぷつりと意識が途切れた。
次に目覚めた時には、彼方ちゃんから
「定期的に眠くなること、話しといた」と
端的な情報共有がされた。
寝ぼけ眼を擦っていた時
扉がノックされ、
三門さんが開きに向かうと、
お茶やお菓子の並べられた
お盆を持った雛さんが戻って来た。
ローテーブルに並べて、
三門さんの隣に座る。
そして先ほどよりも幾分も
落ち着き払った声を放った。
美月「お待たせしてごめんなさい。…それで、早速で悪いのだけど、いろいろ聞きたいことがあるわ。」
彼方「なんでもどーぞ。」
美月「単刀直入に聞くわね。この現象の治し方を教えてちょうだい。」
彼方「そんなの簡単ですよ。我慢すればいいだけ。」
美月「…また嘘を」
彼方「ほんと。」
美月「我慢して、待って…あんな死にそうな思いをしても治らなかったのよ。」
彼方「我慢が足りないだけじゃないですか。実際何日間血を摂取してなかったとか覚えてます?」
美月「症状の出始めは期間が空いた気がするけれど、最近は長くても2週間開くかどうか。」
彼方「期間が足りないだけですよそれ。」
美月「苦しめるために適当に言ってるだけなんじゃないでしょうね。」
彼方「うちが実体験して言ってんだから疑われても困るんですけど。」
美月「…実体験?あなた、昔私のところに来た時は自分のこと吸血鬼って言ってたじゃない。血が欲しくてたまらないとも。」
彼方「台本があったんですよ。あれ、そもそもうちがしたくてやったんじゃない。金のために動いただけ。」
美月「……。」
彼方「そんな信じられないって顔しなくても。…順を追って話しますね。」
それから彼方ちゃんは俯くのをやめ、
雛さんに目を合わせて話し始めた。
ネグレクトに遭っており、
自分でお金を集める必要があったこと。
中学生時代には歌舞伎町に足を運び
自分を売ってお金を作っていたこと。
自分1人ならさっさと死んで
楽になることだって考えたが、
弟がいるからその選択肢はなかったこと。
弟が大学まで進学できるほどの
貯蓄を目標にしていたことを語った。
雛さんは目をやや伏せており、
許せないことには変わりないが
同情する余地があることに
戸惑いを感じているようだった。
彼方「親なんてうちのことは見ないけど、あんなゴミみたいな人間にならないために勉強して、成山に入った。それで1年の時、一叶ってやつから話しかけられたの。」
美月「それはどなたなの。」
彼方「うちと詩柚含め今は10人…初めは9人で訳のわからないオリエンテーションから始まってる変な出来事に巻き込まれていて、そのうちの1人です。」
歩「…それって。」
花奏「私らが2年前に経験したやつ…?」
詩柚「…そうなの?」
歩「……まだ続いてんだ。」
彼方「でも一叶は完全に黒…主催側ですよ。」
美月「…え?」
彼方「けどその話は後でするから一旦流す。その一叶ってやつから、実験を頼まれました。やれば多額の金をやるって契約で。」
美月「……それでやったの?」
彼方「はい。」
美月「…何それ。見知らぬ人なら犠牲にしていいってことかしら。」
彼方「私の中ではそう。大切な人のための金が増えるならそれでよかった。他の人はどうだっていい。」
美月「………怒っても無駄ね。続けて。」
彼方「歯に薬品を塗られて、そのままあんたに噛みつけって指示がありました。その薬品が他人の血を求めるものだったってだけ。」
美月「……私の家に何度か来たのはどうして。」
彼方「それも指示の一環。台本があって、この通りに相手は言うからある程度記憶して話せって。もちろんその分の報酬も増しでもらえるからやったんですけど。」
美月「…なら、実体験って言ったのも…。」
彼方「歯に塗ってたらそりゃ口の中にも入るし、あんたと仲良く血液中毒でした。」
美月「そんな軽々しく」
彼方「それはこっちのセリフですよ。あんたは血をもらえたかもしれないけど、うちはそうじゃなかった。それに、数ヶ月我慢すれば症状もなくなるってわかってたし、死にそうになっても待つしかなかった。」
美月「……。」
詩柚「…口を挟むようで申し訳ないんだけど…それ、話しても大丈夫なの…?ものすごく重要なことだと思うんだけど…。」
彼方「駄目っていう契約だった。…けど、悠里って人が一叶の素性をネットに晒してる時点でもう秘匿の意味はないとして、このことは自由に話していいって言われた。」
歩「言われたって。」
彼方「本人から。もし悠里が晒してなかったら、今こうして話せてないし、ある意味感謝しなきゃね。」
彼方ちゃん自身、津森さんには
恨みの感情はさほどないように見えた。
実際報酬を受け取っているなら
ただのビジネスの関係でしかないから
あっさりとしているのだろう。
もし槙さんが津森さんのことを
晒していなかったら、
こうして彼方ちゃんがついてくることも
なかったのかもしれない。
過去のことがひとつひとつ積み重なって
今の稀有な状態が完成している。
不意にあのくすんだ鳥居の並ぶ道を思い出す。
選んできたのだ。
その時その時の最善と思う方を
ずっと選択し続けてきた。
私だけでなく、彼方ちゃんも、
目の前にいる3人も。
最善とは言えず、
悪か最悪かの選択しか
できなかったかもしれないけれど。
彼方「離脱症状に耐えて耐えて、3ヶ月経って…やっと治ったと思った時に、友達が死んでた。殺人事件だって。殺されたの。」
美月「…。」
彼方「今後生きるのに何の価値があるんだって思った。ダサいけどもう1度ここにきて、やっぱり殺してくれって頼もうかとも思った。でも…。」
スカートをぎゅっと握りしめるのが
視界の隅で見えてしまった。
彼方「弟のためにやっぱり金は必要だった。今になっても、あれは間違ってなかったと思う。」
美月「お金が必要なら、他の場所に相談すればよかったじゃない。何でよりによってそんな危険なところを頼るのよ。」
彼方「その発想が幸せ者ですよね。」
美月「…真っ当に考えればまず公的機関を頼ろうとなるはずじゃないかしら。」
彼方「うちも弟も離れたくなかったんです。他所のちゃんとしたところに話したら、ばらばらに保護されたら。親は弟のことは好きっぽいし、保護までは一緒でも片方だけ引き取られたら。それこそ意味がない。」
これまで自分がして来たことの、
人生を捨ててまで
弟のために金を稼いできた意味がない。
自分に置き換えてみれば
彼女の言うことは痛いほどわかる。
もしも湊ちゃんに
守るためと言って話してこなかった
全てが誰かの口から
告げられてしまったら。
もしも湊ちゃんがそれで傷付いたら。
これまで私のしてきたことは
意味がないと思ってしまう。
彼方「…これで全部。納得しました?」
美月「……納得するしかないんでしょうね。でも、あなたを許すことはやっぱりできない。」
彼方「それでいいですよ。許されたいとは思ってないし、そもそも反省すらしていないんだから。」
美月「……ただ、あなたが全て悪いとも思わない。他人の家に口出しするのは良くないことを承知で言わせてもらうけれど、悪いのはあなたのご両親と実験の声かけをした一叶さんよ。」
彼方「悪くないのに許されないとか、わけわかんない。」
美月「…そうとしか言えないわ。根本は悪くない。けれど、その後の対応が良くなかった。…ただし、それ以外方法がなかったのも伝わる。」
彼方「結果、これが最悪の中での最善だったと。」
美月「ええ。」
間違いなく和解ではない。
共に不平等を嘆き、苦しんだ上で
互いに敵対し続けることを
選んだにすぎない。
悲しいけれど、
良くて今のこの関係にしか
落とし込むことはできないのだろう。
もし何かが違えば、
2人は友達だったなんてことも
あったかもしれないのに。
これだけ豪華な家に住んでいるのだから
雛さんは習い事も沢山経験していそうだし、
彼方ちゃんは見た目に沿わず
クラシック音楽を聴くし
高尚な趣味を持っている。
もしかしたら、と思えば思うほど
意味もなく悔しさが込み上げた。
歩「その一叶って人の話を掘り返したいんだけど…参加者の1人って言ってましたよね。」
彼方「はい。でも、同じ主催側だった子が1人途中参加して来て、一叶と敵対してるのかわからないですけど、一叶が全てを牽引しているわけではないにしろ100%関わっているし、人殺しもしていて更にはアンドロイドだとか…」
歩「待って。情報量が多い。」
詩柚「そうなりますよねえ…私たちもそうでしたし…。」
彼方「何回でも同じことは話せますけど。」
花奏「今言ってくれたいろいろなことの証拠ってあるん?」
彼方「同じ主催側だった時から一叶の指示はあったそうだし、殺されたのは自分の妹だそうで。アンドロイドの件は知り合いが直接聴いたら認めたのだとか。」
それからこれまでの出来事の情報を
ざっくりだが共有した。
一昨年はそれこそ今回で解明されたが
雛さんが血を欲する体になってしまったり、
巻き込まれた人が
別の世界線に行ってしまったりしたそう。
私たちの年では彼方ちゃんが
別の空間で隔離されていたことや
巻き込まれた人の記憶が
一部ごそっとなくなったりしたことを伝える。
けれど、たった今きっと私に対して
その異変が降りかかっているだろうことは
話せないまま時間は過ぎていった。
去年度のことはきっと槙さんが知っている。
幸か不幸か、全ての年代で
話をまとめることができてしまいそうだった。
話すうちに、また何か動きがあれば
共有し合う方向に向かっていった。
敵対心を持っているとは言え
皆被害者であることに変わりはなく、
それを解消するためなら
協力するスタンスをとってくれるそうで
水に墨を落としたように
じんわりと安心が滲む。
出会って早々の殺伐とした空気からは
想像もできないほど
思っている以上に穏便に話し合いが進み、
お寺を後にすることになった。
玄関を閉めるためだろうが、
お見送りまでしてくれた。
美月「2度と来るんじゃないわよ。」
歩「言葉強。」
彼方「さっさと苦しんで治るといいですねー。」
詩柚「彼方ちゃんも威嚇しないの…。…お邪魔しましたあ。」
花奏「またね。」
またね、とは返事をせず
3人に背を向ける。
またね、と言ってくれるんだ。
嬉しさと申し訳なさが混じる。
それを押し隠すように
寒いという言い訳を縦に背を丸めた。
お寺から出る頃には
日は傾き始めており、
定時制の授業はそろそろ
始まる時間となっていた。
今日は休んでしまってもいいのかもしれない。
さまざまな感情がまだ
脳の中の海を漂っており、
感情は落ち着かず、
整理するのに時間が必要だ。
彼方「まさかこんなことになるとはね。」
詩柚「…まあねえ。」
彼方「ってか、高田以外にも話せる人いたんだ。」
詩柚「いるにはいるよお。」
三門さんに対しては方言なのに
私に向かっては標準語であるあたり、
事情はわからないが理由があって
話し方を変えているのは明白だった。
それが明るいものなのか
暗いものなのかは無論知らない。
過去のことに言及しても
三門さんは動揺すらしていなかったし、
過去の多くは思い出していたうちに
話したのだろう。
その上で、今も関係を続けている。
少なくとも今の人間関係が
良好なことは伺える。
それだけで十分だった。
昔仲良くしていた人が
元気に今を過ごせているのならそれでいい。
これは依存というよりかは
ただただ遠くの知り合いが
元気ならよかったと思うだけのことでしかない。
彼方「何で苗字じゃなくて名前で呼ばせたの。」
詩柚「唯一今も過去も使ってる名前で、ずっと繋がってる気がしたからかなあ。」
彼方「使ってるって。」
詩柚「でも実際そうでしょお?深見も羽元も好きだろうが嫌いだろうが途中までの自分でしかない。でも、私はずっと詩柚。」
彼方「自分の名前好きなの?」
詩柚「そう聞くってことは彼方ちゃんは自分の名前は嫌いなの?」
彼方「はぐらかさないでいいじゃん。」
詩柚「……そうだなあ…湊ちゃんがずっと呼んでくれたから、嫌いになれないよ。」
彼方「親からもらった名前だってことを踏まえても?」
詩柚「うん。」
彼方「そ。…詩柚と小津町さんって人との関係も、依存とは違いそう。」
詩柚「そうだねえ。」
彼方「じゃあ、高田とは依存だよ。」
詩柚「……彼方ちゃんが言うならそうなんだろうなあ。」
やっぱり彼女はいつだって
依存しているかしていないかを基準に
生きている気がする。
そこまで依存に縛られる理由も
これまでの話からして
親の愛情不足や幼い頃から大人的行動が
求められていたことなど
沢山あるだろうけれど、
ここ最近はかなり顕著に
その傾向が現れていた。
彼方「依存してるならせめて高田を普通にしてあげれば。」
詩柚「どうして彼方ちゃんは湊ちゃんの肩を持つの?」
彼方「あいつ笑顔が嘘っぽくて気持ち悪いんだよね。ずっと空気読んでるって言うか、根っからの明るさじゃない作り物って感じが受け付けない。」
詩柚「…勘でしょお。」
彼方「勘。」
詩柚「なら気のせいかもしれないよお。」
彼方「詩柚。」
詩柚「ん?」
彼方「うちとの関係を続けたいならさ、高田との関係にケリをつけてからにしよう。」
詩柚「…どうしたの、急に。」
彼方「高田がいる以上、完全な依存は無理だよ。高田から離れるのか、そうしないのかきちんと決めてからじゃなきゃ。」
詩柚「…何で?半々は駄目なの?…元々私の依存の利は、湊ちゃんにかかってる比重を緩和する程度の話でしょお?」
彼方「緩和されてる?」
詩柚「…それは、まだわからないけど。」
彼方「高田と過ごさなくなって、話せないことが増えただけじゃない?」
詩柚「…。」
彼方「だから、基準をひとつ。」
彼方ちゃんは大股で数は歩き、
私の前に立って指をさした。
彼方「高田に奪ったこれまでの普通を返してあげられるかどうか。これで決めよう。」
詩柚「普通を。」
彼方「解釈は任せる。高田が普通の人だというのなら何もしなくてもいい。ただ、うちらはそこで関係を切ろう。」
詩柚「切るって…何もそこまでしなくても」
彼方「そのくらいの気持ちでいろってこと。」
詩柚「…っ。」
彼方「今週末くらいにどうだったか聞く。」
詩柚「…短すぎるよ。」
彼方「長くしても詩柚は決めない。時間に甘えて先延ばしにするに決まってる。」
詩柚「……。」
彼方「それまでうちらは普通に会うし話す。けど、頭に入れといて。」
今日の雛さんとの話し合いの
熱りが冷めていないのか、
今決めたかのようにそう言い放つと
けろりとした顔で
「帰ろ」と言って来た。
この話は元々彼方ちゃんにも
利があるからと始まったのに、
こうも終わりをちらつかせるのは
利益がないと判断したのか、
それともただ試し行為として
突き放しているだけなのか。
両方あり得るせいで
判別がつかない。
普通に。
普通って何だろう。
高校に通って、友達と遊んで、バイトして。
恋愛だけが普通じゃないと言いたいのだろう。
それが普通でなければいけない理由が
未だにわからないままだった。
けれど、ここまで深く
関わってしまった彼方ちゃんを
最も簡単に裏切るような真似も
したくないと思ってしまう。
自分のことなら捨て切れるのに。
頭の中は先ほどまで隅にあった糸が
風に吹かれてぐちゃぐちゃになりながら
大きさを増していくようだった。
化け物のワルツ PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。化け物のワルツの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます