特効薬

詩柚「…。」


目が覚めると、

普段ならあり得ないことに

家の中からいい匂いが漂ってきた。

風化してしまったような体に力を込め、

ベッドから這いずり出て

キッチンに向かう。


ことこと、と音がしている。

人のいるキッチンの音に

安心を覚えた。


湊「ありゃ、起こしちゃった?」


詩柚「ううん。…おはよう。」


湊「おはよん。勝手に入っちゃった。ごめんね。」


詩柚「いつもはしないから珍しいなって思ったけど…。」


湊「あー…うん、何となく?」


詩柚「何となくじゃあ湊ちゃんはこんなことしないよお。」


湊「たはーっ、そりゃわかるよね。」


湊ちゃんはコップと

冷蔵庫からお茶を取り出し、

キッチンを見つめて突っ立っていた私へと

手渡してくれた。


湊「学校からのメールでさ、定時制の方でわいせつ行為があったから全日制も気をつけてって感じの内容のものが来たんだ。」


詩柚「…それで来てくれたの?」


湊「心配だったから。」


詩柚「…。」


湊「何もなかった?」


お茶の表面が揺らぐのを眺める。

何もなかった、と言うのには

あまりにいろいろなことがありすぎた。

けれど、それは湊ちゃんが

知らなくてもいいことだ。

被害者は彼方ちゃんであって、

私が話すようなことじゃない。

近況報告だとしても

これはただの告げ口だ。

本人の口から語るに

越したことはないのだから。


詩柚「うん。」


湊「そっか。良かった!」


湊ちゃんは笑ってそう言い、

また火をかけたままの

フライパンの方へと向き直った。


昨夜、事件があって以降どうなったのか

先生からいち早く連絡がきた。

私の動画から不同意であることは

明らかだと言い、

退学処分をする方針でいると教えてくれた。


そして男の独白では、

私の定期券を盗んで

家近くの最寄駅を

把握していたことがわかった。

あの日定期券がなくなっていた背後で

そのようなことが起こっており、

駅で待ち伏せされる可能性も

あったと思うとぞっとする。

元々は私を狙っていたこと、

彼方ちゃんが私のことを

迎えに来てくれるようになって

彼女のことを見かけるようになってから

標的を変えたと言うことも

全て白状したらしい。

許せないことばかりだが

黙秘されて有耶無耶にならなくて

良かったと思ってしまう。


けれど、私が彼方ちゃんを

傷つけたことは事実で、

事件後未だにちゃんと話せていない。

彼女のことを思い出した時、

湊ちゃんが優しい声で言葉を放った。


湊「そういえば最近彼方ちゃんとよく話すんだって?」


詩柚「…誰から聞いたの?」


湊「2、3日前かな、彼方ちゃんと会った時に話してくれたよん。何話すのーって聞いても教えてくれなかったけどね!」


詩柚「教えて欲しかったんだ…。」


湊「気になりはするなー。2人って共通点が絶妙になさそうと言うか。」


詩柚「なさそう?」


湊「ゆうちゃんはおっとりだけど彼方ちゃんははきはきって感じだし、言葉遣いとか雰囲気とか…いろいろ?」


詩柚「そうかもねえ。」


湊「まあでも、嬉しいことこの上ない!」


詩柚「……珍しく他の人と話してるもんねえ。」


湊「それもそうだし、何より大事な人と大事な友達が仲良くなってくれるのは嬉しいもんよー!」


詩柚「大事な。」


湊「そう!」





°°°°°





詩柚「うん、したよお。」


湊「え、本当に!?」


詩柚「そんな驚くかなあ。」


湊「驚くよ!びっくりだよ!ひゃー、湊さん嬉しいよ。」


詩柚「ならよかった。」


湊「どんな人なの?聞きたいなー。」


詩柚「多分、普通の人だよ。」


湊「そうなんだー!女の子?男の子?定時制って年齢は幅広いんだっけ?年上?年」


詩柚「聞きすぎだなあ。」


湊「気になるじゃーん!だって数年間鉄壁の守りをしてたゆうちゃんが話した人なんだもん!」


詩柚「必要なことは話すし、渡邊さんや忽那さんとも最近話してるから、そこまで鉄壁の人じゃないと思うけど。」


湊「そーなの!?わーっ、嬉しいー!」


詩柚「嬉しい?」


湊「うん!友達同士が仲良くなってるってそりゃ嬉しいよん。」


詩柚「そっかあ。」





°°°°°





詩柚「この前は友達同士がって言ったのに。」


湊「ありゃ、そうだっけ。」


詩柚「うん。」


湊「外だったから無意識で変えてたかも?あんまり彼女いまーすってむやみやたらに公言するのも違う気がするし…?」


詩柚「それは、うん。」


湊「まあネットでは言っちゃってるけども!彼女いるぞーって!」


詩柚「そうなんだあ。」


湊「嫌じゃなかった…?」


詩柚「うん。嬉しい。」


湊「むふふー。良かったよん。あ、見てよこの焼き色!めたんこ上手にできちゃった!」


火を止めてフライパンの中を指さした。

湯気が頬に優しく触れる。

家庭的ないい匂いが

私の家の中に溢れていた。

これがずっと続けばいい。

続いて欲しい。

夢の中のような光景を目の前にして

思わず顔がほころぶ。


いつもは私以外誰もいない

私だけの安全なお城だけれど、

湊ちゃんならいつだって

今日みたいに扉を開いてくれてもいいのにな。


湊ちゃんはご飯を作り終えると

「一緒に食べよう」と

余っていた食パンをトーストしてくれた。

配膳を手伝い、一緒に食卓を囲んだ後、

今日はこの後予定があるからと

私の家を後にした。

時間は昼過ぎ、もしかしたら

今から勉強したり、

友達と会ったりするのかもしれない。

けれど、湊ちゃんが私を心配して

家まで来てくれて

ご飯も一緒に食べた後だからか、

不安という不安は薄まっていた。



今日の夢の中の選択肢は

『渡邊が膝に怪我を負う』。

『自分が高田湊の家の鍵をなくす』。



事件があったからか

彼方ちゃんに同情してしまった部分が

少なからずあるようで、

私は湊ちゃんの家の鍵を

無くす方を選んでいた。

定期券のようにまた出てくるのか、

それともなくなったままなのか。

もう取り返しのつくような選択肢は

2度と現れないのかわからないけれど、

鍵が見つかるようなことは

ないだろうという予感がする。

一昨日家に帰ってきた時にはあり、

その後家からでていないので

確実に家の中にはある。

それだけわかっていれば十分かと思い、

探すにも至らなかった。


眠気が襲ってくる前に

掃除くらいしようかと

伸びをした時だった。


ぴこ、とスマホが鳴る。

何かと思ってみてみれば、

彼方ちゃんから個人宛に

メッセージが送られていた。


彼方『夜時間ある?』


とだけ画面上にふわりと

浮かんでいるのだった。





***





詩柚「もしもし。」


彼方『もしもーし。今平気なの?』


詩柚「うん。ちょっと寝た後だし、しばらくは起きてられるよお。」


彼方『そ。』


電話越しにシャーペンを鳴らす音がする。

そういえばもうすぐ期末テストがあると

前々から言っていたような気がする。

Twitterでも明日から期末だと

呟いている人が何人もいた。


彼方『また10時間、20時間寝るとかはないの?』


詩柚「うん。大丈夫だよお。」


彼方『ふうん。たくさん寝てそうと思ったけど。』


詩柚「回数は少し多かったかなあ。」


彼方『へえ。寝る回数が増えるんだ。』


詩柚「そうだねえ。」


彼方『ストレス?』


詩柚「…多分?」


彼方『じゃなきゃ何が理由だって感じか。』


詩柚「酸素不足とか。」


彼方『窓開けてなさそうだしあり得る。』


詩柚「今日は掃除のために開けたし、そんなに二酸化炭素濃度高くないと思うけどなあ。」


彼方『毎日開けろ毎日。』


詩柚「もう寒いよお…。」


彼方『暖房つけて。』


詩柚「電気代をかけるくらいなら、窓閉めっぱなしでいいかなあって思うんだよねえ。」


彼方『わかるけど。』


思ったより普通に話せている。

彼方ちゃんが話題を

振ってくれているおかげだろう。

あの後、大丈夫だった?

あの時の「電話して」の意図、

受け取り方はあれで合ってたの?

そう聞きたかったのに、

聞こうと思うたびに

カーテンの隙間からの映像の

再生ボタンが押されてしまい、

変に動悸がした。

徐に口を閉じると、

まるで私のことを見ていたかのように

息を吸う音がした。


彼方『あの件、退学で進めてるってね。見た?』


詩柚「…!うん。らしいね。」


彼方『録画が決定的証拠になった感じしたしナイスすぎ。よく汲み取ったね。』


詩柚「少し前に、手を出させたら勝ちって話をしてたのを思い出したの。」


彼方『そんな話したっけ。』


詩柚「したよお。お昼間駅ビルに行った時。」


彼方『へぇ、覚えてくれてんだ。』


詩柚「そこまで忘れんぼではないかなあ。」


彼方『忘れてそうっていうか、詩柚って感情の起伏がほぼないから、うちとの話とか全部興味ないと思ってた。だから覚えてるわけないだろうって。』


詩柚「意外と覚えてるよお。」


彼方『ふうん。ま、とにかくこれでお互い学校に行くたびにきもいやつに突っかかられることもなくなるね。』


詩柚「…え?」


お互い。

その言葉に違和感を持つ。

確かに途中から彼方ちゃんに

標的を変えたとは聞いていたけれど、

実際に何かがあったとは

聞いたことがなかった。


彼方『えって何。』


詩柚「一昨日のこと以外にも何かされてたの…?」


彼方『詩柚が寝すぎて学校に来なかった日、ナンパされたくらい。他は何も。』


詩柚「何もって…ほんとに…?」


彼方『本当。ナンパであしらった次で金も出さずもう手を出すとかきしょすぎ。』


詩柚「もし…お金を出してたら……。」


彼方『やったのかって?』


詩柚「…。」


彼方『まあ、今回の目的ではやってなかったよ。』


詩柚「目的…退学させるってこと…だよね。」


彼方『端折るとそう。』


詩柚「…聞いてもいい?あの日どういう流れで事件が起こったのか。」


彼方『そんな複雑じゃないよ。定時制の授業後の時間に迎えに行ったらきしょ男が来て、飲み物奢るから来てみたいな適当な誘い文句にのっただけ。これ狙ってんなってもろ分かったし、こんな欲丸出しのやつが近くにずっといるとか溜まったもんじゃないから退学させてやろうと思ってやった。』


詩柚「近くにって」


彼方『詩柚の。汚いの無理でしょ?』


詩柚「…!」


彼方『後は詩柚に賭けた。見つけるのも、録画も。だから時間稼ぎして待ってた。以上。』


ざりざり、と画面越しに

シャーペンの擦れる音がする。

さも何もないみたいに言う。

けれど、それじゃあ私は

自分のために彼方ちゃんを

犠牲にしただけではなく、

彼方ちゃんを利用して

自分の安全な環境を作ったことにしか

ならないわけで。

この関係性は依存なんて言葉では

説明できない形になりつつあると

思わず生唾を飲んだ。


彼方『詩柚のことだし、本当は見つけたとしても逃げると思ってた。』


詩柚「…。」


彼方『でもちゃんと逃げないでいてくれた。無理だったろうに。』


詩柚「…だから優しい人って言ったの…?」


彼方『そ。』


詩柚「……優しくないよ。」


彼方『精神削る思いであの場に残って優しくないとは』


詩柚「優しいとかじゃない。」


彼方『…それでももういいけど。でもあの時近くに詩柚いて良かったとは思った。』


詩柚「…でも、依存関係なんて結んでなかったら彼方ちゃんには何にもなかった。」


彼方『いや、慣れてるから別に』


詩柚「口ではなんとでも言えちゃうからわからないよ。」


彼方『…。』


詩柚「…ごめん。」


彼方『詩柚にとって、依存関係って何?』


詩柚「何って」


彼方『私は前に言ったよ。身を削ってでも一緒にいることって。詩柚はどうなの。』


詩柚「私は…。」


依存。

私にとっての依存。

私自身湊ちゃんに

背を預けている印象はある。

それが依存かと言われると、外から見れば

そう言えるかもねとしか言えない。

寄りかかりすぎかも、と

思う時はある。

けれど、依存かと言われるとわからなくなる。

確かに私は湊ちゃんがいないと

生きていけない。

しかし同時に、湊ちゃんがいたから

生きたくもないのに

生きてしまっ……


詩柚「…っ。」


湊ちゃんのせいじゃない。

ゆっくり瞬きをして、落ち着くようにと

何度も頭の中で唱える。

湊ちゃんのせいで

こうなったんじゃない。

悪いのは全てあいつ。

私でも、湊ちゃんの両親でも、

無論湊ちゃんでもない。


依存とは何か、だっけ。

彼方ちゃんにはこれまで

自分から依存しようとして

いろいろと世話を焼いてくれた。

与えてもらった。

分かってる。

はぐらかさずに答えるのが

与えてもらった分を返す、

信用に値する行為だと分かる。

それでも、夢の中の選択肢では

彼方ちゃんよりも

自分を犠牲にしている。

彼女は何も知らなくても

私1人がそれを知っているからと

勝手に与えたつもりになっていた。

だから話さなくてもいいと。

曖昧なままでいれば

まだ朝と夜の間を歩いていけると思った。


詩柚「…わかんないなあ。」


彼方『何それ。絞り出して。』


詩柚「思いつかないんだよねえ。でも、大体彼方ちゃんの基準でいい気がするよお。」


彼方『答えになってない。』


詩柚「まあまあ。あ、そういえば明日からテストなんだっけ?」


彼方『そうだけど。』


詩柚「じゃあ午前とかで終わっちゃうんだっけ?」


それから話を逸らされたことに

明らかに不機嫌にはなっていたけれど、

行方不明で欠席し遅れている分、

今夜は一夜漬け並みに

勉強すると言っていたので

流れるように会話は途切れ

ペンの音だけが響いていく。


私はずるい人間だ。

いつまでも、この先もずっと。

限りなく。

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