第21話 佐藤一郎と僕

 どこの街にもある、さしてオシャレでもないコーヒーチェーン。

 平日の昼のピークを過ぎた店内には、ランチタイムに収まりきらなかったトークの延長戦を繰り広げる女性グループや商談するビジネスマン、タブレットを前に何かを作成しているクリエイターらしき人など、皆がそれぞれのことに意識を向けている。僕はカウンターでホットコーヒーを受け取ると、店の奥まった場所にある角席に向かった。


「ここ、いいですか」


 テーブルをコツコツと叩く。スーツを着た男がノートパソコンのモニターから顔を上げた。


「探しましたよ、佐藤さん」


 数秒、僕の顔を見た佐藤氏は「貴方、まだ見えるんですか」と呟き、パソコンのカバーを閉じた。観念したように「どうぞ」と自分の向かいの椅子に座るよう手で促す。


「ご友人との縁は修復されたと思っていましたが」


 杭が深く打ち直されたのなら、こちらの姿はもう見えないはずだと言いたいのだろう。


「その節は、本当に助かりました」


 僕はトレイをテーブルに置くと、まずは深々と頭を下げた。

 Tの怪我はそれなりにひどかったものの、大事に至らずに済んだことを報告する。


「警察署に行くまでの間、Tと話しました。色々なことを喋ったんですけど、出て来るのは『次に会う時は海に行こう』とか『お笑いのライブを見に行きたい』とかそんなことばかりで」

「先の話が出来るというのは、大変良いことではないですか」


 今日を生きることへの意味が生まれますと、佐藤氏は言った。

 裁判の結果、Tにどのような判決が言い渡されるのかは分からない。執行猶予が付くのか実刑になるのかは今後の行方を見守るしかないけれど、どちらになったとしても僕の気持ちはほぼ決まっている。でもその前に、僕には知りたいことがあった。


「僕、どうしても佐藤さんに聞きたいことがあって。そのためにずっと佐藤さんを探していたんです」


 僕は正面から佐藤氏を見据える。


「どうして佐藤さんは、僕の名前を知っていたんですか」

「私の仕事内容を考えれば、知っていたとしても不思議はないでしょう」


 佐藤氏は平然とした顔で、コーヒーを一口飲む。

 そう来るだろうと思った。

 名前が情報のひとつである以上、佐藤氏が知っていてもおかしくはない。

 でも。


「鈴木さんは佐藤さんのことを、『十年過ぎてもまだ未練があるのか』と話していました。『察する』ということを親のかたき以上に忌み嫌っていて、『お聞通ききどおし』なんて言葉も知っていた。何よりも、本当に助けて欲しい時はちゃんと声に出せと言いましたよね。伯母も同じことを小さな頃の僕に話しています。それ以外にもたくさん、佐藤さんは僕にヒントを与えていた。佐藤さんは」


 僕は一呼吸置いて、続ける。


「僕に気付いて欲しかったんですね」


 僕たちはお互いの目を見ている。逸らしたら負けだとでも言うように。


「伯母という心残りを断つために」


 貴方の伯母様のことなど存じませんよと、はぐらかされない確信があった。佐藤氏はいつだって、僕に対して嘘をついたり誤魔化したりしなかったから。誠実であろうとするその姿勢もまた、伯母と同じだった。


「今向き合わなければ後悔すると思ったら、決して逃がしてはいけないと言ったのは佐藤さんですよ。僕にとって、今がその時です」


 そのために僕は、完全に杭を打たないままでいたのだ。佐藤氏を見付けるために、人との縁が切れかけている状態を保たなくてはならなかった。

 佐藤氏は何も言わない。否定をしないことで答えの代わりにしているように思えた。


「そんな風に思うぐらいなら、どうして伯母から離れたんですか」


 『はい』か『いいえ』では答えられない問いを投げる。佐藤氏は「そうですねぇ」と少しだけ考えてから答えた。


「何故私が『察する』ことが嫌いなのか、その理由をいくつか述べたと思いますが、単純にして最大の理由があります」


 佐藤氏は首を軽く傾げながら言った。


「『察する』というのは、大変疲れるのですよ。相手の細かな変化を読み取り、分析した上で望む言葉や行動を返す。非常な集中力を要しますし、精神力も使います」


 佐藤氏は、わざとらしく溜息をいた。


「喜んでもらいたい、嬉しい顔を見たい。そういった気持ちから相手の考えや想いを何とか汲もうと『察する』ことに注力する訳ですが、その相手が自分と全く同じことをしていたとしたら、どのようことが起きると思いますか」


 言われて、僕は考える。


「……いいことも悪いことも全部肯定してしまう、とか」

「ハズレです」


 佐藤氏は、両手の人差し指でバツ印を作る。


「答えは『何も出来なくなる』です」


 何かを思い出したのか、佐藤氏の目が少し細くなる。


「自分がこうすれば相手はこう来るので、そうしたら自分はこれをしよう。そんな風にひとつのルートだけを考えていられるならまだ良かったのですが、相手も自分と同じだけ察する能力に長けているとすれば、『もしかしたらこう来るかもしれない』と別のルートについても考えなくてはなりません。何故なら、


 佐藤氏は『居合のような察し合い』と言ったけれど、居合は鞘の中にまだ刀がある状態で相手と向かい合う。この人たちにとって『刀』とは言葉であり態度だ。外に出た瞬間に相手の反応が決することになる。


「不思議な話ですが、ひたすら読み合っていくとある時点で何が最良なのか、お互いに分からなくなるのですよ。どんな言葉を掛ければ良いのか、どんな反応を示せば正解なのか、見えなくなるんです。そうなると、全てにおいて何も言えないし何も出来なくなります。一度試して下さい。恐らく貴方もそうなります」

「遠慮しておきます」


 そもそも、そんな察する能力があるならTとの関係もこじれたりしなかっただろう。


「互いが互いのことを考えているのに、考えすぎて何も出来ないなんて変な話です。そういう状態が心苦しく、居たたまれなかったのでしょうね。何より自分という存在がいるだけで相手を疲弊させている。これが何故離れたのかという質問の答えです」


 佐藤氏の口から明確な伯母への想いというものは出て来ないけれど、そこら辺にあるありふれた言葉以上のものが話す内容のあちらこちらに散らばっているように感じた。もうこれ以上聞くのも悪い気がしたけれど、僕はもう少しだけ突っ込んだ質問をする。


「佐藤さんが聞き耳屋という仕事に就いたのは、そういう理由で伯母との縁が切れたからですか」


 そうだとしたら、佐藤氏が繋がっていたかったのは伯母だけで、後は何も要らなかったということを意味している。佐藤氏はコーヒーをくいと飲み干すと、言った。


「実を言うと、その後私たちはどちらも聞き耳屋にスカウトされたのです。私が貴方に声を掛けたのと同じように」

「伯母もですか」


 佐藤氏は「はい」と返事をした。伯母が聞き耳屋だったらと想像したことはあったけれど、まさか声を掛けられていたとは。


「結果、私はその場で返事をしましたが、彼女はなりませんでした。貴方がいたからです」


 僕は目をしばたたく。


「ご家族を亡くされた貴方の存在が彼女にとっての杭になったと言えば、貴方は負担を感じるかもしれませんね。でも私はそれで良かったと思っています。彼女は私と違ってとても優しい人だったでしょう?」


 佐藤さんもそうですよと思いつつ、僕は「はい」と答える。

 必要以上に憐れむことをせず、困った時には手を差し伸べて多くの言葉を与えてくれた二人は、化け物どころか僕にとっては誰よりも人間らしい人間だった。


「私が『貴方の伯母様は幸せだったと思いますか』と尋ねたこと、覚えていますか」

「はい」

「貴方はあの時答えませんでしたが、私は幸せだったと思っていますよ」


 ふわりと笑った佐藤氏は、これまでに見たことのない柔らかな表情をしていた。


「最期がひとりじゃなくて良かった。とてもそんなことを言える立場ではありませんが、礼を言います」


 ありがとう。


 そう言うと心残りが無くなったのか、佐藤氏はすっきりした顔をしてノートパソコンを鞄にしまい、トレイを手に席を立とうとしたところで僕を見た。


「で、どうしますか」

「何がです」

「スカウトの話です」


 聞き耳屋としての素質を買われ、この店で名刺を渡されたのだ。膨大な情報をカードに他人の声を集めていく聞き耳屋という仕事はとても興味深かった。

 でも。

 僕はゆっくりと口を開く。多分これが、佐藤氏と交わす最後の会話になる。


「申し訳ありませんが、お断りさせて下さい」


 僕はこの先も、Tとつまらないことで笑ったり、些細なことで喧嘩をしたり、仲直りしたりして、また一緒に生きる未来を選ぶ。


「起きてしまった過去は変えられないけれど、僕とTが出会ったことは誤りじゃなかったと伯母に胸を張って言えるようにしてくれて、ありがとうございました」


 僕は泣かないように、精一杯奥歯を噛み締めて笑った。


「大したことは何もしていませんが、誰かにお礼を言ってもらえるのは嬉しいものですね」


 佐藤氏はいつもの口調でそう言うと「それでは私はここで」と、トレイを手に出口へ向かう。

 自動扉が開き、振り返ることなく佐藤氏が外へ出た。

 ガラス張りの窓の向こうに急いで目を向けたけれど、まばたきをひとつした次の瞬間、佐藤氏の姿は僕にはもう見えなくなっていた。


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