第3話 満月
少し間があって、「弘樹には矢谷コーチ以外に先生がいるの?」と英子と聞いた。
弘樹は怯えた顔をして、「父さんが離婚する前は道場に住んでいました」と何か秘密を告白するように言った。
「住み込みの弟子として?」と英子。
弘樹はうなずいた。
「すごいわね。何の道場なの?」と英子。
「古武術の一種です」と弘樹。
「今も続けているの?」と英子。
弘樹は首を振った。「ぼくは武道が好きじゃないから。」
「だから試合には出ないの?」と英子。
「うん。それに父さんが出てはダメだって」と弘樹。
「せっかく稽古しているのに、なんだかもったいないわね」と英子。
「ぼく、もう稽古なんてしたくない」と弘樹。
「弘樹はもしクラブをやめたら、何をしたいの?」と英子。
「母さんに会いに行きたい」と弘樹。
「どこにいるか知っているの?」と英子。
「再婚して、夫の家に住んでいます」と弘樹。
「それならクラブをやめなくても会いに行けるでしょ?」と英子。
「父さんが会いに行ってはダメだって」と弘樹。「母さんが迷惑するから。」
「そうなの。残念ね」と英子。「お母さんとはどれくらいあっていないの?」
「三年くらい」と弘樹。
「かわいそうね」と英子が言いかけて弘樹に目を向けると、月明かりで弘樹の顔の輪郭がくっきりと見えた。両目から涙をあふれさせている。英子は思わず弘樹の肩に掌をのせた。その瞬間、英子の胸に得体のしれないマグマのような熱の塊が湧き上がってくるのを感じた。思わず弘樹の体を抱き寄せ、自分の胸に顔を押し付けた。
体が一気に熱くなった。このままでは自分を押さえられなくなると感じた英子はおもむろに立ち上がり、さらに弘樹の腕をつかんで引っ張り、立ち上がらせた。
「もう遅いから、宿に戻りましょう」と英子はかろうじて平静を装って言った。
この真夜中に、弘樹をこのまま公園に残して、自分だけ宿に帰ることはできない。英子は弘樹の手を引いて歩きだした。だが胸のマグマの熱が収まらない。何かを話していなければ、正気を失ってまた弘樹を抱きかかえてしまいそうだった。
「明日の午後はプールに行くの?」と英子が言った。トレーニングの予定は市営プールでの水泳だった。
弘樹は首を横に振った。
「なぜ?」と英子。
「日向が苦手だから」と弘樹。
「私もプールに行かないつもりなの」と英子。「一緒に自主トレしない?」
弘樹はうなずいた。
「ふもとの商店街で洋菓子屋さんを見つけたの」と英子。「ケーキを買ってくるから一緒に食べましょう。」
「うん」と弘樹はうれしそうにうなずいた。
男子の部屋は一階で、女子の部屋は二階にあった。英子はロビーで弘樹に「おやすみ」と言って別れた。
英子は部屋に戻って自分の敷布団の上に仰向けになった。熱が冷めてくると、頭の中が妙にすっきりしていた。自分のレスリングへの未練がくだらないものだ、とはっきりと分かった。そして、このクラブでの活動もどうでもよいことだと気が付いた。だから、せめて自分の気持ちに正直になりたいと思った。たとえその結果、自分に何も残らなかったとしても。
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