第96話 ピアノ

 週末の昼下がり、食堂のアップライトピアノで弘樹は弘美にピアノを教えていた。誰かが食堂に入ってきた。冴子と緑、そして広瀬だった。


「ピアノの音がしたから、見に来たの」と冴子。「そこの御嬢さんが弾いていらしたの?」


「はい。弘樹お兄さんに習っているの」と弘美。


「え?」と冴子。「弘樹君がピアノを教えているの?」


「はい、毎週末に教えてもらってます」と弘美。


「弘樹君ってピアノが弾けたの?」と冴子。


「まあ一応」と弘樹。


「弘樹お兄さんはプロのピアニストのレベルです」と弘美。


「なぜ今まで弾いてくれなかったの?」と冴子。


「みんなピアノの音が好きじゃないから」と弘樹。


「そうなの」と冴子。「とてもきれいな演奏だったわ。ここで聴いていてもいいかしら。」


「どうぞ」と弘樹。


「この方は?」と弘美。


「朱良姉さんの友達だよ。病気療養のためにここに滞在してるんだ。藤堂冴子さんだよ。それから付添いの緑さんと広瀬先生」と弘美。


「こんにちは」と冴子。「レッスンの邪魔をしてごめんなさい。」


「いいえ、いいんです」と弘美。「初めまして、川島弘美といいます」と頭を下げた。


「弘樹君のこと、お兄さんって呼んでたけど、妹さんじゃないわよね」と冴子。


「絵里の友達なんだ」と弘樹。


「それでお兄さんか」と冴子。「でも、友達のお兄さんにピアノを習うなんて、普通じゃないわ。ひょっとして、お付き合いしてるの?」と弘美の目を見た。


「わたし、弘樹お兄さんの婚約者です」と弘美は冴子の目をまっすぐ見て言った。


「そうなの」と冴子。「こんなかわいい婚約者がいるなんて、弘樹君は幸せ者ね。」


「ええ」と弘樹。


「ちょっと残念だわ」と冴子。「弘樹君に興味あったから。」


 弘美が泣きそうな顔になって弘樹の腕をつかんだ。


「冗談よ。ごめんなさい」と冴子。「ちょっと退屈してたの。もう邪魔しないわ。レッスンを続けてちょうだい。」



 弘美の練習が終わって、冴子が話しかけた。


「弘樹君、すごいわね」と冴子。「びっくりしたわ。」


「そうでしょうか」と弘樹。


「どこで誰に習ったの?」と冴子。


「母にならったんです。子供の頃」と弘樹。


「弘樹お兄さんの母親は、宮崎ナナというピアニストなんです」と弘美。


「その名前、知ってるわ。プロレスラーと駆け落ちしたっていう」と冴子。「ひょっとして、あなたのお父さんの和也さんってマッスルタイガーなの?」


「ええ」と弘樹。


「あら、それでお母さんは今どうしておられるの?」と冴子。


「父と離婚して、再婚しています」と弘樹。


「そういえば、令子さんを紹介していただいたわ」と冴子。「そうだったの。」


「ねえ弘樹君、私、バイオリンを持ってきてるの。一緒に演奏してもらえないかしら」と冴子。


「いいですよ」と弘樹。


「待ってて、すぐ持ってくるわ」と冴子。


 冴子のバイオリンの腕はかなりのものだった。弘樹が即興でピアノで伴奏をした。


「バイオリンの演奏がこんなに楽しいなんて、初めてだわ」と冴子。「毎日お願いしたいわ。」


「毎日なんて無理ですよ」と弘樹。


「冗談よ」と冴子。「ここの人たちは格闘技の話ばかりだから、退屈しちゃうのよ。」


「本当にそうよ」と弘美を迎えに来た絵里が言った。「その上、汗臭くて野蛮でうんざりしちゃうわ。」


「うれしい!分かってくれる人がいたわ!」と冴子。


「明日、ホールでバンドの練習をするんです。よかったら見に来てください。」と絵里。


「え、バンドしてるの!」と冴子。「いくわ!どんなバンドなの?」


「弘美ちゃんと私と、それから友達の早苗と亜紀の四人と弘樹兄さんで組んでるんです」とエリ。「鬼百合っていうバンド名で」


「弘樹君も入ってるの?」と冴子。


「弘美ちゃんのボディーガードです」と絵里。「弘美ちゃんはかわいいから襲われないように。」


「そうなの」と冴子。「見に行くわ。私、本当はクラシックよりロックの方が好きなのよ。」

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