第2話 弘樹

 弘樹は無言で英子の顔を見つめていた。


「隣に座ってもいい?」と英子。


 弘樹はコクリと頷いた。英子は弘樹の隣に座った。かたい板材が尻にあたるのを感じた。右横に見た弘樹の顔に涙の跡があった。


「弘樹、泣いてたの?」と英子。


 弘樹はまたコクリと頷いた。


「稽古がつらいから?」と英子。


 弘樹が今度は首を横に振った。


「ではなぜ?」と普段の英子とはちがう優しい声で言った。


「母さんに会いたい」と弘樹がささやくような声で言った。


「お母さんって、コーチの?」と英子は言いかけて、矢谷英子と弘樹は義理の母子だと思い出した。


「お母さんには会えないの?」と英子は言い直して弘樹を見た。


 弘樹はまたコクリと頷いてうつむいた。


「そう、残念ね」と英子が言ってしばらく間があいた。家庭の事情を詮索するわけにはいかない。英子は話題を変えた。「稽古は好き?」


 弘樹は首を振った。


「なぜ?」と英子。


「道着が臭いから」と弘樹。


「そうね。特に夏場は気になるわね」と英子。「レスリングなら短パンとTシャツでトレーニングできるのにね。」

 

 弘樹がうなずいた。


「合宿は楽しい?」と英子。


 弘樹は首を振った。


「何で合宿に来たの?」と英子。


「お母さんが来なさいって」と弘樹。


「コーチのほうのお母さん?」と英子。


 弘樹がうなずいた。


「コーチがお母さんだなんて、ちょっと同情するわ」と英子。


 弘樹は少し笑った。「安達先輩は合宿、楽しいですか?」


「最近やる気が出ないの。だから、この部活をやめようと思ってるのよ」と英子。


 弘樹は顔を上げて英子の顔を見た。


 英子は、弘樹が寂しそうな顔をしたことに驚いた。「冗談よ。」


 弘樹はまたうつむいた。「安達先輩はなぜこのクラブに入ったんですか?」


「わたし、中学二年の時にひざを痛めたのよ。全国大会を目指していたの。それからオリンピックに出るんだっていう夢があった。だけどケガで大会に出られなくなって、推薦入試を受けられなくなって、それでレスリングをあきらめようと思ってたの」と英子。「そんなときに、矢谷コーチにスカウトされて入部を決めたのよ。」


 弘樹は顔を上げて英子の顔を見た。


「稽古は楽しくて続けてきたけど、この頃、何のためにこのクラブにいるんだろうって思うようになってきたの。中学生の頃のレスリングの仲間やライバルだった人たちが、全国の大会や国際大会で活躍しているわ」と英子。


「安達先輩はレスリングが好きなんですか?」と弘樹。


「わからないわ。中学生の時は夢中で練習していたけど、なぜだったのかしら」と英子。「大会で賞を取るのが楽しかったせいかもしれないわ。」


「先輩は先月の柔道の試合で準優勝でした」と弘樹。


「そうね」と英子。「だけど、正直、そんなにうれしくなかったわ。わたし、柔道家じゃないから。」


「中学生のときのレスリングの先生に相談をしないのですか?」と弘樹。


「以前、わたしが総合格闘技のクラブに入ると言ったら、軽蔑されたわ」と英子。「だから今更、レスリングの道場に戻りたいとは思わないの。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異能者は一人で眠らない G3M @G3M

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ