第34話 蝦夷の戦い
●源頼俊
治暦3年(1067年)、陸奥守に任ぜられる。頼俊は、同族である源義家とライバル関係にあった。『百錬抄』康平7年3月29日条によれば、治暦3年には、源頼義の伊予守任了に際し、同国に抑留されていた安倍宗任と安倍家任の2人が陸奥国への帰国の願いを断たれ、大宰府に再移配されている(安倍正任と安倍則任は陸奥国への帰国が叶ったか)。頼義は安倍氏嫡流である宗任を傀儡として利用する野心があったとされ、大宰府への再移配によってそれが水泡に帰してしまったが、それと同時に頼俊が陸奥守に任じられたのは、単なる偶然ではなく、頼義や義家の奥羽への野心を朝廷に警戒されたと考えられる。頼俊は奥羽の住人に対する態度や振る舞いは頼義・義家親子とはかなり異なっており、陸奥守としても鎮守府将軍の武則との関係も融和的だった。また、頼俊は清原氏と海道平氏をとりわけ重く用い、それゆえ共に国守の下で国府や鎮守府在庁官人を統率・指揮する両氏は互いに政治的結束を高めた。
延久2年(1070年)、後三条天皇の勅により蝦夷征伐に赴き、清原貞衡(清原真衡とする説、清原武貞とする説、清原武則の弟とする説、海道平氏出身で武貞の娘婿とする説などがある)の助勢によって蝦夷らの支配する津軽、下北半島のあたりまで征伐を行った。その間、延久2年(1070年)12月26日に記された頼俊の解状によれば、陸奥国南部に領地のあった散位藤原基通などの梟悪之者が官物や公事を拒否した上、国印と国倉の鍵を奪うという事件が発生した。この折、朝廷の命により下野守に任ぜられた源義家の助勢によって、この争いを平定しているという事件まで起きている。
基通は義家の意を受けて頼俊が陸奥に勢力を伸ばすのを妨害するために事件を起したとも見られている。ちなみに、同じ解状には「
この戦では頼俊はさしたる恩賞を受けなかったが、その軍事力のほとんどを頼んでいた貞衡は鎮守府将軍従五位下に叙せられ、武則以来の清原氏による鎮守府将軍職への就任を果たしている。帰京した後の頼俊は京武者として活動し、承暦3年(1079年)の延暦寺衆徒による強訴入京に際しては「前陸奥守」として源頼綱(多田源氏)や源仲宗(信濃源氏)、平正衡(伊勢平氏)などと共に防禦の任にあたったほか、永保元年(1081年)には御所への直訴により濫妨しようとした園城寺の僧徒らを朝廷の命により捕らえるという武功も上げている。
その後の応徳3年(1086年)に頼俊が延久蝦夷合戦での恩賞を求めて記したとされる前陸奥守源頼俊申文写には「前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言、 …依 綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国●●●散位惟房朝臣、 条条之勤不恥先蹤者也…」と記してあり、延久蝦夷合戦において豊島常家らの活躍があったことも記している。
1070年(延久2年)、後三条天皇の改革の一環として、陸奥守・源頼俊は蝦夷を討伐する命を受け、兵を率いて陸奥国府を発ちました。遠征には清原貞衡も加わり、二人の将が連携して北上し、蝦夷の地へと進軍していきました。
遠征開始と戦いの序章
深い森や険しい山々が続く北の地に足を踏み入れ、蝦夷の部族が抵抗する中、源頼俊と清原貞衡の軍勢は着実に進軍を続けました。蝦夷の兵たちは知略に長け、巧妙に地形を利用したゲリラ戦法を取っており、頼俊の軍に打撃を与えましたが、それでも精鋭を揃えた源氏と清原氏の軍勢はその都度打ち破っていきます。
藤原基通の裏切りと混乱
遠征の途上、突然の知らせが頼俊のもとに届きます。藤原基通が国司の印と国正倉の鍵を奪い、行方をくらましたというのです。この事件により、頼俊の遠征軍は一時混乱に陥りました。彼の指揮下にいた兵たちは疑心暗鬼に駆られ、士気が下がりかけます。
そこへ清原貞衡が一喝し、頼俊と共に兵たちを奮い立たせました。「この地での勝利は、大内裏の再建と朝廷の平和に通ずる。ここで退いてはならぬ」と叫び、再び蝦夷の地へと進軍する体制を整えました。
激戦の頂点
進軍を続ける頼俊の軍は、ついに蝦夷軍の主力部隊と対峙することとなりました。敵は山頂から弓矢の雨を降らせ、岩石を転がしながら迫りくる。頼俊は騎馬隊を先頭に出し、盾をかざしながら進むよう命じました。槍を構えた兵士たちが勇ましく進み、接近戦が展開されます。
数百の刃が交差し、叫び声が山々に響き渡ります。血の匂いが漂う中、頼俊と清原貞衡は敵の包囲を破るべく奮闘しました。頼俊の刀が次々と敵を斬り倒し、貞衡の槍が蝦夷の兵士を突き崩していきます。両者の息の合った連携によって、蝦夷軍は次第に追い詰められていきます。
都からの伝令と苦渋の撤退
勝利の余韻が戦場に漂う中、頼俊のもとに息を切らした伝令が到着しました。都からの命令は、なんと「直ちに撤退せよ」というものでした。伝令はさらに、藤原基通が国司の印と国正倉の鍵を持って都へ投降し、朝廷が頼俊の遠征を中止するよう決定したと伝えました。
この突然の命令に頼俊は激しい失望を感じました。自らの武勲が都の事情で評価されず、勝利の代償として兵たちを撤退させる命を下さなければならない無念さが彼の胸に去来します。それでも頼俊は命令に従うことを選び、兵たちに撤退準備を指示しました。
清原貞衡もまた、戦いを終わらせたばかりで撤退命令に動揺を隠せませんでしたが、頼俊の決断を尊重し、自らも率先して兵たちの撤収を助けました。こうして、勝利の直後にもかかわらず、彼らは再び戦場を後にすることとなりました。
敵の追撃と壮絶な撤退戦
撤退を始めた途端、蝦夷軍の残党が執念深く追撃を始めました。山中に潜んでいた伏兵が再び姿を現し、退却する頼俊軍に攻撃を仕掛けます。頼俊は冷静に指揮を取り、弓兵を後方に配置して敵の追撃を防ぎながら、兵たちが整然と退くように指示しました。貞衡もまた槍を構え、先陣に立って勇敢に敵を防ぎ、撤退の途上で傷つき倒れそうになる兵士たちを支えます。
その道中では次々と矢が飛び交い、崖の上から岩が転がり落ちてきました。蝦夷側は追撃の手を緩めることなく執拗に攻撃を仕掛けてきましたが、頼俊と貞衡は息の合った連携で兵を守りながら撤退を続けました。幾度も苦境に立たされつつも、ついに国府への退却に成功し、彼らの軍は無事に戦地を離れることができました。
都への帰還と戦後の冷遇
陸奥国府に戻った頼俊は、朝廷へ戦果を報告するべく手紙をしたためました。自らの軍が蝦夷を打ち破ったこと、そして撤退を命じられたことに従い無事帰還したことを伝えたものの、朝廷からの反応は冷淡でした。藤原基通の事件の影響で、頼俊の戦功はほとんど評価されることなく、陸奥での謹慎を命じられてしまいました。
一方、共に戦った清原貞衡には、鎮守府将軍の称号が与えられ、功績が認められる形となりました。頼俊はその結果に表向きは不満を見せず、あくまで謙虚に振る舞いましたが、その胸中には悔しさと失意が渦巻いていました。
戦士たちの誇りと静かな余韻
頼俊と貞衡が示した勇猛さは、彼らの兵たちに深い誇りをもたらしました。激しい戦闘の中で得た勝利の記憶、そして撤退戦で仲間を守り抜いた頼俊の指揮力は、彼らにとって何よりの勲章となりました。
この戦いの記憶は、頼俊の心に深く刻まれ、朝廷からの冷遇にも屈することなく、彼は一武士として己の誇りを守り続けたのです。
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