第9話 特別になる
『そうそう。けっこう名器だと思うわ。顔の割にね』
『いやいや、かわいいじゃないっすか』
ひとつめは、かれしのこえ。
ふたつめは、かれしとなかのいいこうはいのこえ。
『そうっすよ。べた惚れのくせに』
またひとつ、あたらしいこえだ。
『まあ、付き合うならあれくらいがいいなって思ってる。かわいすぎず、ブスすぎず。それなら浮気もされないし、程よく付き合えるし。大好きだよ』
『そういう意味では、ってか。まあ、結局そういうとこあるよな』
これは男子同士ではよくあるノリなのかもしれない。私たちで言う、彼氏えっちだけは下手なんだよねーとか、そんなやつ。
彼氏とは時間割を共有しているから、この時間に私に会うことはないって知っている。本人に聞かせないようにっていう配慮は、していて。
心臓の音がうるさい。耳の内側すぐそこにあるかのようだ。
誰かが私の手首を掴む。そのまま引っ張られて、階段を下りていった。サークル棟を出て、学食とは逆方向に連れて行かれる。急な坂を下り、地下鉄の駅の横を通り、静かな広場にたどり着く。整備された花壇と等間隔に並んだベンチ。就活のイベントで時々使われているホールがあるだけの場所だからか、今はひと気はなかった。
結愛ちゃんが私の手首を離す。
「ごめん、あれ聞かせないようにしてくれたんだよね」
結愛ちゃんに掴まれていた部分を無意識に撫でながら言う。
「すみません。私がもっと別の言い方をできていれば」
「結愛ちゃんが謝る必要ないよ。悪いのは……ううん」
口内にたまった唾を飲み下す。
「誰も悪くないよね。だってあれくらい普通のノリだよね。裏ではみんなそんな話してるだろうし」
声が震えている。それはわかっていたけれど、言葉を止めるという選択肢を私は取れそうになかった。
「結局付き合うっていうのも、お互いどこかで妥協とか、あるし。こんな普通な私でも、好きだって言ってくれたし、彼は……」
さっきの会話が頭の中で回る。下品な笑い声が聞こえる。そんな感じとは、どういう感じなのか。名器ってなんだ。かわいすぎず、ブスすぎず。うん、それでこそミミズな私だ。
「もしかしたらあの場のノリで言いたくないこと言ったとかも、あるかもだよね。誰とでも仲良くできる人だから」
「ごめんなさい」
結愛ちゃんが言う。
それから、抱きしめられた。
温かな体温が伝わってくる。抱きしめ方はとても優しくて、柔らかくて、こらえていた涙が溢れる。
「たとえあれがよくあるノリだったとしても、嫌だと思うのは変じゃありません」
口を開けば嗚咽が漏れそうだから、私は結愛ちゃんの胸の中で頷く。結愛ちゃんは私の背中を優しく撫でてくれた。その仕草には優しさ以外の感情はこもっていなかった。それだけでできていた。辛い人間に寄り添う、ただそれだけ。打算も何もない。
それがありがたくて、でもどこか後ろめたくて。さっきの言葉が悲しくて、苦しくて。ぐちゃぐちゃな感情が涙に変わり続ける。
「わかっ……てる、いちばん」
話すまいと思っていたはずが、気づけば口を開いている。
愛されていることも、溺愛されてはいないことも。本当はわかっている。人間は一面だけでは語れない。彼氏だって、私だって、結愛ちゃんだって。
「でも、いきなり……は、ちょっと」
結愛ちゃんは聞いている。私の声を、しっかりと。背中の手は、まだ優しく動いている。
私には酷い言葉を言わないとわかっている人の前で、弱音を吐く。狡い人間だ。そんな風に、ふと思った。
「私は。私は、普通な美緒さんだからこそ、好きです」
結愛ちゃんが言う。
あの時と同じセリフなのに、こうも聞こえ方が違うのはなぜだろう。どうして結愛ちゃんは、私が言おうとしたマイナスを、先にプラスに変えるのだろう。
美人で、綺麗で、モデルみたいで、芸能人みたいで。サークルのマドンナのような、高嶺の花のような。真面目で、まっすぐで、でも、かわいいところもあって。
頬を涙が伝っていく。一部が結愛ちゃんの服に染みていく。
「ミミズな、私でも……特別に、なれるかな……」
私の嗚咽の隙間に結愛ちゃんの穏やかな心音がはまっていく。
「結愛ちゃんが、好きに、なってくれた……から……」
それは何かの終わりなのだろうか。それとも何かの始まりなのだろうか。
それに答えるように私と結愛ちゃんの周りを青い青い風が吹き抜けていった。
緒を結ぶ 燦々東里 @iriacvc64
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