南海魔境

まさきひろ

まえがき

「月が美しければ美しいほどまつ白にかゞやくクァラ・ラムプールの屋並を見おろしながら、そのころの私は毎夜のやうに筆を執つてゐた。當時、最前線はゲマス附近にあり、わが報道班本部もそれに従つて前進してゐたのであるが、あひにく私などが属する資料版はその任務の性質上、占領後まもないクァラ・ラムプールを離れられなかったのである。

 すなはちここから、ペンによる砲弾が絶えず前線におくられてゐた。これが、私の武器、私の戦ひであったのである。」(小栗虫太郎『南征雑稿』(『マライの土 作家部隊随筆集』新紀元社、1943年、p43〜44)


 と小栗虫太郎は書いています。しかし、小栗の上官にあたる大久保弘一中佐の肩書は「馬来マレー派遣軍宣傳班長」(同 p3)です。

 小栗虫太郎に限らずマレー派遣軍には宣伝班と報道班の混乱が多く見受けられます、井伏鱒二は「『キナバルの民』の作者のこと」というエッセイの中で、「私は陸軍徴用で堺君たちとマレーに派遣され、宣伝班員としてシンガポールに住んでいた。」(堺誠一郎『キナバルの民 北ボルネオ紀行』、中央公論社、1977年、p115)と書いています。ひょっとすると、途中で報道班から宣伝班に名称が変わったのか? あるいは、「クアランプールの宣傳班では、海音寺潮五郎、小栗虫太郎の二人なぞ、宣傳ビラ一枚書かなかつたと本人たちは云つていた。」(北川冬彦『悪夢 小説』、地平社、1947年、p20)、「園は帰りにトラックに便乗してコーランポ(クアラ・ランプール)の宣伝班を訪ねた。海音寺と塚本と小栗がいたが、誰も何もしないで退屈しきっていた。」(寺崎浩『戦争の横顔 陸軍報道班員記』、太平出版社、1974年、p116)とあることから、宣伝班らしい仕事ができなかったのでわざと「報道班」と書いたのかも知れません(井伏の記述もその可能性はあります)。


 『南海魔境』は、元々実写伝記映画の企画としてスタートしました。その主人公は太平洋戦争中、陸軍宣伝班の一員としてインドネシアのジャワ島に派遣されます。この部隊は、ナチスドイツのPK隊(宣伝中隊)を真似て組織された部隊で、東南アジア各国に派遣されました。

 従来の報道班と大きく異なるのは、主任務が内地向けの報道ではなく、現地の人たちへの日本文化浸透だったこと、そして兵士として軍事訓練を受けさせられたことです。

 そのメンバーは文化人で編成されています。選考にあたっては、担当者(たとえばジャワ部隊なら大宅壮一や陸軍画報社社長中山正男、宣伝班長の町田敬二中佐)の推薦によるものです。

 主なメンバーは、

(第二十五班、マレー)中島健蔵、寺崎浩、宮本三郎、栗原信、海音寺潮五郎、中村地平、大村清、神保光太郎、里村欣三、北川冬彦、小栗虫太郎

(第十五班、ビルマ)高見順、清水幾太郎、小田敏夫、井伏鱒二、榊山潤、豊田三郎、山本和夫、岩崎榮、北村透馬、倉島竹二郎

(第十四班、フィリピン)尾崎士郎、三木清、今日出海、向井潤吉、石坂洋次郎、火野葦平、上田広、柴田賢次郎、沢村勉

(第十六班、ジャワ)大宅壮一、武田麟太郎、浅野晃、阿部知二、富澤有為男、北原武夫、清水宣雄、大木惇夫、佐々木英雄、城取春生、河野鷹思、大智浩、石本統吉、倉田文人、飯田信夫、郡司次郎正、大江賢次、小野佐世男


 しかしその映画が頓挫し、改めてノンフィクション小説にしようと考え、エージェントさんを通じて出版を模索したのですが、実らず、今回、小栗虫太郎風のSF冒険小説の形で書くことにしました。


 日本軍のプロパガンダ部隊の話なんて、それこそ大日本帝国を讃美する歴史修正主義プロパガンダではないか、と思われそうですが、他の地区と違ってジャワ島の宣伝班には興味深い点があります。戦闘があっという間に集結したこと、指揮官が放任主義を取ったこと、インドネシア人の抵抗が少なかったことなどから、宣伝班員たちはインドネシアに魅せられ、結果的にインドネシアの独立を後押ししたことです。たとえば、帰国した武田麟太郎らの働きかけで、小磯内閣は戦時中でありながら帝国議会においてインドネシアの将来的独立を約束しました。また、日本の敗戦後、宣伝版の通訳だった市来龍夫はアブドゥル・ラーマンとしてインドネシア独立運動に参加し戦死しています。


 なお、登場人物たちは現代の価値観でなく、当時の価値観に従って行動します。現代ならば、戦争反対があたりまえですが、当時の日本国民には、そんなあたりまえのことを主張するのも難しいことでした。しかしながら、主人公は軍国主義者でもファシストでもありません。リベラルな知識人。これは清沢洌の『暗黒日記』を参考にしました。


 膨大な参考文献に関しては、連載終了時にまとめて記します。



                       まさきひろ 2024年9月30日

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