名探偵日色秀太郎がドイツ人医師から小型原人オラン・ペンデクの話を聞くの巻

   7、常夏の楽園


 ここは天国か?

 陽光がカンカン照りつけ、鬱蒼とした森の緑が映える。椰子の木の枝の上をちょこちょこと栗鼠リスが走り回り、さぎがキーキー鳴き喚く。そして、微睡むような波の音。南洋の自然は、妻の民江に付き合って見に行った日劇の李香蘭ショーで上映された「蘭印探訪記」という記録映画で見たことはあったが、今こうして、生で視る総天然色の景色は、印象派の油絵のように色鮮やかなものだった。

 ここはジャワ島バンタム(現・バンテン)の、メラク海岸から東へ二十キロの地点にある、ラグサウーランという部落デッサで、陸軍第十六軍宣伝班の第一次集結地だった。

 日色たちは井戸から水を汲み上げて、頭の天辺から足の爪先まで重油で真っ黒の身体を洗い流し、それが済んだら、着ていたシャツや猿股を脱いで洗濯した。

「いやあ、まいったよ」と言うのは、日色とは東京大学法学部で同期の、詩人・浅野晃あさのあきらだ。「せっかく日本から行李に収めて携えてきた岡倉天心の『東洋の理想』の英原本をバンタム湾のふかの餌にしてしまった」

 浅野はさっきからバナナを何本もたいらげている。悔しさからの自棄食やけぐいだが、浅野は大の甘党でもあった。

 と、そこに、きれいな軍服を着た小太りの宣伝班員がやってきた。男は浅野に気づくと、

「おお、浅野君。生きてたんだね!」

 と声を掛けた。画家の小野佐世男おのさせお(*10)である。

「横山君が無事なのは、回ってきた伝言でわかったんだが、君の消息が知れなくて心配していたよ」

 浅野と小野は武漢のペン部隊で一緒だったという。ペン部隊には他にも、芥川賞作家の冨澤有為男とみさわういお、作曲家の飯田信夫、画家の河野鷹思こうのたかしがいて、全員が集まって再会を喜び合った。

「ところで、我が軍の戦果は?」と浅野が小野に尋ねた。

「歴史的大勝利だよ」と小野はにっこりと笑って言った。「我軍の損失は、君たちが乗っていた佐倉丸の沈没と、あと駆逐艦一隻小破した程度だが、敵艦隊主力は概ね殲滅したそうだ。こんなに早くかたがついたのは過去に例がないって海軍の人が言っていた」(*11)

 離れたところで、清水宣雄が現地の住民相手にマレー語で演説をぶっていた。清水の後ろには、若い日本人青年が二十人ばかり、気をつけの姿勢で並んでいる。

 それを見て、「すごいなあ、清水さんは」と漫画家の横山隆一が驚嘆して言った。「マレー語の勉強は日本を発ってから、たった二ヶ月なのに、もう喋ってる」

 日色が苦笑したのは、清水がマレー語を覚えるのに、狭い船倉で大声で単語を読み上げて、喧しかったからだ。

 ︎︎住民たちは黙っておとなしく聞いている。しかし、本当に言葉が通じているかは謎だ。もしかしたら物珍しげに眺めているだけかもしれない。しかし、言語というものは、通じようが通じまいが、とにかく挫けずに喋り続けないと習得できないーーということは、日色も米国への留学で骨に刻まれた。あの調子なら、あと一ヶ月もすればペラペラになっていることだろう。

 ︎それにしても気になるのは、清水の口吻くちぶり煽動者アジテーターのそれのようで、また後ろに居並ぶ若者たちもヒトラー・ユーゲントのような顔つきをしていることだ。それで日色は、

「清水さんってどういう人ですか?」

 ︎︎と横山に訊いてみた。

 横山は小首を傾げ、「評論家らしいが、よくは知らない。でもい人だよ。上陸する時、僕が足が届かなくて困っていたら、彼と飯田君で担いで降ろしてくれた」




   8、未知の原人


 日色秀太郎はラグサウーランからバンタム州の首都セランへジープで移動していた。同乗者は、陸軍第十五軍宣伝班長の町田敬二まちだけいじ中佐、映画監督の石本統吉いしもととうきち、カメラマンの糸田頼一とその助手でまだ十八歳の菊地周ら。

 オランダ軍の攻撃は皆無だった。日本軍の上陸を知って敗走していたが、逃げる時、日本軍の進軍を遅らそうとダイナマイトで橋梁を破壊していた。そのため、大きな木を切り倒して束にして橋の代わりに架けてあるのだが、銀輪部隊の歩兵たちは自転車を担いで渡らなければならず、それが見ていて気の毒だった。

 椰子の木が並ぶ浜辺は初めて見る異国の景色だったが、このあたりは富士山に似た山や水田があり、日本に似ていた。

 町田中佐は目を閉じると、鼻髭を生やした鼻をくんくんさせて、

「稲の花の匂い……幼年時代に離別した故郷の匂い……太古から日本人にまつわりついている匂いだ」

 と感慨深げに呟いた。

 この町田敬二中佐、陸軍技術本部員だった昭和十年に読売新聞が募集した「満洲国皇帝陛下奉迎歌」に応募して、応募総数一三六五〇編の中から見事当選。それが北原白秋の補作詞でレコード化されて以来、「陸軍技術本部の歌」、「護れ大空」、「入営(団)兵士を送る歌/除隊(団)兵士を迎ふる歌」、「愛国譜」、「誉の軍馬」、「弔魂歌」など数多くの歌を作詞していた。さらに、映画の原作も手掛けていて、新興キネマ配給の『戦線に吠ゆ』は日本最初の軍用犬映画である。陸軍では文化通として知られ、そのために出世が遅れていたのだが、今回宣伝班の創設にあたって、赴任していた中国から呼び戻され宣伝班長に就任した。


 セランは三百年前に栄華を極めた城址や墳墓が残る美しい古都である。

 町に入ると、住民たちが「ヒドゥップ・ニッポン!(日本万歳)」と言いながら迎えてくれて、日色は面食らった。日の丸の旗を振っている女性までいる。

「我々のことを三百年にも及ぶオランダの植民地支配から解放しにきてくれたと思っているんですね」

 ︎︎と、町田中佐が満更でもない顔で言った。

 広場には投降したオランダ兵が集められていた。打ちひしがれた顔ばかりだが、その中に、毅然とした顔付きで人差し指と中指でV字を作って突き出している者がいた。それが何を意味しているのか、アメリカ留学の経験のある日色にはわかっていた。Vは〝victory〟(勝利)のV。不屈のVサインだ。

 負傷した日本兵がいて、糸田がムービー・カメラを向けたら、「撮らなくてもいい」と町田中佐がぴしゃりと言った。町田中佐はそのままジープを降り、先遣隊のところに到着の報告をしに行った。その間、日色は負傷兵の手当をしている衛生兵と話を交わした。

「敵にやられたんですか?」

「ええ、ついさっき敵機が襲来して、低空から機銃掃射を浴びせやがったんです」

 そう言われて、日色は上空を見上げたが、空は美しく晴れ渡り、戦争の気配は微塵もなかった。

 町田中佐が帰ってきた。

「日色さん、お願いがあります」

「何でしょう?」

「宣伝班四、五人ばかり泊まれる家を当たってくれませんか?」

「わかりました」

「我々もですか?」と石本が訊いた。

「いや、石本さんたちには撮影をお願いします」

 石本たちが撮影機材をジープから降ろしている間に、

「そうそう」町田中佐は思い出したように日色に言った。「オランダ兵がまだどこかに潜んでいるかもしれません。くれぐれも注意してください」

 そう言われても、日色は拳銃も軍刀も持ってきていなかった。しかたなく道に落ちていた石を拾い、ポケットに忍ばせた。


 タマリンドの並木が続く美しい街並みは日本の田園調布を思わせる。目星めぼしい家を見つけたら宿舎に使わせてもらえないか頼んでみるが断られてばかり。血気にはやる兵隊なら銃を突きつけて問答無用で接収するのだろうが、日色はそんなことはしない。日本軍を熱烈歓迎してくれたインドネシア人たちの期待を裏切りたくないからだ。

 ︎︎根気強く歩き回っていると、背後で何やら物音がした。

「誰だ!」

 オランダ兵かと身構えて、振り返ったら、そこにいたのは背丈一・五メートルほどの猩猩オラン・ウータンだった。マレー語で「森の人」。腕が異常に長いのは、本来、樹上で生活しているからだ。利口でおとなしい動物とは聞くが、日色が警戒を怠らないでいると、猩猩オラン・ウータンがニッコリ笑った。その笑顔が日色の年老いた祖母に驚くほど瓜二つで、日色が虚をつかれていると、猩猩オラン・ウータンは日色の手を握って、どこかに連れて行こうとする。殺気がまったく感じられなかったので、日色はされるがまま、猩猩オラン・ウータンに随いて行くと、広い庭を持つバンガロー風のお屋敷に着いた。

 屋敷の中から人が出てきた。四十歳くらいの金髪碧眼の白人だった。

「ユーピター、お友達を連れてきたのかい?」

 と白人が英語で聞くと、猩猩オラン・ウータンはウホーウホーとおどけたような声をあげた。

 白人は次に日色に、「どなたです?」と質問した。

「私は日本軍の文官で日色秀太郎と申します。実は宿舎としてお借りできるお宅がないか探しております。人数は四、五人。お貸しいただけると有難いのですが」

「構いませんよ」と白人は快諾してから、「そうそう、私も自己紹介しないといけませんね。アルノルト・ディーアマイアー、医者をしております」

「お国はドイツですか?」

「はい」とディーアマイアーは肯いて、「しかし、三国同盟のよしみでお貸しするわけではありませんよ。というのも、私はナチス党を支持しているわけではない、いえ、むしろ猛反対なんです」

「では、どうして?」

「ユーピターがあなたをこの家に招いたからです。悪い人なら招かない」

 ユーピターが手を叩いて喜んだ。

「ユーピター……もしかして木星ジュピターのドイツ語読みですか?」

「そうです。ジュール・ヴェルヌの『L'Île mystérieuse(神秘島)』に出てくる猩猩オラン・ウータンの召使の名前にちなんで名付けました」


 風呂をいただいてから酒食をふるまわれた。豪勢とはいかないが、久しぶりに文化的な生活ができたことに宣伝班員は大満足だった。

 日色はあらためてディーアマイアーにお礼を言いに行くと、書斎で待つように言われた。書斎の本棚を眺めていたら、医学書に混じって考古学関係の本が並べてあった。G. H. R. von Koenigswald『Neue Pithecanthropus-Funde(ピテカン​​トロプスの新発見)』、Franz Weidenreich『The Mandibles of Sinanthropus Pekinensis(シナントロプス・ペキネンシスの下顎骨)』、『Bulletin of the Raffles Museum Singapore, Straits Settlements(シンガポール・ラッフルズ博物館紀要、海峡植民地)』が数冊、和訳されたアンダーソンの『支那の原始文化』の原書。壁にかかった額縁の中にはDaily Corante紙の「スマトラ島ジャンビ州バッシル・ベンガラヤン村で起きたオラン・ペンデク射殺事件」という見出しの記事の切り抜きが収められていた。その概要は――一九三二年五月、ロカン村の住民が山林地帯で籐採取中に人間とも猿ともつかぬ動物を目撃し、ウィスレー卿に報告した。さっそく捜索隊が組織され現場に向かったところ、母子と見られる二匹の猿人を発見。母親は体長四十二センチ、子供は十二センチほど。捕獲を試みたが、猿のような叫びを上げて逃げだしたので発砲したところ、子供は即死、母親には逃げられてしまった。死体の骨格は人間のそれに似ていたが顔は違う。体毛は灰色に近い黒。肩は厚く、四角くいことなどから、これまでにも数回目撃例のあるオラン・ペンデクではないかと思われる。射殺した子供の死体は標本としてジャワ島のボイテンゾルグ自然科学博物館に送られた。(*12)

「オラン・ペンデク(Orang pendek)とはマレー語で〝短小な人〟という意味です」

 ディーアマイアーの声で日色は我に返った。ディーアマイアーが書斎に入ってきたことに気づかなかった。ディーアマイアーの後ろからユーピターも現れ、ヴィクトリア朝の寝椅子の上に胡坐あぐらをかいた。

「原人にお詳しいようですね」

 と日色が訊くと、

「はい。私はハイデルベルク大学医学部の出身で、ワイデンライヒ教授の下でエーリンクスドルフ出土の頭蓋化石の研究をしていたことがあるんです」

「ワイデンライヒ教授というと――ブラック博士の後任でシナントロプスの研究をされている、あのワイデンライヒ教授ですか?」

「ええ。よくご存知で」

「五年ほど前、東京に講演にお見えになりましたよ」

「そうなんですか」

 かぐわしい珈琲の匂いが漂ってきた。召使がジャワ・コーヒーを淹れてきたのだ。珈琲好きの日色は日本でもジャワコーヒーは飲んでいたが、本場で味わうジャワコーヒーはまた格別の味だった。

「北京原人もジャワ原人も、さらに言えばハイデルベルヒ原人、ビルトダウン原人、ネアンダータール原人、ローデシア原人、クロマニオン人はすべて絶滅した種です。しかし、オラン・ペンデクはそうではない。カブトガニや、三年ほど前に南アフリカで捕獲されたCoelacanth(シーラカンス)同様、〝生きた化石〟なのです。ところで、オラン・ペンデクの最初の目撃報告は一九一〇年のことですが、それ以前にはなかったのか、私なりに調べてみました。すると、みん朝に書かれた『三才図会』という本にこんな記述を見つけました。〝東方に小人国あり、その名を竫という〟。身長は三〇センチほどで、鶴に食べられるので群れて行動している、と。その竫がスマトラかもしれない。なぜ中国人がスマトラのことを知っているのか不思議に思われるかも知れませんが、十三世紀、モンゴル帝国がジャワ、スマトラに侵攻していて、その記録がげん朝を経て明朝に伝わったのではないかと――」

 ディーアマイアーの話は続き、日色は興味深く拝聴した。気付いたら午前零時を回っていた。ユーピターは寝椅子の上でスヤスヤ寝息をたてていた。ディーアマイアーはユーピターを愛しそうに見て、

「どうしてこんなに原人や類人猿に夢中になれるのか、自分でもよくわからなかったのですが、最近になってわかった気がします」

「それは何ですか?」

「第一次世界大戦で多大の犠牲を払ったのにかかわらず、ホモ・サピエンスである我々は愚かにもまた世界大戦を始めてしまった。ねえ、日色さん、人類はほんとうに進化した動物なんですかね?」



                           (つづく)



(*10)長男は映画マンガ評論家の小野耕世氏。

(*11)三月一日午後四時の大本営発表より。しかし、事実とは異なり、佐倉丸の沈没も敵攻撃でなく味方の魚雷によるもの、つまり同士討ちだった。

(*12)香山滋『オラン・ペンデクの復讐』より。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る