死を覚悟しての漂流中、名探偵日色秀太郎は阿部知二、大木惇夫とコナン・ドイルについて熱く語り合うの巻
6、漂流
全員がわれ先にと舷側の梯子を伝って海に飛び込んだ。日色は大木惇夫とともに梯子を降りようとした。その時、誰かが二人の頭を思い切り踏みつけた。
「誰だ!」
見ると、大宅だった。大宅はすまん、と片手を立てると、二人を追い越してさっさと海に飛び込んだ。
「まったく……」
海は温泉のように生ぬるく、どろりとしていて、「まるで小便みたいだ」と詩人の大木は形容した。立ち泳ぎをしながら、遠くで炎上する艦船の赤い火柱を見ていたら、
「船が沈むぞ!」
という声がした。
「巻き込まれる! 逃げましょう!」
︎︎日色と大木は必死に泳いで、船から離れ、浮かんでいた材木につかまった。
︎︎やがて佐倉丸は海に沈み、船から漏れた重油が海面を銀色に染めた。日色たちの方にぷかぷか漂ってくるものがあった。若い兵隊の死体で、肩から先があらぬ方向にねじ曲がっていた。犯罪捜査でいくつもの死体を見てきた日色ではあったが、運が悪ければ自分もこうなっていたかも知れないと思うと、けっして他人事ではなかった。日色は亡くなった兵士の冥福を祈った。
︎戦闘はなおも続いていた。照明弾がいつ落ちてきて重油に引火するかと思うとハラハラした。それにこのあたりは鮫が多いとも聞く。死と隣り合わせの状態で、気が気でなかった。
︎︎どのくらい経ったろうか、砲弾の音がピタと止み、静寂が訪れた。
「終わったのかな?」
「そうみたいだ」
︎︎全員がほっと安堵したところで、
「おーい!」船員が大声をあげた。「助けてくれ! おーい! おーい!」
日色たちも一緒になって叫んだ。
「おーい! おーい!」
しかし、返事はなかった。
「近くに誰もいないのかなあ」
「そんなあ」
「敵の船でもいい。いたら助けてくれ」
︎︎それを聞いて、
「それはならん!」下士官の襟章をつけた兵士が声を荒げた。「生きて
日色は腰に携えた軍刀の束を握りしめた。日本を発つ時、死は覚悟したはずである。しかし、戦って死ぬならよいが、自決して死ぬのは……。
「あゝ かくて 讃えられ 慕われつゝも
しかし、潔く自決することだけが愛国心の発露であろうか? ︎︎昨年の七月一日、興亜奉公日の日であったか、前首相がラジオ放送で、朝鮮で捕虜になり中国で奴隷になった者の愛国心を賞揚したことがあった。屈辱を忍んで虜囚や奴隷になっても愛国心を発揮できると思うのだが……。
それから長い間、日色たちは暗闇の中、波に揉まれ続けた。穏やかな海のせいで余計時間が長く感じられた。
「おしまいだあ」
と誰かが勘念して言った。
日色は天から見放された気がして、恨めしげに夜空を見上げた。すると、煙幕の切れ間に浮かぶ
「俺は死ぬわけにはいかぬ!」
無意識に日色が声に出して言うと、
「そうだ。おしまいなもんか!」と賛同する者があった。「まだ希望があるぞ。時はどこまでも流れて行く。憎しみ浴びた鯨は、小さな金魚が硝子鉢を家とするように、この世界の海原中を泳ぎまはるのだ」(*7)
眼鏡をかけた男性だ。日色はその男性に話しかけた。「いまの引用はメルヴィルの『白鯨』ですよね?」
「そうです」と眼鏡の男性は目を丸くして答えた。「よくご存知で」
「読みましたから。もしかしてあなた、作家の
「はい、あなたは?」
「日色秀太郎と申します。私立探偵をしております」
阿部は日色の顔をまじまじと見つめて、「ひょっとして、ノベル賞物理学者の折智博士邸で起きた連続殺人事件を解決された、あの日色さんですか?」
「はあ」日色ははにかむように答えた。
「いやあ、これはすごい方とお近づきになった。今度機会があったら、ぜひその時のお話をお聞かせください。というのも私、探偵小説が大好きで、若い頃に『アフリカのドイル』(*8)という小説を書いたこともあるんです。サー・アーサー・コナン・ドイルとその次子モーリス――架空の人物です。由来はわかりますよね?――がケープタウンで活躍する話で、他にもソーンダイクという拳闘家が出てきます」
「コナン・ドイルですか!」大木が目を輝かせて話に加わった。「実はドイルの『ゼラールの冒険』(*9)を翻訳したことがあるんですよ」
「ええ、知ってます知ってます」と阿部が言えば、日色も「いつまでも海に浸かっていられないい。早く陸に上がって、お二人の本を読みたい!」
コナン・ドイルで生きる希望が湧いてくるなんて! ︎︎それから三人は舟艇に救助されるまで、コナン・ドイルについて大いに語り合ったのだった。
(つづく)
(*7)ハーマン・メルヴィル/阿部知二・訳「白鯨」 「新世界文学全集 第一巻」(河出書房、昭和十六年)所収 P234
(*8)阿部知二「微風」(創元社、昭和一四年)所収。阿部知二は戦後、シャーロック・ホームズものを多数翻訳する。
(*9)「西洋冒険小説集」(アルス、昭和四年)所収。
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