太平洋戦争が始まり、名探偵日色秀太郎ら宣伝班ジャワ島に向かうの巻

   3、日米開戦


 身体検査の合格後、日色秀太郎は麻布の教育総監第三連隊に入営した。

 バリカンの音が唸り、刈られた髪が日色の足元にばさばさと落ちていく。徴用ではあったが、宣伝隊員は従来の報道班員、いわゆる従軍記者とは違い、兵士としての軍事訓練を受けねばならない――ドイツのP・K隊をならってのことである。

 木枯らしの吹きすさぶ中、軍装し、長刀を腰に差し、グラウンドに整列し、『軍人勅諭』を高く掲げて、全員で読まされた。

ひとつ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。およそ生を我が国にくるものたれかは国に報ゆるの心なかるべき。まして軍人たらん者はこの心のかたからでは物の用に立ち得べすとも思はれず。軍人にして報国の心堅固ならざれば如何いかほど技芸に熟し、学術に長ずるも、なお偶人ぐうじんにひとしかるべし。その隊伍たいごも整い、節制も正しくとも、忠節を存せざる軍隊は事に臨みて烏合うごうしゅうに同じかるべし。そもそも国家を保護し、国権を維持するは兵力にあれば、兵力の消長しょうちょうはこれ国運の盛衰なることをわきまえ、世論に惑わず、政治に拘らず、ただただ一途に己が本分の忠節を守り、義は山岳よりも重く、死は鴻毛こうもうよりもかろしと覚悟せよ。その操を破りて不覚をとり汚名を受くるなかれ」

 人間の生命の重みが鳥の羽根より軽いなんて言われると絶望的な気分になる。しかし、軍隊という組織においては、最優先は作戦遂行で、場合によっては兵士の多大な犠牲も伴うこともあるだろう。指揮官が兵士に命令し、兵士はそれに従うだけ。もし兵士が自分勝手に動いたら戦争にならない。あってはならないことである。おそらくこれは日本に限ったことではなく、万国共通のことだろう。だったら、よかろう、死んでやろう。(*3)。もっとも、死ぬにしても無能な指揮官のために死ぬのだけはどうか御免蒙りたいものだ。


 大日本帝国がアメリカ・イギリスに宣戦布告したのは、そんな訓練の最中であった。

 十二月八日ーー

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」軽やかな鈴の音に続いて、アナウンサーの緊張した声が告げた。「大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態にれり。帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 それは第一報で、詳細は続報で知らされた。

「帝国海軍はハワイ方面のアメリカ艦隊ならびに航空兵力に対し決死の大空襲を敢行し、シンガポールその他をも大爆撃しました。大本営海軍部、今日午後一時発表、一、帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面のアメリカ艦隊並びに航空兵力に対し、決死の大空襲を敢行せり。二、帝国海軍は本八日未明、上海においてイギリス砲艦ペトレル号を撃沈せり。アメリカ砲艦ウェーク号は、同時刻我に降伏せり。三、帝国海軍は本八日未明、シンガポールを爆撃して、大なる戦果を収めたり。四、帝国海軍は本八日早朝、ダバオ、ウェーキ、グアムの敵軍事施設を爆撃せり」

 日色は耳を疑った。アメリカと開戦するなんて! 大変なことになってしまった……。そう思ったのは何も日色だけではなかろう。この奇襲によりアメリカの世論はいっきに参戦に傾くに違いない。それも日本だけでなく、ドイツ、イタリアとも。敗戦濃厚のイギリス、ソ連にとってはまさに願ったり叶ったりである。もっとも、これはイギリスの策略であるのかもしれぬ。というのも、今月になってイギリスは蘭印らんいん(オランダ領東インド)を誘って、日本と友好関係にあるタイ国に攻め入る構えを見せていたからだ。そうやって日本を圧迫すれば、軍部主導の東條内閣はいきり立ち、日米交渉を打ち切って、米英開戦に踏み切るだろう、という計算があったとしてもおかしくない。(*注解1)

 しかし、日色はそうしたことを口に出すことは控えた。というのも、周りにいる人々はこのニュースに、

「よくやった!」

「清国、ロシアに続いて大国アメリカにまでひと泡吹かせた!」

「電撃勝利を繰り返す同盟国ドイツに続け!」

 と、万歳したり、三本締めをしたり、祝勝気分のお祭り騒ぎだったからである。

 日色は彼らとともに浮かれ騒ぐことはしなかったが、かといって、「喜ぶのはまだ早い」「アメリカに油断があったのだ」「アメリカの軍事力はこんなものじゃない」と水を差すこともしなかった。

 はじまったものはしょうがない。しかし、できるだけ戦争を長引かせず、ちゃちゃっと終わらせてほしいものだ、と日色は思わずにはいられなかった。



 

   4、雪の降る品川駅(*4)


 翌昭和十七年一月二日、品川駅改札前。赤いタスキをかけた若い出征兵士たちが熱狂的な万歳の声で盛大に見送られ、駅の構内に入っていく。

 それを見て、

「じゃあ、僕もそろそろ行かなくちゃ」

 とため息まじりに日色が言った。降りしきる雪のせいで、吐く息が白く濁る。夏服の上に冬服を何枚も重ね着し、さらにベージュのコートをまとっていたが、丸刈りの坊主頭が身を切るように寒かった。

「はい」

 民江の声が震えているのは寒さのせいだけではなかった

 日色が大きな鞄を抱え、改札を潜ろうとした時、

「先生」

 民江が呼び止めた。

「どうした?」

「もう一度、約束してください。必ず生きて帰ってくると」

 民江の真剣な眼差しに、日色は笑顔で応えた。

「帰るさ。必ず生きて帰って来る」

「きっとですよ」

 と言って、民江は小指を立てて突き出した。

「おいおい、子供じゃないんだから」と日色が苦笑して言ったら、

「いいじゃないですか。それとも外国の映画のように抱擁してくださいますか?」

「いや、それはまずい」

 日色は民江と、寒さでかじかんだ指と指をからませた。

「指切りげんまん」

 最初は軽く触れ合うだけのつもりが、名残惜しさから、やがて物狂おしい絡み合いに変わった……。




   5、熱帯の海


 大阪から船出して、台湾、仏印に寄港後、今村均いまむらひとし中将率いる陸軍第十六軍は、五十六隻の輸送船に護衛艦二十七隻から成る大船団で最終目的地のジャワへと向かっていた。

 二月二十八日深夜ーー。

 日色秀太郎たち宣伝班員が乗船している佐倉丸は輸送船で、客室などという洒落たものは無い。船倉にむしろを敷いた〝カイコ棚〟が宣伝班員たちの寝所だった。熱帯の蒸し暑さに加えて、かさかさという虫の這いずりまわるような音に辟易して、日色は甲板に涼みに出かけた。

 四辺あたりにはうっすらと薄霧が立ち込めていた。南東の空にあるはずの南十字星サザンクロスは見えない。

 二人の男が連れ立ってやってきて、そのうちの一人、細面の男が日色に話しかけてきた。

「ジャワ島は見えますか?」

「ジャワ島かどうかわかりませんが、夕方には島影が見えました」

 と日色が答えると、もう一人のふくよかな男が、

「見えた。あれだよ!」

 と、ぼんやりとした黒い影を指さした。するとさっきの男が、

「違うよ、りゅうちゃん、ありゃあ味方の船だ」

「そうかあ。間違えたかあ。あははは」と、隆ちゃんと呼ばれた男は屈託なく笑いだした。

 それから自己紹介をし合った。最初の男は「トントントンカラリと」で始まる流行歌『隣組』(*5)など多くの流行歌で知られる作曲家の飯田信夫いいだのぶお、二番目の男は朝日新聞に『フクちゃん』を連載中の漫画家・横山隆一よこやまりゅういちだとわかった。

 その時、遠くでパッと何かが明るく光った。赤い光。続いて青と白の光も。

「……何だ何だ?」

 異変に気付いて他の乗組員たちも甲板に集まって、海上を見てざわざわしだした。

「ありゃあ照明弾だな」

「だとすると敵さんか?」

 そのうち、遠雷のような音まで聞こえてきた。砲弾のようだ。

「宣伝班と軍政班はハッチにて待機!」という声がしたので、日色たちはハッチに移動し、鉄兜を被り、腰に帯刀、さらに救命胴衣をつけ、袋を背負った。

 激しい振動が繰り返し続いた。甲板の12・7センチ高角砲が敵飛行機を撃ち落とそうとしているのだと誰かが言った。

 不安を紛らわそうと、宣伝班のまとめ役を務める大宅壮一おおやそういちが雑談をはじめた。「皆さんは南洋は初めてですか?」

「大宅さんは前にも?」

「ええ、昭和十年に日本外事協会主催の新聞雑誌南洋観察団に日本評論の代表として参加しました。その頃の僕は、北進とか南進とか、そういった国策のことはとんと無知だったんですが、せっかく頂いた機会を逃すのはもったいないですからね。台湾、フィリピン、内南洋うちなんよう(南洋諸島のこと)を回りました。……おや、大木さん、どうされました?」

 痩せた男が甲板に続く木梯を登ろうとしていた。

「見にいくんです」

 詩人の大木惇夫おおきあつおは、年嵩としかさの大宅よりさらに五歳も年上で、五十歳に近かった。

「いや、そりゃ危ない」

「危ないことはわかってますが、見ないことには詩は書けません」

「そう言われたら何も言えないな……」大宅は困った顔で皆の顔を見回して、「そうだ、日色くん。君は職業柄、こういう危ないことには慣れているよね」

「まあ……」と日色は肯いた。「たぶん、他の方よりは」

「だったら、大木さんについていってくれたまえ」

「わかりました。大木さん、よろしくお願いします」

「うん。よろしく」


 甲板では将校たちが舳先に集まって海を見ているところだった。大木惇夫は夕刊にもその中に割り入って、手帳を開いてペンを構えた。

 急に霧が深くたちこめ、視界が悪くなった。

「どうしたんだ?」

「味方の艦が煙幕を張ったんだ」

 真っ黒な闇夜を白い探照灯サーチライトが交差し、赤い曳光暉星弾が矢のように飛び交う。敵機か友軍機かわからないが、編隊を組んだ飛行機が頭上を通過し、無数の青い照明弾、吊光投彈を投下して海面を真昼のように照らす。さらに、耳をつんざく砲撃、水柱の音。その戦闘の光景を詩人の魂はこう表現した。


   音と色と光の交響曲! 未来派の絵!(*6)


 ドンと大きな音がして、遠くに火の手が上がった。将校たちが「やった!」「やった!」と歓声をあげているから敵艦なのだろうか。

「おや?」

 何かが海面を猛スピードでこっちに向かってくるのに日色は気付いた。魚雷だ! 魚雷は佐倉丸の左舷に命中し、激しい揺れと衝撃が日色たちを襲った。

「うわっ!」

 両手をペンと手帳で塞がれていた大木が倒れそうになったので日色が慌てて支えた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、ありがとう」

 と言いながら、大木はなおもペンを走らせた。

 その十二分後、またも左舷に魚雷が命中。甲板がぎしぎしきしみながら傾きはじめた。

 誰かが悲鳴のような声で叫んだ。

「沈没するぞ! 総員、海に飛び込め!」


                           (つづく)


(*3)ロバート・バートン『憂鬱メランコリーの解剖』より。

(*4)中野重治の詩「雨の降る品川駅」に因んで

(*5)ザ・ドリフターズのTV番組「ドリフ大爆笑」主題歌の原曲で、「トントントンカラリと」は「ド、ド、ドリフの」に替えられる。

(*6)大木惇夫『海原にありて歌へる』(アジアラナ出版部、昭和十七年)の解説から


(*注解1)日色の歴史認識は言うまでもなく、戦後の歴史書ではなく、当時の新聞記事(朝日新聞)や本から得られた情報に基づいている。

 当時の日本の国策は、論と論に割れていた。前者は大陸政策で即ち対ソ連、後者は海洋政策で即ち対英米蘭。

 以下、昭和十六年の朝日新聞の見出しを時系列に列挙する。


3月26日 スターリン書記長と松岡外相、友好的会談

      日ソ親善を強調 松岡外相、会談後語る

4月14日 日ソ中立條約成る

  23日 松岡外相颯爽ご帰還

  27日 でかしたぞ松岡さん 日比谷沸く 国民歓迎会

6月23日 独、対ソ宣戦を布告

  26日 臨時閣議開かる

7月 3日 冷静に事態注視 松岡外相談

  17日 近衛内閣総辞職決行

      第二次近衛内閣と外交 特筆すべき数々の業績

  18日 大命 近衛公に再降下 直に第三次内閣に着手

  24日 わが対外国策変らず

  27日 英米、日本資産を凍結

10月17日 モスクワの危機迫り 我大使館移転準備

       戦局今や決定的 援ソの術なく英心痛

   17日 近衛内閣総辞職決行

       電撃の〝幕切〟 電光ニュースに吸い付く眼

   19日 東條新内閣成立す

   21日 米、会談継続を希望

11月 8日 連合軍の欧洲上陸作戦 ソ連、英米に泣訴す

12月 2日 日米けふ会談続行

    2日 英、ビルマに軍隊集結 

    5日 日米会談の裏面に英、対日準備を急ぐ

       米と連結 タイ侵略の構へ

    9日 帝国、米英に宣戦を布告す


 なお新聞にはいっさい報じられていないが、9月27日から10月18日にかけて日本の南進政策に影響を与えたとされるソ連スパイ・ゾルゲ、尾崎秀実らが逮捕された。

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