昭和16年、名探偵日色秀太郎は徴用検査で小栗虫太郎、太宰治と会うの巻

   1、白紙しらがみ召集


「このたびはおめでとうございます」

 背広姿の男はそう言って、名探偵・日色にいろ秀太郎しゅうたろうに一枚の封筒を手渡した。

「では、これで」

 男が去った後、奥から妻の民江たみえが出てきた。旧姓・歌川うたがわ。公にはされていないが、日色の手柄とされる八年前の量子館殺人事件を解決したのは、実は当時(そして現在でも)秘書の彼女だった。かつてのモダンガールも今では髪をひっつめ、肉付きも良くなって、当世流行のいわゆる翼賛美人よくさんびじんに変わっていた(などということは、口が裂けても本人の前では言ってはいけない)

「誰でしたの、先生?」

「本郷区役所の人だそうだ」

「で、その封筒は?」

「うん」

 日色は封を開いて、中に入っていた白い紙片を取り出した。それを読んで、

「……召集令状だった」

 と日色は浮かぬ顔で答えた。

「ええ!」

 民江は驚いて、日色の手にある紙片を覗き込んだ。そこには、


   徴用令書

   日色秀太郎氏

   右ノ者左ノ通徴用セラル


 と書かれてあった。

「本当……でもこの紙、赤くない……召集令状って赤いから赤紙あかがみなんでしょ?」

「赤紙は徴兵で、こっちは白紙しらがみ。徴用って書いてあるだろう」

「あら本当」と民江は舌をぺろりと出した。「でも徴用って、いったい何をやらされるのかしら? 技術者だったら飛行機を作ったり、橋を作ったりするんでしょうけど、私立探偵にできる仕事って……?」

「僕にもわからんよ。ひょっとしたら炭鉱で働かされるのかなあ」

 と日色は嘆息したが、徴兵でなかったことに民江はひとまず安堵した。時は昭和十六年十一月十五日。大日本帝国は中国大陸で蒋介石しょうかいせき率いる中国国民党と壮烈な戦いを繰り広げている最中だが、巷では、蒋介石を支援する米英ともぶつかることになるのではと言われていた。そのためには兵の補充が必要で、ちょうど今朝の新聞の一面にも、


   兵役法施行令を大改正 けふ実施


 という不穏な見出しが躍っていた。

「戦争って、ほんと嫌ですわ……」

 民江はつい本音を漏らした。隣組の誰かに聴かれたら非国民と罵られるに違いない本音を。

「まったくだ」日色も肯いた。

「でも先生、日本は本当に米英とやりあうんですか?」

「四年も続く日中戦争を一刻も早く決着させたい日本としては、その障害になっている米英を排除したいのは事実だろうが、そのために一戦交えるのはどうかなあ。そりゃあイギリスはね、ドイツ空軍による空爆でロンドンは瓦礫の山と化すし、上陸作戦が始まるのも時間の問題と言われている。しかしアメリカはいまだドイツにもイタリアにも宣戦布告していない。ドイツ軍がソ連に侵攻し、赤都せきと(モスクワのこと)が包囲されている現在でも、アメリカは支援こそすれ参戦することはない。ルーズベルトがそうしたくても、アメリカの議会と世論がそうさせないんだ。伯林ベルリンでも、アメリカは結局参戦することはないだろうというのが有力筋の一致した見方だそうだ」

「それって、モンロー主義のせいですか?」

「それもあるだろうけど、それ以上に、子供たちを戦争で失いたくないという親たちが多いんだろう」

「そりゃあ親だったらそう思いますわ」夫婦の間にまだ子供はいなかったが、民江の母性愛がそう言わせた。

「日米交渉もなかなからちが明かないが、それでも何度も会議を重ねるのは、アメリカもどうにかして戦争を回避したいという気持ちがあるからじゃないのかな。しかし、イギリスやソ連はそれじゃあ困る。日米交渉の推移を注視して、できれば決裂することを望んでいる」

「そうならないことを切に望みますわ」

「まったくだ」




   2、和製P・K部隊


 二日後、日色秀太郎は白紙しらがみに記されていた出頭場所の本郷区役所に出向いた。

 大勢の人でごった返す中、日色は見知った顔を見つけた。面長の顔に日色と同じロイド眼鏡。探偵小説家の小栗虫太郎おぐりむしたろうである。

「やあ、小栗さん。お久しぶりです」

 と日色は声をかけた。

「やあ、お久しぶり。日色くん、ひょっとして君も徴用で?」

「ええ。でも驚いているんです。私立探偵のぼくなんかに何で白紙が届いたのか」

「私立探偵だからじゃないよ。君、探偵業とは別に外国の本の翻訳をやってるだろう。アレクサンドル・ラカサーニュの『犯罪人類学文書』とか、エンリコ・フェリの『犯罪社会学』とか、マルセル・モースの『呪術論』とか」

「はい。やりました」

「それで作家扱いなんだ。見たまえ、ここには作家が大勢いる。わかるかな……高見順……尾崎士郎……火野葦平……おや、あそこにいるのは太宰治くんじゃないか」

 と指さした先には、首を三十度ほど左に傾け、薄く笑っている若い男がいた。(*1)

「確かにそうですね。でも、作家ばかり集めていったい何をやらせようっていうんでしょう?」

 小栗虫太郎は周りの目を窺って、「P・K隊――宣伝中隊プロパガンダ・コンパニーだよ」と日色に耳打ちした。「戦争は従来これまで武力のみで行われてきたが、そこにプロパガンダという新しい武器を用いて戦争を有利に進めようというのが昨今の西欧列強の考えだ。うまくいけば一滴の血も流さずに自国勢力を拡大できるかもしれない」

「たしか鉄血宰相ビスマルクが熱心だったんですよね」

「うん、そうだ。しかし皮肉にも、連合国側の方が上手うわてだった。独墺戦線で連合軍が散布した千八百万枚の宣伝ビラにより後方部隊が混乱するという事態に陥った」

「ビスマルクも歯切りして悔しがったことでしょうね」

「ビスマルクだけじゃない、かの戦略家ルーデンドルフ将軍も、〝ドイツの戦敗は連合軍の攻撃に対抗することが出来なかったからではない。ドイツに散在している外来移住者と過激思想の持ち主が連合国の魅惑的宣伝の餌にたやすく誘惑されて、戦線の背後で国家が瓦解したためである〟と言って、敗戦の理由をひとえにプロパガンダに押し付けた。おかげでドイツではしばらくプロパガンダという言葉が忌み嫌われ、口に出すのも憚られたくらいだ。しかし、近代戦においてプロパガンダ抜きの戦争は考えられない。それでナチス政府は、ドイツが失敗したのは組織化出来ていなかったからだと分析し、新たに宣伝省なるものを創設し、ゲッベルスをその大臣に据えた。そして、その一環としてP・K隊が組織されたというわけさ。P・K隊は新聞記者・カメラマン・文学者・画家・音楽家などで編成される。そういうと軍報道部と同じみたいに思われるかもしれないが、ちゃんと軍人としての訓練を受けていて、新聞・雑誌・ラジオ・ニュース映画を通して銃後の国民にも前線の兵士と共に戦っている気分にさせ、知らず知らずのうちに国家意識を植え付ける。一方、他国に対しては、自国の正当な立場を宣明しまくる」

「それを日本でもやろうというわけなんですね?」

「そうだ。そのきっかけは昨年十二月に独伊に派遣された軍事視察団。ドイツ軍のP・K隊を視察し、その編成、装備、訓練を学んできた。その派遣団の首班だった山下中将の報告書に基づいて、日本版P・K部隊の創設が決められたという話だ」

「そうだったんですか」と日色は言ってから、「ところで、僕たちはどこに派遣されるんですか? 中国ですか?」

「それがどうも南方らしいんだ。マレー、タイ国、仏印ふついん(フランス領インドシナ)……できればマレーがいいなあ」

「どうしてです?」

「〝Krao〟という少女のことを聞いたことはないかい?」

「いいえ」

「一八八一年、カール・ボックというノルウェーの探検家がマレー半島の根本にあるクラ地峡で発見した、全身を毛に覆われた猿人少女だ。人類と類人猿のミッシング・リンクと言われている。ぼくもぜひ何かKraoみたいな世間があっと驚くものを発見したいものだ」

 と言って、小栗虫太郎は眼鏡の奥でうっとりと目を細めた。(*2)


                           (つづく)


(*1)太宰治はこの直後行われた身体検査で不合格となり、徴用を免除された。

(*2)小栗虫太郎は井伏鱒二、海音寺潮五郎らと共に陸軍第二十五軍宣伝班員としてマレーに赴任した。

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