名探偵日色秀太郎が連合国側の巧妙なプロパガンダを紹介するの巻

   11、英国式宣伝プロパガンダ


 昭和十七年(一九四二年)五月中旬。

 町の標識は〝Batavia〟から〝Jakarta〟に変わっていた。ジャカルタはオランダが占領する前の町の名前である。町の名前は変わったが、市場パッサルの賑いは相変わらずで魚・肉・野菜・花が売られている。木陰では床屋が店を出し、道では車や馬車に混じって、棒手振りの行商人たちが行き交う。

 いま、書店から日色秀太郎、阿部知二、北原武夫の三人が連れ立って出てきた。

 北原はサルトルの『ラ・オリジネエル』や英訳の『カンデイド』を購入できて有頂天だ。

「しかし、あの店員にはまいったな。〝あなたは本当に軍人か?〟、〝学者の軍人か?〟、〝それとも軍人と一緒に旅行で来た人か?〟って五月蝿い五月蝿い。適当にあしらうつもりだったが、あまりにもしつこいので、〝学者だろうが大工だろうが、日本人たるもの召集を受けたら陛下の忠実な臣民として死地に赴くのだ〟と教えてやったら、〝それが職業的奉仕プロフェッショナルサービスか?〟という」

「日本人がどういう民族かわかっていないのさ」と阿部が言った。「それを教えてやるのも我々宣伝班の大事な仕事だ」

「そうだがね……ところで日色さん。あなたも何か買われたようだが、何を買われたんですか?」

「岡倉天心です」と日色は答えた。

「ほお」

「日本から持ってきたものを船の沈没で失くしたと、浅野がしょげかえっていたもので。しかし、まさかジャワに売っているとは思いませんでした」

 清水宣雄がインドネシア人相手に演説をぶっていた。清水の後ろには十数人の若者たちが整列している。日色はマレー語に精通しているわけではなかったが、〝ニッポン〟〝アジア〟など、ところどころ聞き取れた。清水はこんなことを言っていた。

「日本はアジアの光なり、日本はアジアの母体なり、日本はアジアの指導者なり。原住民諸君! 諸君は、日本軍の軍政下にある今日、この三つの標語に表徴ひょうちょうせられて、この南海の島々に新しき秩序を建設せんとしつつあることは、まことに、古き伝統の上に生きる偉大なるアジアの民として、ここに新しき夜明けを歌い、英米圏による文化のあらゆる欺瞞的象徴を打ち破る武器として、最もすぐれたる標語を持ち、最もすぐれたる文化戦をなしつつあるものなることを心より歓ぶものである」

 そこで清水はいったん演説を中断して、現地人の反応を確かめた。それから、

「ジャワ島に上陸して、誰しも気のつくことは、ここの原住民族の中に、実に日本人そっくりなのが幾人もいることである。いくら見直しても日本人としか思えない顔にいくつも出会うことである。これはしかし、実に当然なことであって、上代にあっては、この地は、スメラミクニの統治圏内にあり、日本を日本とする偉大なる文化の存在していた地域である。このことは、『古事記』、『日本書紀』などの日本の神話にも現れている。これを太平洋の文化圏のみに見ても、かの黒潮の流れに沿うて文化は常に交流していたのであって、今のメキシコに残るマヤ文化、南米に残るインカ文化の遺跡に見るも明らかなる如く、太平洋の黒潮をめぐって、ひとしく太陽崇拝民族が偉大なる巨石文化を建設していたのである。わが日本の今日までの歴史は、このアジア太平洋圏復興への歴史である。天業恢弘てんぎょうかいこうとは実にこれを言うのである。原住民族も、このアジア太平洋自給自足圏内に、英米の植民地敵搾取より解放されて復興する時、はじめて彼等の真の姿にかえるであろう」(*14)

「清水さんってどういう人です?」と日色が訊いたのに、阿部が答えた。

「僕もよく知らないんだが、ナチス叢書という本を出しているらしい」

「後ろに並んでいる若い連中は?」

「清水さんが所属するスメラ学塾の塾生だそうだ」


 日色たちは自転車人力車ベチャを拾って、宣伝班本部に向かった。

 宣伝本部の入口では、インドネシア人が集まって「ピーピー、ピーピー」と訴えている。〝ピーピー〟とは宣伝班パリサン・プロパガンダの略である。彼らの目的は、食糧が不足しているとか、オランダ人が逃げて給料が貰えないとか、仕事が欲しいとかいう陳情である。一方、華僑たちも日本軍が統治することになったジャワで、営業戦略として、献金を申し出に訪れている。

 二階に行くと、宣伝班員数人が集まって駄弁っていた。

「山の深いところまでアスファルト。そこを野猿が横切って歩いているんだ。ライオンかトラかと思っていたら、犬だった」と言っているのは武麟たけりんこと武田麟太郎である。

 それを受けて、横山隆一も片方だけしかないジャワのうちわをバタバタ扇ぎながら、

「猿をスケッチしようと森の中に入ったんだが、白蝶の大群――数万はいたと思う――がもつれからんで、渦を巻きながら大乱闘をしてるんだ。梢からまっすぐに地面に突き刺さるような緑の光線が幾筋もある暗い木立の中で。美しいというより、お伽噺の口絵のようだったな」


 全員が集まったところで恒例の宣伝会議が始まった。 

 最初に発言したのは映画監督の石本統吉。

「日本に送ろうと考えていた、勝利した戦闘の撮影はことごとく失敗でした。夜間だったり、カメラがなかったりしたせいです。その代わり、天長節でジャワ全土が祝賀で大賑わいしてる絵は良く撮れましたよ」

 次に飯田信夫。

「バタビヤ放送交響楽団を結成しました。公演旅行でジャワ訪問中に戦争が始まって帰国できなくなった世界的ピアニスト、リリー・クラウスとも共演しました」

「その演奏、放送局まで出かけて生で聴いたよ」と北原が自慢げに日色と阿部に耳打ちした。

「ところで――」飯田は話を続けた。「プロパガンダは、もしかしたら日本の歌より、こっちの音楽の指導を重視した方がいいかもしれません。ガムランと、あとクロンチョンという新しい音楽もあるんですが、音楽芸術としてはあくまでガメランを元に発達させたい。作詞・作曲もインドネシアの芸能人に任せて、日本人指導者は相談に乗る程度でと考えていますが、いかがでしょう?」

「異存なし。それで進めてください」と放任主義を貫く宣伝班長の町田中佐が言った。

 そして日色、阿部、北原たちの番が来て、代表して日色が報告した。

「本屋や図書館の本を虱潰しにチェックしていて、あることに気付きました」

「それは何ですか?」と大宅壮一が尋ねた。

「先月創刊した『アシア・ラヤ』を見ますと、威勢のいい3A運動のスローガンの文字が踊っています。〝アジアのチヤハヤニッポン、アジアの母胎イブウニッポン、アジアの指導者プミンピンニッポン〟。大東亜共栄思想を広めるためにはとても良いこととは思いますが、イギリスのやり方はもっと巧妙なんです。イギリスのスローガンは、勝利ヴィクトリー(Victory)の〝V〟ですが――」

「そうそう〝V〟だった。あちこちの壁に書かれていた」と横山隆一が口を挟んだ。「でも今は逆さまに書き換えて〝A〟になってる。3A運動の〝A〟だ」

 日色は愛想笑いの相槌を打ってから、

「イギリスはこの〝V〟を新聞や壁に書くだけでなく、いろいろなところ忍ばせているんです。たとえばベートーベン『運命交響曲』の〝ジャジャジャジャーン〟。『運命交響曲』はベートーヴェンの五番目の交響曲ですが、5はローマ数字では〝V〟になります。BBCはこの〝ジャジャジャジャーン〟を毎日何百回も放送しています。フランスではこれに歌詞を付けた『La chanson des V(Vの歌)』という歌まで作りました。それだけではありません。日常生活の、たとえばドアをノックする時、レストランでウェイターを呼ぶのに手を叩く時でもこれをやる。それを繰り返すことで、Vのスローガンを国民ひとりひとりの意識下サブリミナルに植え付けるんです」

「自国の作曲家が利用されてゲッペルスもたまげただろうな」と作曲家の飯田が言った。

「イギリスはドイツに劣らず宣伝に力を入れています。有形の武器と同等に考え、〝第五の武器(Fifth Arm)〟と呼んでいるくらいです。朝日新聞には、失策続きでタクシー運転手からも〝無情報省ミニストリー・オブ・ノー・インフォメーション〟と馬鹿にされている、と書かれてありましたが(*15)、侮ってはいけません。日本は3A、3Aと連呼していますが、イギリスのようにもっと効率的なプロパガンダができないものでしょうか? 皆さんはどう思われます?」

 皆の視線が清水斉に集まった。清水が先頭に立って3A運動を提唱していたからだ。清水は表情を変えずに、毅然とした顔でこう答えた。

「宣伝は一に正確、二に愚直、謀略やデマゴーグは駄目です」


 それから全員で検閲のため、外国映画を観賞した。これも宣伝班の仕事である。

 総天然色映画『風と共に去りぬ』、チャップリンの『独裁者デイテイクタース』。前者はカラーが綺麗なだけ、後者は演説シーンしか見所なしと酷評する意見があった。他にウォルト・ディズニーの漫画映画『ファンタジア』、『ピノキオ』、『ダンボ』も観た。『ダンボ』では誰かの鼻を啜る音が聴こえた。


                           (つづく)



(*14)『大東亜戦争陸軍報道班員手記 : ジヤワ撃滅戦』(大日本雄弁会講談社、昭和十七年)所収の清水宣雄『原住民よ皇民たれ!』『アジア太平洋圏』より。

(*15)朝日新聞 昭和十六年七月二十二日第二面。

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