名探偵日色秀太郎と阿部知二がシャーロック・ホームズ的推理を戦わすの巻

   10、推理合戦


 日色秀太郎と阿部知二はメンテン住宅地区の北に位置するクボン・シリ通りにやってきた。静かな住宅街の一角に、彼らに住まいとしてあてがわれた邸宅があったのだ。

 その家を見た阿部知二の第一声は、

「えらく貧弱な家だなあ」

 新築ではなく、こじんまりとして、湿っぽい石壁には蔦が這っている。阿部は顔を思い切りしかめて、

「それもただ貧弱なだけじゃない。わざとらしいほどに貧弱だ。なんだか胡散臭い感じがする」

 胡散臭いのはこの家ばかりではない。バタビヤの中心部に近いにもかかわらず、この辺りは区画が整然としておらず、植民地コロニアル様式の建物やインドネシア人の古い家がごちゃごちゃに混在していた。おそらく古い集落カンポンが在った土地にオランダ人が町を建設したのだろう。

 阿部は家の中に入るなり、エントランスホールを一瞥し、

「ねえ、日色さん。この家の持ち主はファン・モークという、蘭印の経済大臣なんだそうですが、どんな人物なのか、シャーロック・ホームズを真似て推理してみませんか?」

 と言い出した。

「ええ、いいですよ」日色は承諾した。

「本物の名探偵が相手でも、遠慮しませんからね」

 阿部知二は勝算があるのだろう、不敵に笑った。


 二人はまず書斎に行った。本棚には本がぎっしり詰まっていた。そこだけでは収まりきれず、廊下に書庫も作っている。ゲーテ、シラー、トルストイ、ポー、モンテーニュ、パスカル、ヴェルレーヌ、アナトール・フランス、スタンダール、キーツ、ハーディといった本があり、

「一貫性がないなあ」と阿部は即座に断じた。「浅く、広くという感じだ。おや、フリー・メイソンの本がある。そうか、こいつ、フリー・メイソンだったか」

「フリー・メイソンの本を持っていたらフリー・メイソンだというのなら、私もフリー・メイソンになりますね」

「あ、これは失敬失敬。そうですね、研究のために『資本論』を持っていたからって、共産主義者にはなりませんものね」と言ってから、阿部は再び調べだした。

 壁に日本の浮世絵版画が掛かっていた。それだけでも奇妙だが、蔵書には日本の本も会った。

「Takekoshi(竹越與三郎)……Nitobe(新渡戸稲造にとべいなぞう)……Yuzo Yamamoto(山本有三)……おや、日本農業のパンフレットまである。こりゃ、いったいどういうわけだ?」

「経済大臣だからですよ」と日色は静かに言った。「日本は蘭印から石油を輸入していますからね。同時に甘藷かんしょ(さつまいも)、コーヒー、砂糖といった農産物や、ゴムも。その外交会議の席で日本人が送ったか、あるいは日本のことを学ぶために集めたか、そのどちらかだと思います」

「ああ、なるほど。そういうわけか」阿部は恥ずかしそうに頭を掻いた。

 日色は日色で本棚の中にこんな本を見つけた。『Mohammedanism. Lectures on its Origin, its Religious and Political Growth, and its Present State(イスラム教。その起源、宗教的および政治的発展、およびその現状についての講義)』という本で、著者は、Christiaan Snouck Hurgronje。さらに、Cornelis van Vollenhoven著『De Indonesiër en zijn grond』、『Het Adatrecht van Nederlandsch-Indië』)という本もあった。

 ︎︎阿部が後ろから覗きこんで、「インドネシア関係の本のようですね。どう統治したらいいかの勉強していたんですよ」

 ︎︎日色は何も答えずに、その中の一冊のページを繰って見た。いたるところに書き込みの跡があった。確証がなかったので口には出さなかったが、日色は本の持ち主のインドネシアへの愛を感じた。


 次は、子供部屋。床の上におもちゃの鉄道が線路に乗ったまま傾いていた。

「男の子だな」と阿部は言った。「年齢は……どのくらいだろう……ちょっとわからないなあ」

 ︎︎日色は倒れていた電車のおもちゃを手に取って調べた。それから周りを見回して、

「日本でいうなら初等科高学年以上だと思います」

「ほお、根拠は?」

「この鉄道模型、ぜんまい仕掛けでなく電気式ですね。近くにあるのはマルチボルト変圧器です。工具も転がっていますね。おそらく自分で修理していたんじゃないでしょうか。机の上にある本も――オランダ語は詳しくないですが――〝elektriciteit〟、電気のことじゃないかなあ」と言って、日色はその本を手に取って表紙を阿部に見せた。電球を持つエジソンが描かれていた。「この子は将来、科学者か技術者になりますよ」


 妻の部屋には、歯磨きチューブが蓋の開いたまま、中身が出たままの状態で残っていた。

「慌てて逃げだしたんだな」と阿部は言うと、はみだした歯磨きの中身を手で触った。「乾き具合から、逃げたのはつい最近だな。日本軍がバタビヤに入場した三月五日以後ですかね」

「おそらくそうでしょう」

 本物の探偵の日色に認められたのに気を良くして、阿部は続けた。「さっきの子供部屋の鉄道模型が倒れたままだったのも、やっぱり急いで逃げ出したからでしょう。それに対して、書斎にはそういう形跡は見られなかった。つまり、夫は妻子と別行動を取っていたんじゃないでしょうか。いや、もしかしたら、夫はこの家には住んでなかったのかもしれない。別宅に愛人ニャイと暮らしていたのかもしれない。どうでしょう、日色さん?」

愛人ニャイはいたかもしれませんね。婦人の部屋、歯磨きのあったそばにPremarinの瓶があったんです」

「何です、そりゃ?」

「ホルモン療養剤です。更年期の女性が服用するものです。夫がまだ性慾旺盛なら、愛人ニャイがいたとしてもおかしくない」

「まったく、けしからん奴だ!」

 ︎︎と阿部は憤った。

「ねえ、阿部さん」日色は穏やかに言った。「『ボヘミアの醜聞』でシャーロック・ホームズが何と言ったかご存知ですよね?」

「〝You see, but you do not obserue. The distinction is clear.(君は見ているが観察していない。その違いは明らかだ)〟、ですか?」

「そちらでなく、〝It is a capital mistake to theorize before one has data. Insensibly one begins to twist facts to suit theories, instead of theories to suit facts.(データを得る前に理論を立てるのは重大な間違いだ。気付かないうちに、事実から理論を立てるのでなく、理論に合うように事実を捻じ曲げてしまう)〟、の方です。阿部さん、怒らないで聞いてくださいね、先程からの阿部さんの推理はどうも〝胡散臭い〟という第一印象に囚われているように思うんです」(*13)

 阿部はちょっとムッとした顔をして、「そう言われたらそうかもしれません。でも、それ以外に何か別居の理由がありますか?」

「夫は蘭印政府の経済大臣、つまり閣僚だったんですよね」

「ええ、そうです」

「三月五日、日本軍がバタビヤ入城した時、蘭印政府は既にバタビヤから逃げ出した後でした。どこに逃げたかというとバンドンで、スタルケンボルグ蘭印総督はそこから無条件降伏に応じるためカリジャチ飛行場にやってきました。ではいつバタビヤからバンドンに移ったかというと、二月の、日本軍によるバタビヤ空襲の直後です。経済大臣ならば総督と一緒にバンドンについて行ったはず。それで夫婦は一時的に別居することになったのではないでしょうか?」

「ああ、そう言われたらそうだ!」阿部は素直に負けを認めた。「参りました、日色さん、脱帽です」

 ︎︎かくして第一回の推理対決は名探偵日色秀太郎の勝利に終わった。[#注解2]


                           (つづく)


(*13)シャーロック・ホームズ・シリーズは日本では学校やラジオの英語講座のテキストに盛んに用いられ、それで英語を覚えた人も多かった。

[*注解2]阿部知二は『火の島 : ジャワ・バリ島の記』(創元社、昭和十九年)p28〜31や、「南方の女と風物 従軍作家阿部知二氏に訊く」(『週刊婦人朝日』昭和十七年十二月三十日)で本文に書いているようにファン・モークを誹謗中傷している。戦時中で致し方ないことだが、それは敵国人に対する偏見であった。

 フベルトゥス・ファン・モーク(Huib van Mook、一八九四年〜一九六五年)はインドネシア生まれ。オランダのライデン大学でインドネシア学を学ぶと、インドネシアに戻り、警察署長、経済大臣などを歴任する。日本の宣戦布告後、蘭印政府副総督に任命され、スタルケンボルグ総督の命令でオーストラリア経由でロンドンに逃げる。そこでオランダ王国亡命政府の植民地大臣に就任。第二次世界大戦終了後は再びインドネシアに戻り、蘭印政府副総督に就任。総督になれなかったのは、彼がインドネシアを愛しすぎたためと言われている。その後、カリフォルニア大学バークレー校で政治学教授、国連でも働き、パリで客死。彼の息子コーネリアス・ファン・モークはマサチューセッツ工科大学で船舶工学を学んだ。

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