名探偵日色秀太郎はナイトクラブで歌姫マタ・ハリ会い、ヴァン・グーリックのことを語らうの巻

   12、マタハリ


 詩人・浅野晃は『花六首』の第一連で〝マタハリの花〟を詠んでいる。

 マタハリとはマレー語で「朝の瞳」の意味だが、ほとんどの人々は別のマタハリのことを思い浮かべるだろう。

 妖艶な踊子ダンサーにして女間諜スパイ! 映画ではグレタ・ガルボが彼女を演じた。

 マタ・ハリことマーガレット・ゼルは一八八〇年(一説には一八七六年)オランダのレーワルデンに生まれた。オランダ陸軍大尉マクレオドと結婚。夫の転任に伴い、ボルネオ、スマトラ、ジャワを転住する。夫とは一男一女をもうけるが、離婚。マタハリはヨーロッパに戻ると、パリで〝東洋の舞姫マタ・ハリ〟と称してデビューする。東洋舞踊と言ってはいたが、ジャバ、スマトラで見たものを見様見真似したインチキ舞踊。しかし、裸体にも等しい扇情的な踊りで人気を得、各劇場から引っ張り凧になる。ヨーロッパ巡業の折、フランス、ドイツ、ロシア、オランダなど各国の高位高官と浮き名を流す。ちょうど欧州大戦が勃発した頃で、マタ・ハリはその立場を利用してスパイになった。もっとも、映画や小説で描かれるような華々しい活躍をしたわけではない。実際には関係した男たちから閨房で秘密を聞き出したくらいだが、その中にはフランスの飛行機および新設飛行場についての情報があり、彼女はそれドイツに売った。一九一七年、フランス官憲はマタ・ハリが間諜H21号(27に非ず)という確証を得て、彼女の投宿したホテルを厳重に取り囲んだうえ、部屋に押し入って逮捕した。この時、マタ・ハリは薄布を纏った姿だけの悩ましい格好で寝台に寝そべっていたという。

 話が横道にそれた。元に戻そう。

 ︎︎浅野晃から頼みたいことがあると言われて、日色秀太郎は浅野の元に出向いた。二人は東京大学法学部の同級生。浅野は熱を出して寝込んでいたが、日色の顔を見るなり、

「すまないな」

「何言ってる。ところで頼みって何だ?」

「実は……」浅野は熱で火照った顔をさらに赤くして、「惚れた女がいるんだ」

「知ってるよ」日色はそっけなく答えた。「博物館令嬢のヒマワリ・プルワチャルカ・ラツナ嬢だろう? スリンピイ(*16)の踊り子の」

「だ、誰がそんなこと言ったんだ!」浅野は激昂して怒鳴った。「勘違いするな。俺が惚れたのは彼女じゃない……マタ・ハリだ」

「マタ・ハリ?」

「いや、俺が勝手にそう名付けた。本名は知らない。ブラック・アンド・ホワイトってナイトクラブで歌っている白人の――おそらくオランダ人だと思う――女性だ。金髪で、アイダ・ルピノにちょっと似てる。で、頼みというのは、その彼女に俺の病気のことを知らせてほしいんだ。その……死ぬ前に君に会いたっがっていると……」

 何を大袈裟な! 日色は呆れてものが言えなかった。ちょっと発熱しただけで死ぬほどの病気でない。宣伝班員たちの間では〝楠公の恋煩い〟と冷やかされいるくらいだ(浅野はあごひげをはやしていたため仲間内で楠公とあだ名されていた)。正直、気乗りしなかったが、それで引き受けたのは、浅野が真面目な男だったからだ。その浅野の頼みを無下に断ることは日色にはとても出来なかった。


 その夜、日色はブラック・アンド・ホワイトに行った。プライベートな訪問なので軍服ではなく私服を選んだ。店内に入ると軽快なスウィング・ジャズが日色を迎えた。階段を降りたところにステージと客席がある。演奏しているミュージシャンはインドネシア人だが、客は中国人華僑が多いように思えた。日色はカウンターでアラックを注文した。アラックはラムに似た香りと色を持つ酒で酒精分が強い。演奏が終わり、次の曲に移った。ピアノソロから始まるしっとりした揺蕩たゆたうようなナンバー。そこに憂いげのある女声ヴォーカルが加わる。歌っているのがマタ・ハリだとすぐわかった。アイダ・ルピノと似ているかどうか、日色にはわからなかったが、細面で端正な美貌を憂いのある儚げなアトモスフィアが包むその姿は、浅野がマタハリの詩でたとえていた月見草の印象そのものであった。(*17)

 曲が終わって、日色はマタ・ハリのところに近づき、英語で話しかけた。

「とても素晴らしかったよ」

「まあ、ありがとう」マタ・ハリは笑顔で答えた。

「今の曲は何という曲?」

「Mood Indigo。デューク・エリントンの曲よ。デューク・エリントンはご存知?」

「かろうじて」日色は苦笑交じりに答えた。「ところで、名前を訊いてもいいかな?」

「ジェッタ」と女は答えた。下の名前は教えてくれなかった。日色もあえて訊こうとしなかった。

「実は友人からあなたにメッセージを言付かってるんだ」

「友人って誰?」

「浅野晃」

 ジェッタはしばらく考えて、「……知らないわ」

「君の大ファンなんだそうだ」

「あら、そう」ジェッタはちょっと嬉しそうな顔をして、「で、メッセージって?」

 日色はちょっと逡巡したが、浅野が言ったままに伝えた。「死ぬ前にあなたに会いたい、と」

「まあ!」

 ジェッタが驚いて目を丸くした。それから言葉を選ぶように、「……その……彼は悪いの? 何の病気? あと、どのくらい持つの?」

「それは本人に訊いてくれ」と突き放したように言ったのは、嘘はつきたくなかったからだ。

「そう……住所を教えて。行けるようなら行ってみる」

「ありがとう」

 日色はコースターに浅野の住所を書いてジェッタに渡した。

 ジェッタは煙草を1本抜いて火をつけた。日本でも見慣れた駱駝の絵柄――キャメルだ。くゆらせた紫煙がソフト・フォーカスとなってジェッタの美貌をさらに妖しく魅せる。「ところでまだあなたの名前を訊いてなかったわ」

「日色。日色秀太郎」

「英語がお上手ね。どこで習ったの?」

「アメリカに留学していたんだ」

「まあ、アメリカに! いいわねえ。わたしもアメリカに行ってみたい」

「生まれはどこ?」

「ここ、バタビア。生まれも育ちも。外国には一度も行ったことがない……」それから日色を見て、「ところで、あなた、軍人さん?」

 日色は黙って肯いた。

「そうは見えないわね。外交官に見える。そうそう、外交官といえば、昔、近所に住んでたお兄さんが外交官になったの。確か日本にもいたとか」

「その人の名前は?」

「ヴアン・グーリック(*17)」

「ああ。彼なら知ってる」

 ジェッタは驚いた顔で、「嘘!」

「嘘じゃない。二年前だったかな、東京でオランダ文化展覧会記念講演会というものが催されて、オランダ公使館書記官だった彼は幻燈を使ってジャワのバラブドールについて講演を行った」

「奇遇よねえ」とジェッタは翡翠色の目で日色の顔をじっと見つめて、「それとも、これって運命?」と訊いた。

 日色は肩をすくめて、話をはぐらかした。


 数日後、日色が浅野を訪ねると、浅野は相変わらず寝込んでいた。

「マタ・ハリ嬢は来なかったのかい?」

「いや、来たよ。来てくれたよ。来てくれたがね……」

 マタ・ハリことジェッタは日色が会って話した二、三日後、見舞いに来て、浅野と楽しく語らった。その帰り際、浅野は、身体が良くなったらまた店に行っていいか尋ねたら、彼女はその頃はもう店にはいないだろうと答えた。スマトラに開設された劇場に招かれてジャワを出ていくのだそうだ。ジェッタにとっては初めての海外で、祝福してあげたいところだが、浅野には残念でしかなかった。

「その寂しさはダッチ・ワイフで紛らわすといい」と日色は浅野に言った。ダッチ・ワイフとは竹を細かく編み、その中にカポック綿を詰め、白布をかぶせた竹枕のことで、蘭印のどこのホテルでもベッドの上に置かれている「保温力が強いから、寝冷えも防げて一石二鳥だぞ」



                           (つづく)



(*16)スリンピ(Srimpi)。ジャワ島の宮廷舞踊。

(*17)オランダ人の殆どは強制収容されたが、石油技師やラジオ局スタッフなど、社会に必要とされたオランダ人は収容所の外で生活することができた。

(*18)ロバート・ファン・ヒューリック(R. H. van Gulik、1910-1967)。ディー判事シリーズなどのミステリ作家としても有名。

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2024年11月23日 09:00
2024年11月30日 09:00
2024年12月7日 09:00

南海魔境 まさきひろ @MasakiHiro

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