名探偵日色秀太郎、宣伝班員たちとインドネシアの未来について語らうの巻

   14、暗雲


 昭和十七年(一九四二年)十月――

 土砂降りの雨でジャングルは沼に変わっていた。その中を部隊は腰まで泥まみれになりながら進む。

「伏せろ!」

 と誰かが叫んだ。後方から爆音が近づき、部隊の頭上すぐ、地上スレスレをグラマンP39数機が通過した。

「見つからずにすんだ」

 ホッとする間もなく、今度は高地からの砲撃が始まった。耳をつんざく轟音はドーンドーンではなくドドドドー――いわゆる、ドンドロ攻撃というやつだ。

「畜生。物資が豊富なものだから惜しみなく撃ってきやがる」

 部隊はその砲弾の雨をかいくぐって前進する。どこに向かって? どこでもいい。安全なところに……。

 部隊がガダルカナル島北岸のタサファロンガ岬に上陸したのは二週間前のことだ。海岸線は米軍の警戒が厳しいので、ジャングルの道なき道を部隊長である雨宮大佐が率先して斧と鎌とで道を切り開き、米軍に奪われたルンガ飛行場を目指した。夜間の進軍は敵に見つからないよう灯りをつけず、すぐ前にいる兵士の背嚢を掴んで一列縦隊で進んだ。そして三日前の払暁、アウステン山から敵の背後に突撃を開始したのだが、敵の反撃は予想以上、雨宮大佐は戦死、肉の切れ端と化してしまった。指揮官を失った部隊は後退を余儀なくされ、ジャングルの中を敗走した。

「それにしても腹が減った」

「ああ」

 全員がひもじかった。食糧は尽き、ここ数日、木の実、草の根、蜥蜴とかげ、蟻の巣、食えるものなら何でも食ってきた。不足しているのは食糧だけではなく、薬もだった。砲弾で手足を吹き飛ばされても、マラリアに冒っても、何もできなかった。助からないとわかっても「傷は浅いぞ」「しツかりしろ」と励ますしかなかった。いや、いっそ、死んだほうが楽なのかもしれない。戦場は生き地獄であった……。


   X   X   X


 ガダルカナル島から五四三二キロ離れたジャワ島では、日色秀太郎ら宣伝班員たちがのんびり朝食をとっていた。ほかほかのパンにバター、バナナ、パイナップル、オレンジ、蜜柑、パパイア。召使ジョンゴスが運んできた皿はどれも山盛りでとても食いきれない。

「しかし、オランダ人はこれをぜんぶたいらげてたんだよな」

「だから、あいつら、あんなに脂ぎってるのさ」

 宣伝班の契約は一年で、そろそろ帰国の予定だった。食後の珈琲コーヒーを飲みながら、今後どうするかを話し合った。

「アシア・ラヤだが――」富沢有為男が切り出した。「新編集長にスカルジョ君を就任させようと思うんだ」

 スカルジョ・ウィルヨプラノトはインドネシア人で、オランダ統治時代にはGAPI(インドネシア政治協会)を設立しインドネシア人の民族独立運動(インドネシア・ラヤ)を訴え、日本占領後は三亜運動の中心的指導者となった。

「うん、それはいい!」と清水宣雄が肯首した。「スカルジョ君とは最初、見解の相違から幾度となく意見を戦わせてきたが、今では協同して一つの仕事をやれると確信する」

 宣伝班員は当初、インドネシア文化を見下していた。たとえば、「デリケートな言葉は表せない」(大木惇夫)、「感覚的なものは発達するが、インテレクチャーなものは難しい」(大宅壮一)というように。(*20)

 しかし、次第にインドネシア文化に魅せられ、今では、ガムラン、影絵芝居、サヌシ・パネらの詩などを高く評価するようになっていた。それにより、日本文化の押しつけではなく、インドネシア独自の文化を育てることに方向転換した。飯田信夫はインドネシア人の手による歌を、武田麟太郎はインドネシア人の手による演劇を、倉田文人はインドネシア人の手による映画を、それぞれ作るべきだと訴えた。それはさらにインドネシア独立にまで飛躍するのだが、そうした考えは何も文化人で組織された宣伝班だけのものではなかった。

 陸軍第十六軍司令官・今村均中将は南支戦線においては中国に対して容赦ない攻撃で数々の武勲を立てた軍人であったが、インドネシアでは一転して温情政策をとった。その理由は、インドネシア人が協力的で抗日運動もなかったからだ。

 しかし、それは軍上層部の反感を買った。

 とくに、最前線から帰ってきた将校らは、ジャカルタののほほんとした日常を目の当たりにして「何たるザマだ! これが戦地か!」と憤慨した。

 その結果、翌十一月二十日、今村中将は激戦地ラバウルへの移動を命じられた。

 それと前後して、宣伝班員の帰国も延期されたのだが、それは今村中将の転任とは何の関係もない、別の理由からだった――


ーーーー第一部 ︎︎完ーーーー



                           (つづく)


(*20)「ジャワ作戦の印象」(うなばら新聞社「うなばら」、昭和十七年)

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