名探偵日色秀太郎と助手阿部知二はスマトラ島へ渡るの巻

   18、スマトラへ


 こうしてボゴール植物園の事件は、名探偵日色秀太郎とその助手・阿部知二ならびにボゴール植物園園長の中井猛之進の観察と分析、それに推理によって解決した。しかし、いかんせん決定的な証拠――つまり、物的証拠を欠いていた。そのため日色と阿部は事後処理を中井猛之進園長に一任し、ひとまずジャカルタに引き揚げることにした。

 ところがその一週間後、今度はジャワ憲兵隊本部から「丸宣」(通称はそのままだが正式名称はジャワ派遣軍宣伝班からジャワ軍政監部宣伝部に変わっていた)に正式に、日色・阿部への捜査協力の要請が舞い込んだ。スマトラに飛んで欲しい、というのだ。

 阿部はおろおろして、

「ひょっとして、事件の真相を知った僕たちをスマトラまで連れて行って口封じのために始末しようって魂胆じゃないでしょうね?」

「それはないでしょう」と日色は余裕しゃくしゃくと答えた。「始末するのならとっくにやっていますよ」

「ああ、そうか。そうですよね」

「ええ、そうです」

 とにこやかに笑ったものの、日色だって内心は阿部と同じことを案じていた。宣伝部と憲兵隊はそれまで比較的良好な関係ではあったが、ジャワ派遣軍司令官が今村均中将から原田熊吉中将に交替して、その関係が今なお維持されているのか、よくわからなかった。できれば断りたかったのだが、そうしなかったのは、もしそれで宣伝部と憲兵隊の関係がぎくしゃくしたら大変だと思ったからである。

 翌日、日色秀太郎と阿部知二はMC輸送機に乗ってスマトラ島へ向かった。同行したのは小熊少佐だった。

「最初に言っておくが、おまえたちに捜査協力を要請したのは本官じゃないからな」けたたましい双発プロペラの音に負けぬよう、小熊少佐は声を張り上げて言った。「決めたのは上の判断だ。名探偵の大先生に捜査に協力してもらえ、とな」

 小熊本人がその決定に不服なのが言葉の端々から伺えた。

 いずれにせよ、会話のきっかけが得られたので日色は思い切って、

「スマトラ行きの目的は何ですか?」

 と単刀直入に訊いてみた。

「スパルマン医師を逮捕するためだ」と小熊は答えた。

「容疑は何です?」

「陰謀罪だ。ダルマ・サントーソ医師と共謀して日本軍に対して陰謀を企てた」

 日色も阿部も、それは冤罪です、と異議を唱えたかったが、できなかった。憲兵隊に逆らうのはあまりにも無謀だし、だいいち日色と阿部がいくら論理的にその間違いを説破できたところで、小熊がはい、そうですかと認めてくれるとは思えない。理屈でかなわないのなら熱で、力で、頑なに押し切る人間には、何を言っても無駄である。それでも、スパルマン医師が無実の罪を着せられるのはしのびなかった。何とかしてあげたいが、何をどうすれば……?

 日色は気分転換に窓の外を見た。靄のようにけぶった雨雲の向こうに濃い緑のジャングルが広がっていた。ところどころ平らに均された区画があって、やぐらが建っていた。石油採掘場であろう。やがて行く手に開けた町が見えてきた。足元で飛行機の脚が降ろされる音がして、プロペラの回転音が低ピッチに変わった。飛行機は着陸態勢に入った。


 ジャンビ州の首府ジャンビ、パルメラ飛行場。

 驟雨の中、日色たちは外套を着け飛行機を降りると、待っていた車に乗り込んだ。

 幅十間(十八メートル)もある広い道は、パレンバン油田とジャンビ油田の石油輸送のために作られたジャンビ街道。舗装されてはいるがジャワ島の道路よりは劣る。路肩が緩く、水がじゃぶじゃぶ道に溢れていた。

 車内で小熊少佐がスパルマン医師の写真を見せてくれた。痩せたサントーソ医師とは対称的にぽってりした顔をしていた。

「こいつがどうやってボゴールから逃亡したか知ってるか?」

 と小熊が訊いた。

「いえ」

「女装して逃げたんだ。よりによって、赤十字の看護婦の格好で」

 可笑しくてたまらないという顔で小熊は言った。

 小熊によれば、スパルマン医師は身長一メートルくらいの顔に包帯を巻いた子供を連れていたという。その子供の治療という名目で、鉄道で西海岸のメラクまで行き、船でスマトラ島のバカウヘニに渡った。そこで女装を解き、車でジャンビ街道を北上し、ジャンビまで来たことが判っていた。

 なぜスパルマン医師がジャンビに来たのか――小熊少佐は、「ジャンビ油田の破壊工作を企んでいるんじゃないかな」と推理した。

 実をいうと、日本の南進作戦の最大の目的は石油など南方資源の確保であった。中でも、スマトラのパレンバン油田は、オランダ統治時代、年間産油量が当時の日本の年間石油消費量を上回っていたほどで、それを日本軍は落下傘部隊の奇襲攻撃によって奪取した。ジャンビ油田も同様で、パレンバン油田とジャンビ油田を合わせた南スマトラの原油生産能力は、昨年(昭和十七年)十一月の時点で、五百万キロリットルにも達していた。

「当然、連合国軍は油田を破壊したいに違いない」小熊少佐は続けた。「だが空襲しようにもズラリと並んだ防衛司令部の高射機関砲の餌食となるのは明らかで、だったら工作員を使って地上から――というわけだ」

 しかし、日色はそうは思わなかった。なぜなら、ここジャンビ州はオラン・ペンデクの母子が発見された場所だからだ。もしかしたらスパルマン医師はオラン・ペンデクの故郷を目指しているのかもしれない――。


   X   X   X


 小熊少佐がスマトラ軍政監部支部に行っている間、日色と阿部は町をぶらぶらした。ニューススタンドで「シナル・マタハリ(輝く太陽)」という新聞(*24)を見かけた。日色はジャカルタで会った歌姫・マタハリのことを思い出した。スマトラ島のどこかにいるはずだが元気にしているだろうか? そんなことを考えていたら、雨が止み、雨雲の合間に眩しい太陽が顔を出した。

 子供が物乞いにきて、阿部がチョコレートを恵んであげようとしたら、

「いかん!」

 と叱責する声がした。

 口髭を生やした日本兵で子供からチョコレートを取り上げると、阿部に突き返した。「甘やかしちゃいかん! 甘やかすとつけあがる!」

 そう言って、子供を容赦なく蹴り上げた。

 止めに入ろうと思ったが、子供が逃げていったので何もしなかった。

 憲兵隊のトラックが到着して、幌で覆われた荷台から若いインドネシア人たちが数人降ろされた。全員、顔に殴られた跡があり、ひどく流血しているものもいた。若者たちは憲兵隊員に銃を突きつけられ、軍政監部支部の中に連行されていった。

 入れ替わりに、小熊少佐が出てきた。呆然としている日色と阿部の顔を見て、

「どうした?」

「いえ、住民に対する扱いがジャワとは違って手荒いなあと思いまして……」と阿部が答えた。

「そりゃ、そうさ」と小熊少佐が言った。「ジャワは第十六軍だが、こっちは第二十五軍が管理しているからな。第二十五軍を知っているか?」

「マレー作戦を担当した軍ですよね」と日色は答えた。確か小栗虫太郎はその第二十五軍の宣伝班に配属されたはずだ。

「そうだ。その前は中国大陸にいたんで、向こうでやってきたことをここでもやっているわけさ」

 と小熊少佐は教えてから、

「そんなことより、スパルマン医師の居所がわかったぞ。スマトラ横断鉄道の測量士たちがバタンハリ川上流でジャングルの中に入っていく子供連れの男を見かけた、というんだ。スパルマン医師に違いない。もっとも測量技師たちの目には、その子供が猿に見えたらしいがな。軍政監部に頼んで一分隊つけてもらえることになった。さっそく明日から追跡だ」



                           (つづく)


(*24)同名の新聞はジョクジャカルタ、アンバンにもあった。スマトラ(パレンバン)のシナル・マタハリ新聞社には毎日新聞社会部の田代継男が編集を指導していた。(出典:「新映画 二月号」映画出版社、昭和十九年、p22および町田敬二「戦う文化部隊」、原書房、一九六七年、p107)

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