名探偵日色秀太郎はスマトラ島のジャングルに分け入るの巻
19、森の民(オラン・リンパ)
日色秀太郎、阿部知二、小熊少佐は駒井分隊長率いる小銃分隊総勢九名とともにモーターボートで泥色に濁ったバタンハリ川を遡って上流へ向かった。
スパルマン医師らしき人物が目撃された地点に上陸し、そこからは徒歩でジャングルの中を移動する。
蚊がぶんぶんつきまとうのに日色や阿部が閉口しているのを見て、
「蚊に刺されたくらいで何だ」
と小熊少佐が言った。
すると先頭をつとめる駒井分隊長が、「いや、蚊には注意してください。マラリヤやデング熱を媒介しますから」とアドバイスしてくれた。
「そうか。わかった」
「ジャングルは初めてですか?」と駒井分隊長に訊かれて、
「ああ。初めてだ」と小熊少佐は答えた。「貴様は?」
「クアンタンへの進撃でジャングルを横断しました。昼夜兼行、不眠不休で十日間」
「それは大変だったな」
「ええ、大変でした」
と答えて見せた駒井分隊長の笑顔はその大変さをまるで感じさせない、ほがらかなものだった。かなり年若い、おそらくまだ二十代と思われる、すらりとした長身の好青年である。
と、小熊少佐の首筋に上からぽとりと何かが落ちてきた。
「ん、何だ?」
その正体を見て、小熊少佐はみっともない悲鳴をあげた。
「へ、蛇だ〜!」
うろたえて蛇を振り払う小熊少佐を見て、小銃分隊の兵たちがせせら笑った。それを見て、
日色と阿部は小熊の二の舞いにならぬよう、おそるおそる頭上を見上げた。すくすくと生い茂る幹の太い巨木の葉叢が日の光を遮っていた。光は彼らのものだった。それ以外の貧弱な低木は暗い日陰で生きざるをえない。ジャングルでは動物だけでなく植物も熾烈な生存競争の中で生きていた。
ジャングルに分け入って三日目の夕方、日色たちは原住民の集落に辿り着いた。小さな草葺の
「この男を見なかったか?」
スパルマン医師の写真を見せて質問する小熊少佐の日本語を、蒼白い、痩せ細った顔の萩野伍長がマレー語で通訳した。言葉が通じたのかどうかはわからないが、反応がないところを見ると、見た者はいなさそうだった。
「ちっ」
と小熊少佐が舌打ちした時、がさがさと音がして、繁みの中から、背中に籠を背負った原住民と、青い目に薄茶色の髪の毛の背の高い男が現れた。
兵たちは条件反射的に男に銃を向けると、男は無抵抗の意思表示でホールドアップした。
駒井分隊長が抑揚のない英語で訊いた。「フー・アー・ユー?」
男は答えた。「I am Donald Mackenzie Jr.,」(*25)
「アー・ユー・イングリッシュ?」
「No! I'm a Scottish.」
「ス、スカーリッシュ? ……英国人じゃないのか? ホワット・アー・ユー・ドゥーイング?」
「I live in the forest with them.」
「う、うーむ……」
駒井分隊長が苦労しているようなので日色が助け舟を出した。「彼らと一緒に森で暮らしている、と言っています」
「そ、そうか」駒井分隊長は額ににじんだ汗を手の甲で拭って、「日色さん、よかったら通訳してください」
「わかりました」
「まず、なぜ彼らと一緒に暮らすことになったのかを」
日色が質問すると、最初、ドナルド・マッケンジー・ジュニアは返事を躊躇した。しかし、大入道のように大柄な玉井一等兵に自動銃で小突かれて、しかたなく答えた。
「最初は調査のためでした」とドナルド・マッケンジー・ジュニアは英語で答えた。「ラッフルズ博物館の研究員としてオラン・リンパの調査にあたっていました――私の言葉が理解できますか?」
「もちろん」と日色は答えて、駒井分隊長に日本語に翻訳して伝えた。
「オラン・リンパとはマレー語で〝森の民〟という意味です。クブ族の中でも最も原始的な部族。私は彼らと共に生活するうちに、文明社会と隔絶した彼らのライフ・スタイルにすっかり魅せられてしまいました。今では私もオラン・リンパの立派な一員です。それより銃を下ろすように言ってくれませんか。手が疲れてきた」
日色がそう伝えると、桜井軍曹がドナルド・マッケンジー・ジュニアの身体検査をして、武器を隠し持っていないことが確認されたことで、ようやく警戒が解かれた。
それから食事の時間となった。
オラン・リンパの食べぷりを見て阿部が漏らした。
「何だか具合が悪くなってきた……」
阿部がそういうのも無理はない。オラン・リンパが食べているのは腐りかけの肉だったからだ。ドナルド・マッケンジー・ジュニアも同じものを平気で食べている。
「オラン・リンパは食べれるものなら何でも食べます。鹿、猪、蜥蜴、野生のヤムイモ」とドナルド・マッケンジー・ジュニアは解説してくれた。
もちろん日色たちはそんなものを食べたら腹を下すので携行していた牛缶(牛肉の大和煮)を食べていた。
ドナルド・マッケンジー・ジュニアは話を続けた。「彼らを含みクブ族は、一九三〇年の統計によると総数一六二三人と言われています。もっとも定住している者はマレー人に含まれるし、移動している者は統計を取れないので、正確な数字はわかりません」
もみあげの濃い井手二等兵は子ども好きなのだろう、人なつっこい笑顔をたたえて、オラン・リンパの子供たちに、「おじさんが日本の歌を教えてあげよう。いいかあ」井手二等兵は身振りを交えて歌い出した。「鉄砲かついだ 兵隊さん、足並そろへて 歩いてる。とっとことっとこ 歩いてる。兵隊さんは きれいだな。兵隊さんは 大すきだ」(*26)
歌い終えて、「よし、次はみんなで歌おう」と子供たちに呼びかけたのだが、子供たちは走って逃げ出してしまった。井手二等兵がしょげたのを見て、ドナルド・マッケンジー・ジュニアが日色に言った。
「彼に教えてあげてください。あなたが悪いんじゃない。オラン・リンパの子供たちはじっとしているのが苦手なだけです、と」
「戦争が嫌いなのかと思いました」と日色が冗談を言うと、
「嫌いも何も、戦争を知らないんです。他の部族との接触がありませんから。だから日本とイギリス、オランダが戦争していることも知らない。いや、日本やイギリス、オランダが何なのかもわからない。国家という概念がないんです。彼らは定住せず、ジャングルの中を移動して暮らしています。だから土地に執着することはない。誰かが死んだら埋葬もせず、別の場所に移動して、死骸は野獣の食べるままにまかせます。彼らには死後の世界がないんです」
「とてもユニークな生き方ですね」
と日色が言うと、ドナルド・マッケンジー・ジュニアはにっこりと笑った。
「そうなんです。でも、それが本来の人類の生き方かもしれない……」
翌朝、日色たちはオラン・リンパの若者の大声で眠りから起こされた。
「ハントゥ・ペンデク!」という単語が聞き取れたので、何のことですかとドナルド・マッケンジー・ジュニアに訊くと、
「Hantu Pendekは〝背の低い幽霊〟という意味です」
日色はいっぺんに目が覚めた。オラン・ペンデクのことに違いない。ドナルド・マッケンジー・ジュニアを介して詳しい話を訊くと、ハントゥ・ペンデクを連れた男が西南のマスライ山の方へ歩き去ったというのである。
「阿部さん。スパルマン医師とオラン・ペンデクが見つかった。追いかけよう」
と阿部を起こしに行ったら、阿部は赤い顔をしてうんうん唸っていた。
「どうした、阿部さん!」
額に手を触れると高熱で、体温計で測ると四十度もあった。
「デング熱です」とドナルド・マッケンジー・ジュニアが言った。オラン・リンバたちがEurycoma longifolia(和名はナガエカサ)で薬を作ってくれたのでそれで治療することになった。
「阿部さん」意識朦朧で伝わるかどうかわからなかったが、日色は阿部に語りかけた。「急いでスパルマン医師を追いかけないといけないので我々はあなたをここに残して出発します。西部一等兵がついていてくれるので、治ったら一緒にジャンビまで引き返してください」
そして、日色たちは西南へ移動を開始した。
(つづく)
(*25)楽屋落ちですが――筆者が高校時代、学校の機関誌に掲載した短編推理小説『ホワイトベル殺人事件』に出てくる探偵がドナルド・マッケンジーでした。時代がヴィクトリア朝なのでその息子という設定です。(ちなみに授業中に書いていたショート・ショートのミステリ・シリーズの主人公は小熊警部。小熊少佐との血縁関係は不明です)
(*26)文部省唱歌『兵隊さん』
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