トロッコ問題 別解

海の字

トロッコ問題 別解

「トロッコ問題について考えようと思う」

 

 僕の恋人は唐突に変なことを話し始める癖がある。

 もう慣れたものだ。快く乗ってあげる。


「君は今、制御不能となった暴走トロッコに乗っている。まずいことが起こった。Aのレール上では、いまだ五人が点検作業を行なっていたのだ。このままでは五人全員を轢いてしまうことになる」


 五人が死んでしまうAレール。


「一方でBのレールには一人の作業員がいる。操縦者はAのレールからBのレールへと分岐するスイッチを押すことができる」


 一人だけのBレール。


「君はこのまま五人を見殺しにするか? はたまた五人を救うために、一人を轢き殺すか? 有名な哲学問題だね」


 恋人は訴えかけてくる。君ならどちらを選ぶかと。

 考えるまでもなく僕の中で答えは定まっていた。


「Bのレールを選ぶよ。命の重さに優劣をつけないのなら、当然より多く救える方をとる」


 大多数が僕と同じ意見だろう。普遍的な答案だ。

 だが僕の恋人は変人だから、すこし変わった見解を述べた。


「では、命に優劣をつけてみるとしよう。Aの五人は赤の他人。Bの一人は君の大切な友人や、家族だったとする。君ならどちらを選ぶ?」


 深く考える。自分の深層をまさぐる。


「……Aのレールを選んでしまうかもしれない。五人には申し訳ないが、僕には親しい人を切り捨てられる勇気がない」


「優しいね。なら、五人ではなく百人なら? 一万人なら?」


「……」


「全地球百億人なら、君はどちらを選ぶ?」


 しばらく答えることができなかった。相応の覚悟が必要だったからだ。


「自分の個人的な感情のために、人類を滅ぼすことはできない……」


「ありがとう。あなたがそう答えてくれる人でよかった」


 僕は言わなかった。言えなかった。もしもその一人が、愛する恋人の君だったのなら。僕はきっと、地球を滅ぼしてでも君を救うだろうと……。


 この話をしていたら気が滅入る。僕は話題を変えるために質問した。


「AもBも赤の他人だとして。君ならどちらを選ぶのさ」


「んー。このまま五人を轢けば、おそらく事故死として処理されるはずだよね。一方でBのレールを選んだ場合、そこには『選ぶ』という操縦者の意思が介入することになる。操縦者自らの意思で、『一人を殺した』というね」


 操縦者の選択が犯罪に当たるかどうか、と言う観点だろうか。


「後者であっても殺人罪には問われないと思うよ。トロッコ問題はやむを得ない不慮の事故だ。事実、緊急時において医師などのトリアージ行為は是正されているじゃないか」


「話をすげかえるのはよくない。私は犠牲者の優先順位ではなく、操縦者の心について話ているんだぜ。一人を自らの手で『轢き殺す』のか。五人を悲劇的な事故として『見殺す』のか。どっちが心理的負担が軽いんだろうね」


 彼女は優しいから。犠牲者の方でなく、操縦者の心に寄り添っている。


「私ならAを選ぶかもしれない。Aならどうにか自分に言い訳できそうだ。君はどう思う?」

 

 彼女も客観的に見ればBを選ぶのが正解だとわかっている。でも僕たちは人間だから、ことはそう単純な話でないのだ。


「どちらであっても後悔の念に苛まれるだろうね。トロッコ問題に巻き込まれた時点で負け戦だ」


「だよねぇ。私、この問題、昔から嫌いだった。ちょっと理不尽だと思わない? まずもって『AとB、さぁどっち?』っていう姿勢が気に入らないの。まるで二択しかないみたいに」


「というと?」


「他にももっとあると思うんだよね。誰も殺さずに済む方法とか、誰も後悔せずに済む方法とか。だからね、私と一緒にそれを考えて欲しいの」


 ようやく建設的な話ができそうだ。僕も本腰を入れて思考する。


「トロッコ問題に、別解があるとしたら、なんだと思う?」


「絶対に有り得ないと言う前提の上で話すのなら、『もう一周することで六人全員を轢き殺す』。これなら操縦者の心理的負担は軽いだろう」

「操縦者がサイコパスの場合にかぎりそうだろうね。大量殺戮で死刑だよ。死者は七人だよ! なんで一番初めにそんな答えが思いつくのさ……」


 冗談はさておき、真面目な回答も述べる。


「AとBにランダム性を持たせてみてはどうだろうか。例えば分岐スイッチを連打することで、『選ぶ』余地をなくす。五人が生き延びれば運が良かった。死ねば運が悪かった。そう自己解決できるかもしれない」


「面白い。ただ、その程度で自己解決できる楽観的な人なら、初めからBを選んでも問題ない気がする」


 言われてみれば確かにそうだ。なかなか人の心とは度し難い。

 

「操縦者が自殺するのはどうだ? 選ぶのはAでもBでもどちらでもいい。死ねば問題のストレスから解放され、『操縦者』の観点を排除することができる」


 意地悪な答えだと思う。彼女は『操縦者』の気持ちを慮ってAを選んだ。その善意自体を無かったことにする。


「素晴らしい答えだ。とても後ろ向きで、けれど決定的に的を得ている。だからほんの少しエッセンスを加えてみよう」


 自殺。彼女は悲観的な僕の言葉を捻じ曲げた。


「自己犠牲さ。操縦者自らの命を賭すことで、五人どころじゃない。六人全員を救うことができるかもしれない」


 A 五人。B 一人。彼女は別解を導き出した。


 C 操縦者一人。


「レールの分岐点を通過する瞬間、操縦者がスイッチを操作し、故意にトロッコを脱線させる。操縦者は死んでしまうだろうが、他を助けることができる。技術的な問題でこれが不可能なら、自らトロッコの下敷きになることで、ブレーキの役割を果たせばいい。仮に失敗したとしても、君の言う通り操縦者の心理的負担はきえる」


 成功すれば操縦者は死後、英雄としてもてはやされる。


 僕は悔しくてならなかった。やはり誰かが犠牲にならないといけないのかと。


「認めない。僕はそんな方法……」


「全員が救われる方法はない。地球を救うためには、誰かが犠牲にならないといけないんだ」


 嫌だ。嫌だ。そんなの嫌だ!


「だからって、君が英雄になる必要はないだろう!!」


 叫ばずには。慟哭せずにはいられなかった。


 数十億万キロ離れた星間通話ですら、彼女の強い覚悟と決意を感じ取れてしまったからだ。


「それが地球を救うためだとしても?」

「だとしても!!!!」


 地球は今、史上稀にみる危機に直面していた。

 太陽系外から突如として侵入してきた巨大隕石が、数ヶ月後地球に衝突するからだ。


 傍受したのは彼女が単独で乗る有人探査機『震電』。


 僕の指揮する火星基地のスーパーコンピューターで、隕石の軌道を計算すると、99%の確率で地球に直撃すると出た。


 火星や地球に設置された隕石迎撃ミサイルでは刃が立たないデカさだ。

 他のどんな方法でも間に合わない。


 地球を救う、たった一つの方法——。


 核融合炉をもつ震電が、隕石に特攻し自爆するしかない。


 それでも反らせる軌道はマイクロミリメートルに過ぎないだろうが、地球との距離を考えれば十分だった。


 彼女が死ぬしか、地球を救う方法はない。


「英雄になるつもりはない。私はね、あなたを救いたいだけなの。あなたの帰る場所を、心を! 守りたいだけなの。だからお願い、震電の制御を解除して」


 震電の操作は今、火星基地のコントロールパネルで行っている。

 特攻しようとした彼女の操作権を僕が奪いとったのだ。


 今頃特攻を命令した国連は大慌てだろう。

 僕は有史以来の大犯罪者となった。

 なにせ地球を滅ぼそうとしているのだから。


「君のいない地球に、僕の帰るべき場所はない。君がいないと意味がないんだ。僕には君が必要だ」


「そのために地球を捨てると言うの?」


「たとえ全人類をこの手で殺したとしても、僕は君一人を救いたい」


「うん、知ってる。そんなあなただから、私はあなたを好きになったんだもの」


 カメラに映し出された彼女は泣いていた。

 けれどとても幸せそうに笑っていた。


 その手には拳銃をもっていた。


「やめろ、やめてくれ」

「私、トロッコ問題でAを選んだ。五人を殺してでも、操縦者の心を救いたかった。悪いやつなんだ」


「たのむ、お願いだから」

「私は操縦者に。あなたに。誰も殺してほしくない。後悔や、罪悪感を抱いてほしくない。新しい未来を生きて欲しいの」


「やめるんだ!!」

「私は大嫌いなクソ問題に、別解を提起する。数億万キロ離れた、たった一人だけのBレールを——」


 激鉄を起こす。額に当てる。


「誰もいないレールにする」


 彼女は言った。


 誰も殺さずに済む方法。

 誰も後悔せずに済む方法を考えたいと。


『Bレールの一人が自殺すれば、レールは無人となり、操縦者は誰も殺さずに済む』


「操作、ミスったらダメだよ。ちゃんと前を向きなよ。どうか地球を救ってね」


「やめてくれ!!」


「愛してる」


 ツー。ツー。


 通話が途絶える。

 パネルに映し出された恋人の生態反応がなくなる。

 震電は無人になった。


 後悔はない。罪悪感もない。

 愛だけがただ重かった。惑星の引力以上に。


 彼女は全地球と。

 僕の心を救ったのだった。

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