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大学生になったらバイトを始める者がほとんどだと思う。飲食、ガソリンスタンド、品出し、レジ打ち、塾講師がメジャーなところだ。人によっては会社を興したり、モデルをやったりする人もいる。そういう花形の仕事は選ばれた人間がやることが多い。


俺が選んだのは家庭教師だ。勉強は嫌いじゃないし、なんなら得意な部類だ。


同じ教育分野でも塾講師を選ばなかったのは生徒の質だ。言い方は悪いが、塾に来る子よりも、家庭教師を選ぶ家庭の方が豊かだ。時給の違いからも明白だ。そうなると、子供も礼儀正しかったり、素行に問題はない子が多いと予測した。


まぁ、それでも問題児とぶち当たったら、それはそれだ。その時は運が悪かったと諦めてしっかり指導して、キリが良いところで逃げよう。


「で、着いたわけだが…」


タワマンだ…


目的地を何度も見返すが、ここを指している。東京の一等地で一番高いタワマンだった。もう既に帰りたくなったが、初日からバックレるわけにはいかない。エントランスに入ると、予め言われていた部屋の番号のインターホンのボタンを押す。


ボタンを押すだけで緊張するなんて初めてだぞ…


『は~い』


「あの、今日からお世話になります。高坂氷真です」


『あら!先生ですね。上がってきてください』


「はい」


エレベーターに乗ると、フロアは指定していないが、勝手にそこに向かっていった。ボーっと表示される階数を見ていたが、20階を超えたあたりで数えるのをやめた。エレベーターを降りて、部屋に向かうと、目の前に金髪碧眼の外国人美女がいた。サイドテールにしていて、ニコニコとこちらを見ていた。


「はじめまして、アイラ=エバンズです」


「あ、はじめまして。高坂氷真です。よろしくお願いします」


見た目が完全に外国人の方が流暢に日本語を話したのでびっくりしてどもってしまった。サラリーマンのように何度も下げてしまったのは日本人らしさということでご愛敬。ただ、気になることが一つだけある。


「あの一つ良いですか?」


「はい、どうぞ」


屈託のない笑顔を向けられると俺も少しだけ赤面してしまう。


「アイラさんと言いましたよね?確か『月乃』さんだったと思うのですが…」


「ええ、『月及』ですよ?」


「え?でも、アイラさんとおっしゃいましたよね?」


「私?」


「はい」


俺が受け持つ生徒がハーフだというのは聞いていた。日本の大学に進学しようにも、国語の成績だけあまり思ったような成果が出ていなくて国語を教えられる先生を探しているという話を聞いていた。


まさかここまで外人だとは思っていなかったが…


すると、少しだけ目をぱちくりすると口を抑えてアイラさんがクスクスと笑っていた。


「ふふ、先生ったら、勘違いしてますよ」


「え、何がです?」


「私は月乃の母親です」


「え?」


母親?ハハオヤ?


「ふふふ、愉快な先生ですね。私、高校生に見えますか?」


「え、ええ。むしろ俺よりも年上ということに驚いています」


高校生にしては大人びてるなぁと思ったけど、違和感はない。


「もぉう、先生ったら、口がうまいんですから。人妻の私を口説いてどうするんです?口説くなら月乃ちゃんにしてくださいよぉ」


「いえ、口説いてはいませんが…」


後、口説く気もありません。


生徒に手を出したら、一発退場だし、そんなことがあるのはフィクションの世界だけだ。


少しだけトラブルが重なったがアイラさんから好印象なのは良かった。親御さんに嫌われては色々やりづらいし、何かと大変だ。


俺は部屋に入れていただくと、中はいかにもセレブといった感じの部屋だった。そして、『月乃』という可愛らしいネームプレートがかけられた部屋の前に着くと、アイラさんがノックをする。


「ママ?な~に?」


「家庭教師の先生が来てくださったわよ」


「ああ…忘れてた」


ドア越しなのに、ため息が聞こえてきた。もしかしなくても歓迎されていないのだろう。さっそく仕事のハードルが高くなった。こういう時、第一印象が悪いと終わる。そして、口コミに低評価を付けられると、家庭教師としての俺は終わる。


扉を開くと、とてつもない美人が現れた。銀髪碧眼の超絶美少女だ。日本とイギリスの良いところだけ集めてくっつけたような美少女だ。アイドルだと言われても、何の不思議もない。これで高校3年生だと言うのだからとてつもない。俺と1個しか違わないのに、全く別の人間だと感じさせられた。


ただ、悲しいかな。その長くて綺麗な銀髪をいじりながら、不機嫌そうにしているのを見ると、俺は仕事のハードルが上がったような気がして、残念でならない。


「はじめまして、高坂氷真です。これからよろしくお願いします。エバンズさん」


「はいはい、月乃・エバンズです。短い間だけど、よろしくお願いしま~す」


俺の精一杯の笑顔は無視された。柳瀬川には「こっちを見ないで頂戴」と言われていたので、俺の笑顔は見るも無残なものなのだろう。悲しい。


「月乃ちゃん、ちゃんと挨拶しなきゃダメでしょ?先生、すいませんね?うちの子ったら本当に…」


「いえ…」


アイラさんが嗜めてくれるが、俺はもう既に帰りたくなっている。本当に俺は運が悪い。


「私には家庭教師なんていらないって言ってる…え?」


俺が挨拶している間、全くこっちを見てこなかったので、天井を仰いでいた。まずは信頼作りから始めないと、何もうまくいかない。嫌いな人間に言われたことを進んでやりたいと思うだろうか。そんなことはない。


ただ、この子がそもそも家庭教師を必要としていないなら、話は別だろう。すぐにクビにされるかもしれない。


いい生徒であればいいなぁと思ったが、いきなり大外れを引いてしまったような気分だった。本当に俺は運が悪い。


「ねぇ先生…」


「ん?ああ、失礼。なんでしょう」


月乃さんと目が合うと驚愕していた。何か幽霊でも見たようなそんな感じだった。そして、


「会いたかった…!」


「え…?」


「あら?」


俺の胸にダイブしてきた。顔をぐりぐりと胸に押し付けられて、俺は向かい側の壁に追い込まれた。今までの人生経験が緊急時において、理性的に行動させてくれた。両手を上に挙げて俺はノータッチ主張する。彼女が勝手に突っ込んできただけだ。俺は何も悪くないはずだ。


ところで、これはどういう状況ですか?


━━━


「エバンズさん」


「氷真先生、そんなに他人行儀な態度をとらないでくださいよぉ~、私のことは『月乃』と呼んでください」


「それじゃあ月乃さん「月乃」…月乃」


「なんですかぁ?」


無理やり名前を呼ばせておいてその屈託のない笑顔は一体何なのか。抱き着かれて俺はクビを覚悟したが、俺はすぐに月乃の部屋に連れ込まれた。アイラさんも「月乃ちゃんをよろしくお願いしますね~」と言って来た。


それでいいのかと思ったが、最悪の未来からは逃れたわけだから、俺はしっかり指導をしようと決めた。


…のだが、


「距離近くない?」


月乃の実力が知りたかったので、俺が用意した自作のテストを解かした。俺と月乃は隣同士で座っている。俺が離れようとすると、なぜか寄ってくるし、そして、離れてを繰り返すと丸テーブルを一周して元の場所に戻っていた。


「気のせいですよぉ。それよりどうでした?」


アイラさんに似てナイスバディだから、密着されるとマジで困る。


「テストの方は流石の一言かな」


「やったぁ!氷真先生のおかげです!」


「まだ、何も教えてないんだけど…」


国語ができないって聞いていたのだが、基礎はなっていた。ただ、外国暮らしが長いのか、文章読解で気になるミスをしていた。それさえ改善すれば、すぐにでも成績は上がるはずだ。


「勉強は終わりですか?」


「今日は実力を測るのが目的だったからな。この結果を元に月乃に合う最適な勉強法を分析して…って、どうしたんだ?」


月乃の方を見ると、頬を抑えてくねくねしていた。


「いえ、私のことを隅々まで分析して、私の弱点をあぶりだそとしていると思うと興奮しちゃって。氷真先生はむっつりスケベさんなんですね~」


「何言ってんの…」


「でも、そういうことなら私のことをもっと知ってもらう必要がありますね~。出生から趣味嗜好、将来の夢と、それからスリーサイズもですかね」


「いや、いらないんだが…」


「え!?私のスリーサイズですよ!?男子だったら垂涎物の情報じゃないんですか!?」


「…気にならないよ?」


「…先生って以外と素直ですね~」


ニヤニヤと笑っている月乃を見ていると、最初の頃のお堅い令嬢はどこに行ってしまったのだろうか思う。今はウザ可愛いキャラで俺を困らせに来ていた。


「なぁ…」


「スリーサイズが気になるんですか?」


「違う!俺を誰かと勘違いしてるんじゃないか?」


「はい?」


「俺は月乃と会ったことがないし、こんなに懐かれるようなことをした記憶がないんだ」


俺はハーフの年下の美人の知り合いなんていない。そもそも、これだけ美人なら覚えていないはずがない。となると、月乃が人違いを起こしているという推測が成り立つ。


「いえいえ~、氷真先生とは運命の出会いをしていますよ~。しかも今年」


「うそん…」


今年…と言われると余計に分からない。今、4月も半ばだからこの4か月中に月乃と俺は出会ったことになる。そもそも人とほとんど関わってこなかったから一般人に比べて出会った人の数は少ない。それなのに、なぜこんなに覚えていないのだろう。


「冗談だと思っていたんですけど、私のことを本当に覚えていないんですね…も~」


「あざといし、ごめん」


「あざといって何ですか!?」


ジト目でぷんすかと怒るがあざと可愛い、略して『あざかわ』という感想と素直に謝罪の気持ちしかない。


「ごめんって。けど、あんまり怒らない方がいいぞ?可愛い顔が台無しだからな」


「え?」


ぽかんと口を開けて、俺を見たかと思うと、向こう側を見て、髪を指でいじり始めた。


「ありがとうございます…先生って天然たらしなんですね」


「どういたしまして。後、天然たらしってなんだ?」


「いえ、そんな感じで女の子を扱っていたら、いつか刺されますよという警告です」


「なんだそれ…」


姉さんや時和ちゃんからも同じようなことを言っていた気がするが、俺は断じて誰彼構わず、女性を口説くようなことをしたことがない。とてつもない風評被害だ。


「まぁ、私のことは氷真先生がしっかり思い出してくださいよ?これ以上のヒントはあげませんからね?」


「ええ…それなら無理に思い出す必要もないし気にしないことに「ぜ・っ・た・い・で・す・よ?」…はい…」


最後に凄みのある笑顔を見せられて、家庭教師の一日目を終えた。


帰るときに、月乃がアイラさんに耳打ちすると、とても驚いていた。そして、俺を見ると「娘を末永くお願いします」とアイラさんに言われた。


『末永く』って何だ?

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