高坂氷真との出会いは高校の時だ。私、柳瀬川凛音とヒョウは同じ将棋部に所属していた。私はこの界隈では有名人だった。中学の頃は女子だけの大会ですべて優勝してきたし、容姿もそれなりに良かったので、女流棋士にならないかと誘われ続けていた。


女流棋士には興味がなかったし、私にとって将棋はガチで遊ぶゲームだ。それ以外の何物でもないし、それ以上の価値もない。


ただ、高校に入った時、私は将棋部に入ったことをさっそく後悔した。一つは私の容姿目当てのチャラ男たちが将棋部に入ってきたことだ。十人入れば御の字と言われる将棋部で二十人近い男子が集まった。それだけなら快挙なのだが、全員本気でやる気など微塵もない。


毎回のように私を遊びに誘いにくるし、将棋盤を椅子にされたときなど本気で腹が立った。帰宅部になることも考えたが、ここで逃げたら負け犬になると思ってしまった。私はこれが将棋で強くなるための試練だとポジティブに考えて、無視することにした。


将棋盤とにらめっこをして、棋書を読む。もちろん対局を求められれば対局するが、如何せん私は強すぎた。一回倒してしまえば、対局しようなどとは一生思わない。男は面子で生きる人間だ。女に完膚なきまでに倒されたのはプライドが許さないのだろう。毎度のように「今日は調子が悪かった」と言われると鼻で笑ってしまう。


そうして、邪魔者を処理していくと、いつもは目に留まらなかった人間が浮かび上がってくる。それがヒョウだった。私と同じ、いや、それ以上に将棋に熱中していた。私はそんなガチ勢に少しだけ興味を持って話しかけることにしたのだが、


「え~と、誰?」


まさかの存在すら認識されていないということにショックを受けると同時に、この人は私に微塵も興味がなく、ただ将棋が指したくて来ているのだということを知って少しだけ嬉しくなった。自己紹介をすると、


「ああ、猿山の姫か。そういえば随分、人がいなくなったけど、君はやめないの?」


訂正、ぶっ殺す。


初めて話した相手に、十連勝した。


━━━


やりすぎた…


いくら無遠慮な物言いにムカついたとしても、初心者相手に無双するのは大人気なかった。もう部室に来ないかもしれないと思うと、少しだけ罪悪感を感じたが、その心配は杞憂に終わった。部室に行くと、昨日と同じような姿勢の彼がいた。


昨日の負けた盤面を分析していた。よほど悔しかったのか、何回も盤面を動かしては戻すのを繰り返していた。私が部室に入ったことにすら気が付かないのだから、相当な集中力だ。だから、私は彼の対面に座って、最善手を指す。すると、顔を上げてビックリしていた。


「私に勝ちたいなら、私と対局するのが一番良いでしょ?」


私に負けた人間は私に勝とうとすることを諦める。だから、少しだけ彼に興味を持った。彼はう~んと唸るとポンと手を叩いた。


「よろしくお願いします。え~と、オタサーの姫様」


その後、私は二十連勝した。


━━━


この人に記憶力はあるのだろうか?


私が何度自己紹介しても、彼は間違える。本当に私に興味がないということが分かると、嫌でも名前を言わせたくなる。


「私の名前は柳瀬川凛音よ」


「あ~また負けた。独身アラサー女の中身のない話みたいなうるさい攻めをされたら勝てないって…」


「話を聞きなさい。後、腹が立つ例えはやめて頂戴。ぶっ殺したくなるから」


「バーゲンセールで奪い合う主婦みたいな力強さだ」


「そろそろ口を閉じないと本気で殺すわよ?」


「こわ」


わざとらしいジェスチャーをするが、本気でどうでも良いと思っている表情をしていた。初めて会話してから半年近く経つが、全く名前を言う気がない。それどころか軽妙な態度で私を挑発してくるのだ。この辺りから彼は意外と負けず嫌いだということが分かってきた。


私にコテンパンに負けたときほど、その態度が酷くなるからだ。私も私で負けず嫌いだから意地でも名前を言わせたくなってムキになっていた。


「それじゃあ、高柳さん、さようなら」


「柳瀬川よ。いい加減覚えろやコラ」


「ヒ~怖いよ~(棒」


━━━


そんな奇妙な関係を一年近く続けていると、ヒョウの実力がメキメキとついてきた。家に帰ってもネット対局、授業中も机の下で対局、放課後になったら部室で将棋、そんなことをずっと繰り返していれば強くなるには違いないのだが、冬のある日、私は初めてヒョウに負けた。


「ま、負けました」


私は負けたことが信じられなかったが、頭を下げた。これは将棋におけるマナーであり礼儀だ。信じられなくても、負けを身体が覚えていた。


「うおっしゃ!fuuuuuu!」


目の前の男はそんなことも知らずに興奮し続けている。私は流石に困惑した。


「あの「よっしゃあああ!」」


「感想戦を「これが百折不撓の精神じゃあああああ!」


「そろそろ黙れ」


「はい…」


借りて来た猫のように一気に大人しくなる。それでも嬉しさが隠せないのか、ソワソワしていた。感想戦という対局後に行う見直しや意見交換の場でも心が浮ついていた。普段無表情の彼からは想像もできないほどだった。


「…そんなに嬉しかったのかしら?」


「当たり前だろ?柳瀬川・・・に勝ちたくて、この一年間過ごしてきたからな」


「え?」


「いやぁ、頑張ってきた甲斐があった」


私はさっきまで負けていたことを忘れてしまった。一年間通してずっと言わそうと思っていた言葉が聞けた。


「今、名前で呼んだわよね?」


「名前…あ」


やらかしたという表情だった。そして、私から顔を隠すと、


「呼んでないよ?」


「嘘つかないで!私の耳は捉えたわよ?」


「気のせいだよ。それより耳が遠くなるのはまだ早いよ?」


「ブチ殺す!」


そんな感じで言った言わなかった論争を小学生みたいに繰り広げた。そして、


「分かった。言いましたよ言った。なんか女の子にボッコボコにされて腹が立って、意地になってました。すいませんでした」


「反省の色が全く見えないわね。…本当になんでこんなくだらないことで熱くなってたのかしら」


「俺は熱くなってないよ?リネさんが毎度のように、俺に自己紹介してくるから、名前を呼ばないでっていうフリなのかと思ってた」


「もう、どうでもいいわ…ん?リネ?」


なんでそんな呼び名でって思ったら、私の名前、『凛音』から取ったのだろう。意地でも名前で呼ばないというくだらない拘りを感じた。


「貴方、面倒くさいって言われない?」


「生憎、俺はボッチなんでね。面倒だって言ってくれる人はいないんだ」


「急な自虐はやめて頂戴。それなら私もヒョウと呼ばせてもらうわ」


「…面倒くせぇ女」


「何か言ったかしら?」


「いや、そっちこそ俺のことを一生名前で呼ばないのかなって思ってさ」


そういえば私も彼のことを名前で呼んだことがなかった。というか異性を下の名前で呼んだことがなかった。私は常に自分が上位で挑んでくる人間を常に返り討ちにしていた。だから、私が人を認めることはほとんどなかった。


そんな私に一年間以上挑み続け、ついに勝利した。並大抵のことではない。本人には言わなかったが、さっきのガッツポーズに少しだけ見惚れてしまった。


「それじゃあリネ。これからは俺の下僕として働いてくれよ?」


「は?」


「いやぁ勝者が敗者の言うことを聞くのは常だよなぁと思ってさ。とりあえずこれでパンを買ってきて?」


そういって私にお金を渡してきた。あまりにも調子にのったその表情にさっきまでの気持ちは消えた。それよりもこのカス男をぶっ潰す。そう決めた。勝者が敗者に言うことを聞かすというのなら、これからは常に勝者として君臨しよう。


とりあえず、私はこの後十連勝した。


泣いているヒョウを見てざまぁ見ろと思った。


今、思えばあの頃が一番楽しかったのかもしれない。その一年後、私は取り返しがつかないほどの傷をヒョウに負わせてしまう。


━━━


学校を出ると、すぐそこに駅がある。学校と駅の距離がほぼゼロなのは本当に便利で助かる。高校時代は駅と学校の距離が1kmあったから本当にありがたい。改札を通って、ホームにたどり着くとさっきのことを思い出してしまう。


俺は捨てられたはずだ。使えない人間だと落胆させたはずだ。それなのになぜ柳瀬川はあんなに苦しい表情をしていたのだろうか。俺に対して罪悪感を抱いているのであれば、それは見当違いだ。すべてにおいて俺が悪いのだから、何も感じる必要はない。


ただ、俺と同じ学校というのは意外だった。柳瀬川とは三年の時からほとんど交流がない。というか俺が一方的に避けていたというのもある。柳瀬川は成績はうちの高校でもトップクラス。東大に入ると言う噂があったのだが、なんの因果か格下のうちの大学に来ていた。受験が失敗したという噂は本当だったのだろう。


柳瀬川も運が悪い。よりにもよって俺と同じ学校で同じ学部学科。しかもゼミまで同じときた。神様が悪戯したとしか思えないほど不憫だった。流石に可哀そうだし、ゼミを変えよう。姉さんには言えば分かってくれるはずだ。別の形で借りは返せばいい。


ドン


「ん?」


考え事をしている俺の意識の間隙を縫って、背中に何かが当たった。後ろを振り返ると、そこにはザ・大学生と言った様相の女子がいた。肩くらいまで髪を伸ばし、髪の中間から毛先に向けてゆるくパーマがかかっていた。見た目は大人だが、俺の勘だと彼女は俺と同じく新入生だ。


ただ、よくわからないが俺をずっと睨んでいた。こういう時は大体俺が悪い。俺は軽く頭を下げて、イヤホンを耳に付ける。そして、車両を変えるために、ホームを移動しようとする。しかし、俺は手を取られてしまった。


「久しぶり、氷真」


「は?」


俺は何を言われているのか分からなかった。


「私が誰だか分からないの?」


訝しむ視線を受けて、なんとなく罪悪感を感じてしまう。美人ってこういう時に得だよな。


「はい。俺の記憶には貴方のような美人はいません。氷真違いだと思います。それじゃあ」


「待って!」


「ぐへ」


「あ、ごめん」


襟を掴まれてカエルのような声をあげてしまう。一応すぐに手を離してくれたが、ホームにはたくさんの人がいる。注目されてしまってとても罰が悪い。


俺はジトっと謎の女を見るが、腕を組んで俺を見ていた。その尊大な態度には見覚えがあった。そして、これ見よがしにため息をついた。その癖はずっと昔から見てきたものだった。すると、過去の彼女とすべてが重なった。


「朝霞?」


「…久しぶり。元気だった?」


少し俯きながら、申し訳なさそうに俺を眺める幼馴染、朝霞美桜あさかみおがいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る