8
講義が終わると、俺はさっそく花園教授に連行された。場所は経済学棟。俺がゼミで初めて集まった場所がここである。経済学部の教授たちの研究室もそこにあるので、上級生になるほど、ここにはお世話になるらしい。
柳瀬川たちも付いて来ようとしていたが、花園教授が断っていた。なんでも俺と一対一で話したいことがあるらしい。俺は身震いした。こういう時は大体悪いニュースだ。帰りたいけど、単位を人質に取られては何もできない。
そして、朝霞が本当にうちのゼミに来るらしい。花園教授も受理してしまったし、今日中にゼミをやめるということを言わないと後々面倒になりそうだ。
そんなわけなので、機会を探しながら、花園教授について行っているのだが、話しかけづらい。もう少し物腰柔らかくできないのかなぁ。
「ちょっと待て」
「?はい」
花園教授がおもむろにスマホを取り出した。誰かから連絡が来たらしい。
「ふむ、分かった。場所は経済学棟の外、東口だ」
電話を切ると、壁に背を預けて腕を組んだ。とても似合っている。怜悧とか聡明という言葉はこの人のためにあるようなものだと思った。
「中に入らないんですか?」
「ああ、待ち合わせをしていた相手がいるのだがな、下に降りてくるらしい」
教授となれば忙しいはずだ。もしかしたら、俺と話す前に何か予定があったのかもしれない。
「部外者がいても大丈夫なんですか?なんだったら、少しそこら辺をぶらぶらしてきますけど」
「その必要はない。むしろこの場合は私の方が部外者だろう」
「どういう意味ですか?」
よくわからないが、電話の相手と俺が接触しても問題ないらしいが、色々な疑問が湧いてくる。すると、急に俺の視界が真っ暗になった。
「だ~れだ」
不意に背中から誰かに抱き着かれる。豊満なボディが背中に当たっているので色々不味い。俺はその態度を出さないように、遊びにのっかりながら冷静に対応することにした。
「誰だろう。全く分からないなぁ」
「ふっふっふヒントはぁ」
「でも、知らない人に抱き着かれたら通報しろと言われているので通報しますね?」
「やめてよ!お姉ちゃんだよ!?」
「語るに落ちましたね。美波さん」
「あ~!ズルい!」
視界が解放されて振り向くと、プンプンしている義姉、美波さんがいた。なんでこんなところにいるのだろう。
「来たか、美波」
「うん!時和ちゃんからのお誘いとあっては行かないわけにはいきません!」
びしっと敬礼を決めている姉さんが可愛すぎる。
こういうことを天然でやるから、男子が勘違いするんだよなぁ。
ともかく、姉さんは花園教授に呼ばれてここに来たらしい。
「一体何がしたいんですか?」
当初からの疑問を聞く。俺は説教をされに来たのだが、そんな感じでもなさそうだ。
「高坂と一度話しておきたかったのは事実だ。だが、しらふでは本音の話もできそうにないからな。飲みにいくぞ。今夜は私の奢りだ」
まさかの、飲みの誘いだった。
━━━
居酒屋の個室に通されると、花園教授と美波さんが向かい側に座った。大学生になったら飲みに行く。これは姉さんに知らされていたから覚悟はしていた。ただ、教授と一緒にとなったら別である。むしろ、注意する側の人間じゃないのかと思う。
というか、厳格そうな花園教授が俺を飲みに誘うって一体どんな状況やねん。
「どうかしたか?」
「いえ、花園教授がこういうことをするのが意外で」
「私の趣味は酒飲みだからな」
「古書店巡りはどうしたんですか?」
「あんなの私の教授としてのブランドを保つための虚言に過ぎない。私は一にも二にも酒だけだ」
「俺の前でブランドがガラガラ崩れていますよ?」
「美波から私の酒癖は伝わる。隠す意味なんてない」
「え~、私と時和ちゃんの仲じゃん!口を滑らせるなんてことはないよ!」
「校舎で私を「時和ちゃん」と呼ぶなと言ったはずだが?」
「ヒョウちゃん、何飲みたい?私と時和ちゃんはビールだけど、初めてのお酒だったら、カシス系がいいかもしれない。甘いし飲みやすいよ?」
「おい」
姉さんは隠し事をするのが苦手だ。それを知っているということはこの二人はとても仲が良いということだろう。
「俺もビールにしますよ。…いいんですね?」
「大学生になったら酒を嗜むのは義務だ。ここら辺の警察も分かっているさ」
「そうっすか…」
まぁいいか。俺も酒を飲みたいと思っていたし、丁度良いのかもしれない。五分ほど待つと、ビールが三つほど届いた。そこにお通しとして枝豆とたくあん、そして、焼き鳥が数本。高校生の頃から居酒屋といえばこれだろというのを実現してもらって感動している。
「それじゃあ、乾杯」
「「かんぱ~い」」
姉さんと花園教授が一気にグラスを傾ける。そして、中身をすべて飲み干した。俺はというとビール特有の苦さに負けて、ちびちびと飲んでいた。
「おいおい、高坂。ビールはのど越しで楽しむんだ。グイっといかないとビールに失礼だぞ?」
「そうだよ。ヒョウちゃん。グイっといっちゃいな」
「…分かりました」
俺は苦さを我慢して、一気に飲み干す。のどを泡がしゅわしゅわと伝っていく感覚がある。なるほど、これがのど越しか。今日までの疲れが一気に吹き飛ぶような爽快な気分になる。けれど、
「自分にはまだビールの良さが分からないですね」
まだまだ十八の若造にはビールが早過ぎたようだ。
「けれど、教授や美波さんみたいにビールを恰好よく飲めるようになりたいですね。ビール飲み一つとってもその所作はとても美しいです」
「…なるほど、美波の弟なだけあるな。天性の異性たらしめ。あ、ビールお願いします」
「美波さん、俺のことをなんて言ったんですか?」
「ヒョウちゃんのことをしっかり伝えただけだよ~だ!私もで~す」
「なんで拗ねてるねん」
姉さんに一言申したいのは俺の方なのに逆切れされてしまった。俺が天性の異性たらしだというのは風評被害だ。それを言うなら姉さんの方がだろう。姉さんはその天使のような性格で異性を何人も勘違いさせてきた。そのせいで、知らない人間に姉さんを紹介しろと言われ続けてきたのだ。そこだけは姉さんに一言申したいところだったが、二人ともよく飲むな。
「大学は楽しいか?」
ふいに花園教授がグラスを机に置くと、俺の方をしっかり見据えていた。
「楽しい…ですか。それはないですね。何も感じませんから」
思わず本音で話してしまったが、やらかした。自分の空気の読めなさにイライラする。けれど、冷静になった俺の頭がゼミをやめるということを言う良い機会だということを知らせてくれた。神様はなんて意地悪なんだろう。
「この場で言うのは申し訳ないのですが、俺はゼミを辞めさせてもらいます」
「え…」
姉さんが驚いている。俺がいなくなると、花園教授とやりづらくなると思っているのだろう。そこに関しては申し訳ないが、金で補償するつもりだ。
「なんで…それは私がいるから…?」
姉さんが恐る恐る聞いてくるが、何を恐れているのだろう。まぁ理由を伝えるのは最低限のマナーか。
「いえ、それはないです。ただ、柳瀬川、後は朝霞がうちのゼミに入るのなら、俺は訳ありすぎるので負担になるはずです。俺、一人辞めるだけで二人が素晴らしいキャンパスライフを送れるのなら消えるべきかと思いました。ああ、そういう意味では美波さんの面子を潰して申し訳ないと思います」
「面子なんてそんな…!私はただ…!」
「そこまでだ、美波」
「でも…!」
「はぁ、想像以上にめんどい生徒がうちのゼミに来たようだな…」
「ええ、なので「だが、ゼミを抜けることは許さん」
「…それはなぜですか?」
ビールが届くと、花園教授はそれをゴクゴクと飲み干す。一体何本飲むんだと聞きたくなるが、とりあえず俺は飲み終えるのを待つ。そして、一気に飲み干すと、「プハー」っとおっさんのような声が漏れる。美人って何をしても絵になるから本当にズルいわ。
「お前のせいでうちのゼミが存続の危機なんだよ!」
「「え?」」
そして、テーブルから乗り出して、俺の胸倉を掴んできた。その拍子に花園教授のポニーテールとほどけて眼鏡が落ちた。
美人が怒ると怖いなぁ。
「お前が余計なことをしたせいで、ゼミを辞退する人間がたくさん出たんだよ!どうしてくれんだおい!?」
「時和ちゃんストップ!」
グワーッと乗り出す花園教授を姉さんが抑える。生徒に抑えつけられる先生って一体なんなんだ。
「『エロ本を抱える厳格教授』ってなんだよ!私はセクシー女優か!?」
「絶対買います!」
「ありがとう!じゃねぇんだわ!ゼミがなくなった教授って惨めなんだぞ?ただでさえ、女ってだけで肩身が狭いのに、お前のせいで余計にきつくなるわ!」
「す、すいません」
花園教授のその話は魂からの咆哮だった。どう考えても俺が悪い。結局、俺は生きてるだけで誰かの重荷になってしまう。それなら俺は、
「謝るんじゃない!馬鹿者!」
「え?」
「お前はお前の正義に従って動いたんだろ?それならそれを卑下する必要は皆無だ」
俺は花園教授が何を言っているのか分からない。
「でも、花園教授に迷惑をかけて何もしないというのは…」
「それは責任をとれ」
だから俺はやめようとしている。少し苛立っているのだろうか。
「だが、やめるなんという逃避は許さん。責任持って私のゼミに貢献しろ!」
「…そう言いますが、存在するだけで俺は他人に迷惑をかけてしまいます…そんなリスクを抱える理由もないんじゃ…」
「子供が誰かに迷惑をかけるなんてことは当たり前のことだ。失敗?迷惑?リスク?大いに歓迎だ。そこで学ぶ意欲さえあればそれは何にも代えがたい価値になる」
「時和ちゃん…」
俺をまっすぐに見据えるその視線に嘘はなかった。純粋に教え子を想ってくれている視線を一身に受けて、俺はなんとなく気恥ずかしくなった。
「…わかりました。どうなっても知りませんよ?」
「ふっ、やれるものならやってみろ」
ニヤリと笑った花園教授を見て、してやられたという感情が沸き上がる。俺はビールを頼む。なんというか少しだけ悔しいという気持ちが俺の身体を支配した。どうせ花園教授の金だし、好き勝手してやろう。俺にできる唯一の抵抗はそれだけだった。
━━━1時間後
「まだ飲むのぉ~」
「もぉ~、駄々こねないでよ!お店の人に迷惑がかかっちゃうでしょ?」
「やぁ!」
「‥誰だこいつ?」
なぜか俺の隣に来て幼児退行している花園教授。俺の膝枕で寝ている。
「にゃあ~」
「かわいすぎやろ」
さっきまで俺に説教を垂れていた怜悧でクールなキャリアウーマンな教授はただの可愛い猫へと成り下がった。俺も酔っているのかもしれない。
「本当に花園教授なんですか…?」
「信じられないだろうけど事実だよ。お酒飲むと大体こうなっちゃうんだ」
「なるほど…」
姉さんも同じものが見えているのなら幻覚ではないのだろう。
「美波さんが時和ちゃんって呼ぶ理由がわかりました。俺も今後はそう呼びます」
「うん!時和ちゃんも喜ぶと思うよ」
「無礼者~私は時和ちゃんだぞぉ!」
「はいはい」
さっきまでの厳格な教授というイメージは完全に崩れ去った。会計を済ませると、近くに停まっていたタクシーに時和ちゃんを詰め込んだ。
「それじゃあ時和ちゃん。また明日ね~」
「バイバ~イ」
タクシーに乗ると俺たちに向かって手を振ってきた。さっきから萌えの供給過多で俺の精神が限界だった。ようやく、タクシーが行ったのを見送ると、俺と姉さんが二人で残る。
「アレで大丈夫なんですか…?」
「うん。お酒を飲むとあんなだけど、絶対に家に帰って寝れる…って本人は自慢してたよ!」
「そうですか…」
それなら大丈夫なのかな…?
姉さんが言うならそうなのだろうと俺は思考を打ち切った。
「「…」」
俺が高校生の頃、大学入学を機に姉さんはこのアパートに引っ越した。元々冷え切っていた姉弟仲は物理的に離れたことによってさらに深まった気がする。
「ねぇ…」
「なんですか?」
「あ…ううん、ごめんね。なんでもないよ…」
「?はい」
姉さんが申し訳なさそうな笑顔で俺に謝罪してきた。
それから俺たちは家に帰るまで一言も話さなかった。途中で姉さんが何かを話そうとしてくれているのは感じていた。面倒な弟のせいで余計な気を使わせてしまったのだろう。
それは本来姉さんが感じなくていい気苦労だ。姉さんに甘えている現状から早く抜け出す決心が強まった。
そのためには金だ。金を稼がなければ人間は生きていけない。明日からバイトが入っている。できるだけ早く稼いで姉さんに迷惑をかけないように消えよう。
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