第4話 筑後の軍記から見た黒人と南蛮人

 筑後の軍記物でも黒人の記述はなく、南蛮人についてもごくわずかだった。

 それを以下に示す。

 なお軍記は以下のものを現代語訳した。


 九州治乱記(1640年頃)友松玄益が著し、存心和尚が編纂した。

 高橋記(1651年8月)高橋家の家臣の子孫が記述した。

 立花記(1696~1702年頃)柳川藩3代目立花鑑虎が編纂させた



 まず九州治乱記だが、本書は作者は友松玄益という人物が編纂したらしく、以下の特徴がある。

 基本部分は大友記の丸写しだが、大内義隆と義長がどちらも毛利に殺されたとする大友記と違い、こちらは殺害者は正確(ただし内容は現在の通説と一部異なる)

 大友記は1584年頃で話が終わるが、こちらは1587年の秀吉の九州征伐で終わる。

 本書の該当部分は以下のとおりである。


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 1巻●九州静謐の事 (弘治4年(1558))


 弘治4年(1558)に改元して永禄元年と号す。

 昨年の春から九州は静謐(平和)になり国々幕下の侍は代わる代わる豊府(豊後の政務所)に参った。

 大友の威は京都にまで届き、将軍 義輝公はたびたび豊後に使者を送り「義鎮が九州を事故なく治めている事は勇略の誉。神妙である。天下でもほかにない。早く九州の勢を催して上洛を企て、都鄙の兵乱を鎮められたまえ」と御教書で仰せられた。

 それなのに義鎮が上洛しなかったのは(豊後から)都まで数十里を隔て所々が兵乱の最中なので、領国を留守にできないと思われたためである。

 筑紫九カ国はすでに静謐で、豊府は探題の城なので土民がおびただしく集まった。


 府(県庁)に近い津々浦々には諸国の商船が数知れず集まり、探題が常にいる高崎の城の外廻りから府内の城の間には上下の人の家がおびただしく続き、九国の都と見えた。

 それだけでなく、元は筑前国博多浦に着いた唐船が永禄2年(1559)ころから豊後に来た。

 が豊府に来れば遠国の商人までもが商品を買いに来て豊府の繁盛は十倍になった。

 そのころは毛利と大友が戦争中だったので、ある時、唐船2・3艘連なって豊後に向かっていたが門司の泊門通るとき長門国から大船2・30艘が漕ぎだして唐船を囲んで長門に引着けた。

 大友義鎮は大いに怒り、今後一艘も中国に着けまじと肥前筑前豊前3国の侍に命じて「津々浦々、二番船を付け置き壱岐対馬五島平戸の沖に異国船が見えたら番船数十艘で船を守り門司を押し通って豊後まで送るようかの番船に乗った侍雑兵は水主舵取りに至るまでひたすら合戦の出立して引矢兵杖取を揃えて日を送り、唐船が今や来るかと待った。その費用はおびただしく、土民の疲れは甚だしい。

 異国船は豊後に来ないこともあった。元のままであれかしと嘆く者だけが多かった。

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 本書では豊筑乱記と同じく、南蛮船が商売に来て毛利が妨害をしたので民に負担を押し付けたという話となる。

 なお南蛮船は豊後に4回ほど寄港したそうだが8月にはガーマが豊後に寄港し、ザビエルが豊後に来たのは彼と会うためである。(日6P58)


 しかも中国から日本に来た場合は長崎や平戸が入港しやすく1556年頃には長崎の松浦氏が家臣の籠手田氏をキリシタンにして貿易船を呼びこみ、(日6P133)1570年には大村氏が日本初のキリシタン大名となって大村・長崎を南蛮貿易の中心地とした。

 この商品を豊後商人が買い付けに行ったので(日9P93)、本作のように南蛮船を警備したり豊後に呼ぶ必要は無かった。

 

 なお、宗麟の入信は以下のように書かれている。


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 3巻●西洋宗の事 (天正の初め(1573~7年6月20日))

 

 耶蘇(ヤソ)宗は西洋宗きりしたんと言い、天正のはじめ(1573~)に日本に渡り、村男を自分の宗教に巻き入れた。

 愚痴蒙昧の族はこの宗門を尊いと思い、後には士大夫も帰依する事が多かった。

 宗麟もこの法を尊び、大友一紋の人々や外様の大名、幕下の国の城主郡主の半分もこの宗教になった。

 特に宗麟は並々ならぬ信敬で月々に講釈を結び、かの西洋の族との会合議論で日が終わった。(宗麟は)「おおよそ日本の神道、西域の釈教(仏教)に何の利益がある。仏閣僧坊、宗廟神社を破壊せよ」と豊後をはじめ幕下の国まで命令した。

 仏像経巻が焼かれた数は数えきれず、豊後の油須原(ゆすはら)、豊前の宇佐、彦山、筑前の安楽寺、箱崎香椎、肥後の阿蘇など、先代より寄付する神領をことごとく没収し、領国の神祠仏塔は10の内6・7が没倒した。

 清田鎮忠と田原近江守を奉行として丹生島にきりしたんの寺を建て、山森紹庵のはからいで豊後の住吉の神社を破却した。

 吉弘内蔵助、橋本正行は数え切れないほどの仏像を焼いた。

 中でも豊府の万寿寺は大友家が代々帰依した寺だったが、今宗麟の代に至って寺領を召し離されたので寺院内は荒れ果て古寺となり、僧や法師も跡をとどめず、差し入る旦那もなし。年老いた法師が一人寺に残り、昼は方々に乞食して夜に帰ってきたが天正5年(1577)6月20日の夜に賊が数多く寺に入り、僧を寸々に切り殺し仏具法具を盗みとった。

 万寿寺の本尊は観音である。この僧が切られた頃の落書に

 ・万寿寺の 念彼観音の 力にて 段々壊にそ 僧はなりける



 ●大友・島津鉾立(合戦)の事(1578年 春頃)

 (前略)

 元亀の頃から宗麟は西洋宗を用いて神社を破壊したのに対し、島津は神仏を崇敬したので「島津が九州を治める事は疑いない。心ある人は悪逆無道の大友に従ってはならない。当家(島津)に従えば栄えること間違いなし」と言えば義久に内通し時期を待つ侍は多かったという。

 これを聞いて宗麟は激怒した。


 ●大友家老軍評議

 宗麟は日州の出馬を決め、幕下の国々に陣ぶれをしたので大友の家老は吉弘左近大夫鑑理の家で軍評定した。

 吉弘鑑理が言うには

「田原紹忍という佞人を屋形は崇敬し加恩は身に余れば、何事も思うがままになると思ってこのような大事を進めた。(田原は)御屋形様が判断を誤っても諌めず、自分の保身ばかり考えている。

 なので自分が西洋宗に帰依して毎月講(=集会・ミサ)を結び、屋形にも勧めて寺社仏閣を破却するよう言い僧は死罪を命じられた。

 吉岡宗歓と臼杵鑑速が存命の間は政法は正しかったので、国は礼儀に違わず賞罰についても恨まれる事はなかった。両人が死んだ後は田原に諸事を命じたので自分にへつらう者には忠義が無くても賞を与え、気に入らない者には小さな罪でも重い刑にし、先祖にどれだけ功績があった者でも田原に押しやられ、巧言令色の軽薄な人間が時勢を得た。

 上下の作法もみだりになって『自分達のいう事を屋形は承認せず、田原の挙げた事だけが当家の依頼とも思える』とも思われた。戸次鑑連は中国の大事な抑えとして立花にいるが、彼がこの場にいたら、ここまで酷くはなかっただろうに…。屋形を初め、一門の人々も鑑連が煙たがっているのは運の末だろうか」

 と涙を流して言えば、斎藤鎮実を初め心ある人はたいへん感心した。

 さらに鑑理が「無道欲心の人々は心元ない。恥を知る我らは、この大事に命を捨てるべきだ」と言えば斎藤は大いにうなづいて、どっと笑って皆座敷を立った。

 鑑理や鎮実など今回の軍評議をした人間は日向耳川で皆討死した。誓約を守った事は有り難い事だ。

 田原紹忍と仲の良い人も紹忍の館で軍の評議をしたと聞くが、その座の中に耳川で戦死した者は一人もおらず逃げ出したと噂された


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 今回は宗麟がキリスト教に熱心で、清田と田原を奉行にしたとある部分は異なるが、あらすじは同じである。

 ただ、耶蘇(ヤソ)宗、西洋宗きりしたんという単語が出たり毎月講という、集会やミサなどの具体的な集まりも書かれている。

 本書を編纂したのは存心和尚と高橋記には書かれているので、商売ガタキの悪口を熱心に書いたのかもしれない。

 ただ、宣教師や黒人についての記録はない。

 あと、宗麟がキリシタンとして活動を始めたのは元亀(1570~3)ではなく天正6年(1578)からなので、本書の記載は間違っている。



●次に述べるのは、この九州治乱記を底本にして江戸時代には立花氏に改姓した高橋紹運の家の記録、高橋記についてみてみよう。

 本作は1651年に、高橋家の家臣だった伊藤源右衛門入道一簑が、九州治乱記を読んで『高橋家の記録が少ない』と言う事で追記補修した本で、高橋紹運と戸次道雪の記述が多く、豊後中部を中心に秀吉の九州征伐までを書ききった作品である。


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 ◆10 豊州より日向国に至り発向(1578年 8月)


 天正6年(1578)8月中旬に大友宗麟公は豊筑肥の大軍で日州に出馬された。

 日向国は豊州の分領として元は幕下に属していたと言えども、近年は半国ほどを手に入れた。

 その内で土持の城を隠居所として宗麟は動座し、さらには残り半国も手に入れるため大軍を催して戦に及んだ。ことわざの『欲のクマタカさかす(※意味不明)』とは後に思い知る事である。

(宗麟は)ので軍の途中で檮原八幡で矢を入れ、社人で我意を企む者がいれば討ち果たすよう指示していた所、社人衆が鉾を携え兵杖を帯び命を惜しまない(で抵抗する)ように攻め手には見えた。

 このような事があり戦う前から負けたように見え「今度の戦ははかばかしくないだろう」と人々は眉をひそめた。後からみれば、不吉の現れた事に見えた。

 案の定日向高城の一戦で敗北し、所有していた半国までもが敵の手に落ちた。

 宗麟は豊後に引き、諸国の諸将は大友に従わなくなり離反したが、紹運は大友の親戚だったので義を守り命を軽んじ、八方に敵を受け宝満・岩屋で戦った。


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 こちらでは高橋家の記録がメインなので、キリスト教への記述はあっさりしており、宣教師も南蛮人の記述も無い。

 ただ、他の本と違い、以下のようにバテレン追放令を掲載している。

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 ◆52 切利支丹(キリシタン)御制禁 


 太閤は御供の馬廻りに切利支丹(が)両人(=2人)いるとにわかに聞いた。

 すぐに穿鑿(せんさく)するよう申しつけ両人捕え八幡神前の鳥井の脇で張り付けにした。

 そして札を立てた。(その内容を記す)

 ・定


 ・日本は神国なのに切利支丹国より邪法を授けのはけしからん事である。

 ・その国郡の者を近づけ門徒(=信者)にして神社仏閣を壊させるのは、前代未聞の事である。

 国郡在所の知行を給人に与えているのは当時(=今だけの一時的な)ことで、天下の法度を守り諸事を行うべきであるのに、下々として猥儀(を行うのは)曲事である。

 ・伴天連はその知恵の法で志ざしにより壇那を持っていた(=人々を自由意志で信者にしている)と(秀吉は)思っていたが、日本の仏法を破っている曲事【くせごと】だった。日本の地には置いておくべきではない。

 今日から20日間で支度して帰国せよ。伴天連は言うまでもなくそれに与する者も曲事である。

 ・黒船(=貿易船)は商売の事なので別の事である。年月を経て諸事売買するべし。

 ・これ以後は仏法を妨げなければ、商人は言うまでもなく、切利支丹国から往復するのは問題ないので許可する。


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 追放令は南蛮人向けと日本人向けの二種類が有り、なぜか南蛮人向けの内容を記載し得いる。他の九州軍記では掲載された事が無いバテレン追放令を掲載しているのは高橋記だけだった。

 個人的にキリスト教について含む所があったのかもしれない。

 

●そして、最後に年代は下がって1696年から1702年の間に書かれたと見られる立花家の軍記物、立花記の内容を紹介する。

 立花記は『柳川藩3代の主 (立花)鑑虎公が安東正之進・山崎玄碩に命じて藩祖に関する史料を集録させたもの』であり、初の藩公式の軍記である。

 そのためか、大友宗麟がよくない君主だったが立花家は最後まで忠義を尽くし、豊臣家の御家人となって大名になった。という話の展開になり宗麟の悪口が多い。

 ただ、キリシタンへの排斥が強い時代のためか南蛮人などについて書かれたのは次の一話だけである。


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 ●道雪公 諌争う事 P24(毛利による南蛮船妨害)


 秋月文種・筑紫惟門滅亡後の九州は大友家の武威に服して静謐となった。

 幕下の城主は代わる代わる豊府に参礼し毎年8月朔日の剣馬の幣礼を怠らず勤めれば(大友の)威風は遠近に広く、将軍足利義輝公も豊府に使いを出し

「九州が治まっているのは勇略の誉れで、神妙の至りである。天下の侍が頼るほかない。早く西国の兵を催して上洛し、都鄙の乱を鎮めたまえ」

 と御教書を義鑑(=義鎮)に賜った。

 これより豊府の繁栄は時を得て富は連日に倍となった。

 商売は市に充満し往来は街を通やらす。

 京師に名高き技芸の巧手珠玉の僧途師にいたるまで集まり、府(県庁)に近い津々浦々には諸国の商船が幾千万という数を知れず。

 府内の城の間には上下の民家が軒を並べおびただしく、その豊穣なる事は京や鎌倉にも勝るかのように見えた。

 それのみならず、元は筑前国博多津に着いた唐船が永禄2年(1559)ころから豊後に来た。

 大明が豊府に来れば都鄙遠近の商客は異国の珍器を買い取るために押し寄せる事限りなし。

 そのような時に唐船3艘が漕ぎ連れて豊後に向かって来たが門司の泊門通るとき長門国から大船2・30艘が漕ぎだして(大友が戦争中だった)毛利の船30が唐船を囲んで赤間関に引着けた。大友義鎮はこれを聞いて大いに怒り

「今後は異国船を一艘も他国に着けまじ」

 と肥前筑前豊前3国の侍に命じて所々に監船を置いて、壱岐・対馬・五島・平戸の沖に異国船が1船でも見えたら監船数十艘で船を守り門司赤間の迫門を押し通り豊後まで送るよう(命じ)監船に乗った者は士卒・水主舵取りに至るまで皆合戦の装いで甲冑を着て兵杖を帯びて日を送りった。

 肥前・筑前・豊前の城主給人はこの費用に困窮して領内を虐げる。

 土民の労は数限りない。

 大友家の苛政を疎まない者はいなかった。


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 以上、九州治乱記の内容を省略して転載しただけである。


 一番年代の若い九州治乱記が熱心にキリスト教の悪口を書いていたが、その後の本では南蛮人が商売に来たという記述が主であり、町民も南蛮人への興味が薄れたか当たり前の知識となって書かれていないように思われる。

 それに伴い、さらに知名度の低い黒人について書かれていない事を記す。

 一応柳川は長崎と諫早湾を挟んで隣の藩なのだが、もしも黒人が活躍などしていれば、少しくらいは記述があってしかるべきと思われるが、それはなかった。


 現代の異様に黒人を持ち上げようとする活動に対して、当時の九州人の無関心さが少しは伝われば幸いである。

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フロイス日本史などでの黒人の記述について 黒井丸@旧穀潰 @kuroimaru

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