第3話 九州の軍記物での黒人や宣教師の記述について(豊後篇)

 某大学准教授は、黒人が地元の名士で珍重されたと書いていたそうですが、それが近畿を指すのか九州を差すのかは書かれていませんでした。


 そこでとりあえず、筆者が現代語訳した九州の軍記物

 大友記 大友興廃記 豊筑乱記 九州治乱記(友松玄益版) 高橋記 立花記 両豊記 から外国人宣教師、および黒人についての記述を見てみましたが、国人の記述はありませんでした。

 たんなる徒労でしたが、先日史料と言うのは多方面から見るものだという旨を書いていたので、日本側、豊後の記録では黒人は記録されず、軍記に記される程有名ではなかったという視点を示すために発表します。

 興味のある方はご覧ください。


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 前2回は西洋人の書物から書かれた黒人の記録を見てみたが

 今度は日本での記録を見てみたい。


 こちらはSNSで論議が尽くされたように織田信長に仕えた太田牛一の『信長公記』(正式名称は信長記だが、同名の別本があり、区別するため広まった呼称)に記述がある。


 だが、

 筆者は大友家の書状を大分県史料33巻から読んでいるが、黒人に関する記録は未見で、宣教師について書かれた書状も1580年の戸次道雪の檄文(最後に記す)と、巡察師ヴァリニャーノが偽造した天正少年使節派遣の大友宗麟(フランシスコ名義)以外では見たことがない。


 これは、伴天連追放令が出た事から、彼らとの関係史料は子孫が破棄しているのかもしれない。

 とりあえず、豊後の大名や武士の史料では黒人の記述見られないと言う事をまず記す。


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 ●軍記の中の異国人たち


 次に、キリシタン大名の悪行の一部として南蛮宗について書いてある軍記物を時代順に見てみたいと思う。

 この場合は、大抵『キリシタンなる邪宗を信じたために国が滅びた』という悪口が多いので、破棄される恐れは無いだろう。



 まず、大友宗麟の悪口をこれでもかと書いた作品で1640年以前には成立していた大友記(作者不詳)の該当箇所を見てみよう。


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 ●宗麟公きりしたんに成たまう事(大友記より)


 南蛮国より『きりしたん』という宗旨が伝わり府内丹生島(臼杵市)へ一宇を建て布教した。

 清田鎮忠、田原近江守が(説教を)日夜聴聞し、宗麟公は近江守に吉利支丹宗について尋ねた。

 田原は九国一の獄舌なので、外道な吉利支丹の教えの仔細を面白おかしく伝えた。

 宗麟公は「昔、頼朝公は仏神を鎮めるのは(国を治める)第一(の方法)だと思えた。大法(優れた教え)なら予も仏神をかつごうとしたが、その結果、世は災いが多く、良きことが無い。だから、(悪法である)寺社を破却するには外道宗でなければ難しいだろう」と吉利支丹に入信した。(後略)


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 南蛮よりキリシタンという宗教が有り、それを佞臣の口から聞いて既存仏教の排除の為に利用しようとした。という話である。

 これ以降、宗麟は英彦山、万寿寺、住吉神社を焼いたと話が続くが肝心の宣教師や南蛮人の記述はない。

 大友記は豊後の地名に疎く、筑後に住んでいた人間が伝聞だけで豊後の事を書いたのではないかと思われる節が有る。

 なお、ここで登場する清田鎮忠は、大友宗麟の長女の婿で、最初は仏教徒だったが、娘が祈祷の甲斐無く死亡した後、宗麟の勧めでキリシタンになったとフロイスは記述している。

 逆に田原近江守紹忍は奈多八幡宮から田原氏に養子に来た人間で、宣教師からキリシタン最大の敵とまで呼ばれた男である。彼は姉の宗麟夫人と共にキリシタンを迫害し、養子がキリシタンになろうとした際に勘当を言い渡している。

 それが宗麟にキリスト教を教えた役どころになっているのは、主君をそそのかした佞臣として豊後で語られたからだろう。



 2番目は大友記を下地に、田北一族という大友家家臣を中心に書いた「豊筑乱記」という本の記述を見てみたい。

 本書も作者は不明だが、大友記の誤りを修正し、豊後にいた領主について書いているので内容の精度は少しだけ上がっている。


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 ●;切利支丹の沙汰の事(「豊筑乱記」より)


 義鎮公は臼杵に移住して数年過ぎたが近年、南蛮国から商売のために船が来て宗麟公に七珍万宝の進物を捧げた。また田原紹忍に重宝を渡して饗応した。

 そのうえ(南蛮人は)切利支丹という邪宗門を進めれば紹忍も追従し、宗麟の機嫌を計って、キリシタンの作法(受洗)をしたと聞く。


 宗麟は仏神をおろそかにする宗門と聞いて「日本は神国で神功皇后の時代から神力でなければ合戦に勝てない」と深く聞こうとはしなかった。

 だが田原はキリシタンに深く帰依していたので、宗麟の機嫌を伺って宗旨の尊さを伝え、近習の若侍にも言葉を尽くして改宗を進めた。


 また田原は

「南蛮国には神仏はいないが七宝万宝が流満して余るほどで、この国まで運送して売買するほどである。弓矢の技も仏神の加護もなくても鉄砲火矢を放てば何十万の敵も退治できるだろう。昔の戦いは弓矢で遠い敵を倒したので、弓の器量によったが、鉄砲は力の勝負ではない。仏の加護がなくても岩石鉄壁も嫌わず、当たった所は破れ崩れる」

 と語り散らし、僧には理不尽な言いがかりをつけ、キリシタン贔屓の問答を強いて仏道を邪道などと言った。

 特に臼杵の海蔵寺は宗麟公の5代の祖父、大友政親の菩提寺で最近は大徳寺の真叔和尚が住んでいた。

 しかし、(宗麟たちは)いつのまにか邪宗に心引かれ仏を疎かにし、仏を尊ぶ人は病気のようにとりなした。

 和尚も心憂しと思ったのか、心安い人に「お寺を出ようか」と口ずさんでいた。

 田原はこれを聞いて心良く思い、ますます仏道を謗った。

 和尚はついにお供の僧2・3人と夜に紛れて日向へ出たが、金目当ての悪党やあぶれ者が追いかけ、山中で追いついた。

 和尚は逃げられないと思いながら岩陰などに姿を隠せば、悪党は和尚の衣服をはぎ取り、和尚を絞め殺して山中の木にからめつけて帰った。

 臼杵は大騒ぎになったが、田原は悪党の仕業と知りながら沙汰はせず「(和尚は)学問は優れていたから慢心してキリシタンを邪法とあざけった。因果は逃れがたく天罰がくだった」と悪口を言い宗麟へ告げた。

 宗麟はこれを正しいと思い、田原へ「和尚は大徳寺の和尚ともてはやされたが、急に慢心して天魔の攻めにあって災難を受けた」と言った。

 それから宗麟は邪宗に心引かれれば「和尚は天魔の仕業(で死んだ)」と遠国(の者)までいうようになった。


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 こちらでは、南蛮国の珍しい品のために取引を行い、その一環で珍品欲しさに田原が宗麟にキリシタンの教えを伝えた事になっている。こちらでもキリシタンの教えは登場するが、黒人や南蛮人の記述はない。


 では逆に作者の素性がはっきりしていて、豊後の記述も正確な軍記を見てみよう。


「大友興廃記」。

 元佐伯に住んでいた武士の家で、大友家が改易された後に藤堂家に仕えた杉谷宗重という武士が1635年から1652年以降までに書きあげた全23巻の大作である。


 こちらでは10巻と14巻に少しだけ宣教師の記述が有る。


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 ●怡雲和尚下向;無邊(大友興廃記より)

 宗麟公は参学を望み京都の大徳寺(宗)悦長老を招聘し臼杵の海辺 諏訪明神の側に寺を創始させた。※禅衆の入信に秘訣はなく只五無間の業を造って大解脱を得ることがなので豊後の人々も禅衆に帰依する者が多かった。 

(中略)

 ある年、臼杵越中守鑑速が逝去し、諏訪の寺は種々の弔いをした。

 この日豊後に無邊という旅人が来た。

(中略)

 ある時無邊は臼杵の佐伯紀伊介惟教の宿所に来て、見回中と述べた。佐伯壽久が取り次ぎ惟教と対面し「新宅と見える」と言うと館の札を五枚書いた。梵形その他比類ない手跡だった。

 また夏に佐伯の海門寺へ見苦しく破れ古びた柿帷子(かたびら)を着て来たが客殿に臥すのを見ると、新しい紗の蚊帳をつり、寝具枕まであった。

 朝起きると元の古い柿帷子になった。

 それだけでなく海上や湖を歩行したり、話の途中であれあれというと「余所の国の軍が戦い、誰が手柄を上げた。誰が討たれた。不便なことだ」と言う。

 後で伝え聞くと、その日時は違っていなかった。さような奇特は前代未聞で天狗が人界に来たのかと不審に思った。彼はその後どこへも行かず消えた。当時畿内にも無邊というものがいたが「それは偽者だ」と言った。

 またが、如露法師は姿が異風なだけで奇特はなく、因果は後で聞くと嵯峨の因果居士だという。


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 無辺という名前は信長公記にも登場する売僧(詐欺師)の名前で、怪しげな山伏として名前が見られる。だが如露法師と言う名は見られない。

 彼は14巻で、豊後に不幸を振りまいた元凶として再登場する。


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 14巻より;如露法師禅法を示事;黄鶴楼の古事


 過ぎたるは及ばざるが如しという。

 如露法師は年月を重ね、一休禅師の再来と持て囃された。

 これは簡単な言葉で皆に仏の教えを説いたためだ。

 万事いい加減に修行をして悪道に落ち「真の伽藍を見る(見よ?)」との言葉を聞けば(民は)「これ以外は偽物だ」と心得て寺社仏閣を破り、盗み、私宅を飾る傍如無人な者もいた。宗麟公は諏訪寺で参学すると神道を尊ばなくなった。

 ここに奈多鑑基という国東郡奈多八幡の宮司で真言宗がいた。

 鑑基は丹生島城に登城した時、雨中の徒然に海蔵寺の禅室で和尚と語り

「宗麟公は※このごろ無信心のことが多い。これはよろしくない事だ」と言うと和尚は「太守は手をつけないが如露という法師が禅を示すと聞き、物を破るのは国家の衰える端だ。世が傾いた後は鸚鵡洲となるだろう」と言う。

「鸚鵡洲とは?」と問うと

「栄えて跡形も無くなった故事で、昔江夏郡の辛【しん】という栄えた酒店へ鄂州の仙人が鶴に乗って来て、座敷に入り「酒があれば飲まん」と言った。「安いこと」と大盃で勧め、翌日も酒代は言わず飲ませていた。

 半年程して老人は酒代の代わりに橘の皮で黄色い鶴を描き、その鶴が客の歌にあわせて踊りだすと評判になり店は大繁盛。辛は巨満の富を築いた。この鶴は黄色いので黄鶴といい、見る者は所作を忘れ千金を費やしたと言う。

 十年後、老人が再び現れたが辛氏が自分を取り込めようとしたので、笛を吹くと白雲が湧きおこり、老人は鶴に乗って飛び去った。(本来は、辛はここに楼を建て黄鶴樓と名づけたという伝説がある)

 辛氏も飛翔してその一家は悉く滅んだ。十分な富も災いが来て黄鶴楼も鸚鵡洲となった。これは昔、江夏太守、黄祖が禰衡を殺して洲の中に埋めたので鸚鵡洲と言った。崔顕が詩を作ったという。

 元亀に無辺という異人と如露が来て仏法は邪になり神道は蔑ろとなったのは辛氏が黄鶴を愛したようなものだ」と言えば鑑基も同意し眉をひそめて帰った。※当家も運の末かと思う。


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 如露という仏教関係者の名前は豊後の書状では見られない。

 ただは如露という言葉はポルトガル語のジョロ(如雨露)から採ったものと推測される。

 つまり、これは宣教師を暗に示す人物名だろう。

 彼の登場は、この2か所だけ。それ以降は全く登場が無い。


 大友興廃記は豊後の言い伝えなどを細かく記した書籍で


 9巻の原大隅守の力という話では 

 原大隅守は吉野を知行し、人よりも優れた力があった(ので幾つか記す)。

 ある時上方から雷、稲妻、大嵐、辻風という相撲取りが府内に来て勧進相撲をしたが豊後の者は勝てなかった。その後臼杵に来た時、雷が原と一番所望しすこし脅かそうと鹿の角をつまんで砕いた。※これを原に告げると相撲を取ることになり大竹を一本庭に出した。

 原は竹を一節ずつつまんで潰し、両端をくっつけて土俵とすれば雷も辻風も驚き「諸国を修行したがこのような力は見たことがない」と負けを認めた。


 という話があり、とされている。

 

 また11巻では狩野永徳が豊後に来た事について語った見山繪問談という話がある。

(京都の絵師 狩野永徳がまだ源四郎と言われていた頃、宗麟公は丹生島城を改装し、兄弟共に召し出し座敷の絵を依頼したという)

 13巻の宗麟公御所持の茶湯道具と絵讃の名物では宗麟が所有していた●似たり茄子【茶入】●新田肩衝【秀吉の所持。北野茶会で用いられる】●肩衝【前は渡邊妙通所持】●合子【前は坂東屋宗椿所持】●束の肩衝【前は硫黄屋所持】●有明肩衝【前は毛利兵部少輔所持】●瓢箪茶入【前は臼杵越中守所持】●虚堂墨跡【前は田北九郎所持】●志賀茶壺(博多の商人の楢柴と銀をつけて交換したいと交渉した事がある)●二見【たらいの水差し】●花真壺●セイコウノ壺●珠光茶碗

 と、宗麟所有の茶器が記されたり、

 22巻では刀剣乱舞で有名になった骨喰藤四郎に関する記述、骨啄刀という話もある。 

(宗麟公所持の吉光骨啄刀は大友家の重宝で、義統公に譲られた。

 秀吉公の御前で宮内卿法印と千利休がこの刀の事を申し上げ、天正17(1589)年3月上旬、秀吉の命で法印と利休は使礼として義統に「貴公の骨啄を秀吉公が聞召し「進上せよ」と申されている」と言うと義統は早速刀を贈り、秀吉は喜び書状と厚板の小袖百を下賜された)


 他にも名馬や各地の名所にも記述がある。

 これだけ、名品や珍しい事が書かれた本なのだが黒人への記述は一切ない。

 これは九州、少なくとも豊後では黒人への評価は殆ど無く記載される程の知名度も無かったのではないだろうか?

 次回は筑後の軍記にも記述が無かった事を記す。 


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 道雪激文の該当箇所、現代語訳


『(吉岡)宗觀(吉弘)鑑連死後、(大友家は)天罰で近年は毛利との戦いに勝てず外聞を失い、他国からの批判は数えきれないほどです。

 特に秋月は近隣国に当家の無道数十か条を書きたてております。

 これはとやらになり、寺社を破却した亊などが原因でしょう。

 日本は神国です。是非、信心を持ち天道を進む事が肝要です』


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 なお道雪はフロイス日本史では1584年に黒木氏の猫尾城を攻めた際は「異教に凝り固まっていたのでデウスを嫌悪していた」と書かれているが、1585年に宗麟の使者としてきたキリシタンの柴田礼能に対して「それがしについて、切支丹宗門を憎悪するものだと上様に告げる人々がいるがそれは間違いで大いに迷惑している。というのもそれがしはその教えの何たるかを存じておらず、従ってどうしてそのような事を言えようか」と言ったと記されている。

 フロイスが発言をねつ造した可能性も考えられるが、道雪自身も自分の部下を仏僧に騙し討ちされた報復に僧侶を皆殺しにした事があり、仏教にそこまで好意的では無く宗教には距離を置いていた気もする。

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