マリオネットは悲しからずや~中也十六歳、京都にて謎を追う

澄田こころ(伊勢村朱音)

第一話 白いパラソルの女

一 岡崎の動物園

 開放的で自由な空気に、少しだけ毒を垂らした華やかなりし大正浪漫。しかし、大正十二年四月の京都岡崎の空は、陰気に白くかすんでいた。


 探偵小林秀平こばやししゅうへいは、日本で二番目にできた動物園で落ち着きなく辺りをうかがうのに忙しい。


 髪は短く刈り込まれ、精悍な顔つきの好男子。背が高くがっちりとした体格の小林は、遠目でも目立つ存在だ。


 そんな小林の眼前では艶やかな栗毛の二頭の馬が、きょろきょろする小林そっちのけでお互いの体をこすりつけ毛づくろいしている。


「おかあはーん。あっちに象いてはんで」


 絣の着物に白い前掛けをつけた小さな男の子が、舌足らずな口調で動物にまで敬語をつけ、母親の手を引っ張って行く。象の厩舎は入口から入って、一番奥に位置する。


 丸髷を結った母親は前を通り過ぎるさい、ジロジロと不審者を見る目つきで小林をねめつけた。


 平日水曜日の動物園には親子連れが数組いる程度。そこに連れもおらず一人きりの若い男は、完全に浮いている。


 小林は母親の鋭い視線から顔をそらし、こめかみの辺りをポリポリとかく。


 俺だって、好きでこんなところにいるんじゃない。仕事なんだからしょうがないだろ。


 心の内で誰に対してか言い訳をつぶやくと、灰色の背広のポケットから懐中時計を出して時刻を確認する。依頼人との待ち合わせ時刻、午後一時はとうに過ぎていた。


 依頼人から送られてきた手紙には依頼内容は記されず、動物園に午後一時、目印に白いパラソルを差していると書かれていた。差し出し人の氏名と住所は書かれておらず、白いパラソルと線の細い筆跡から小林は依頼人を女性と考えていた。


 曇り空の下で、パラソルを差している女性は一人もいない。もういい加減帰ろうか。


 しかし、仕事が多いとはいえない我が貧乏事務所にとってはありがたい依頼。もう少し待とうかと逡巡する小林の耳に、少年特有の高いとも低いともいえない大人と子供の狭間でゆれる声音が飛び込んできた。


「ちょっとそこのぼん、亡き人の本音を聞いてみたくないかい?」


 真昼の平穏な動物園に似つかわしくない『亡き人』という言葉に、小林は内心でぎょっとする。そして声の主の少年を視認して、もう一度度肝を抜かれた。


 少年はサーカスのピエロのような裾がすぼまったダブダブのズボンをはき、釣り鐘マントを羽織っている。そこまでならチンドン屋とさして変わりないが、そこにくっついている顔が色白の上品な西洋人形のようなのだ。


 大きなぱっちりとした目の下には、涙をたたえていそうな涙袋。鼻筋は通り、赤い唇は厚ぼったくも艶やかだった。その美少年の髪型がこれまた変わっている。耳の下で切りそろえたおかっぱにお釜帽。


 しゃれっ気のまったくない小林の目には、ハイカラではなく奇妙奇天烈ななりとしか映らなかった。


 坊と呼び止められた男の子も、少年の恰好が奇妙に思ったのかなかなか近づこうとしない。それでも少年はあきらめずに、膝をおり目線を下げた。


「坊は目をつぶって、まぶたの裏によみがえる人はいない? その人の本当の気持ちを――」


 そこまで言って、少年はマントの中から木偶人形を取り出す。


「このマリオネットが教えてくれるよ」


 マリオネット? 小林は知らない言葉がひっかかりジロジロと少年が手にする人形を観察した。


 外国製なのか赤いとんがり帽子をかぶったピエロの人形。薄く盛り上がった唇の両端はにゅっとつり上がり、長い鼻が突き出ていて不気味だ。


 そして、その人形は何本もの糸につながれた繰り人形だった。


 少年は糸がくくりつけられている十字の棒を操り、人形を動かし始めた。男の子はたまらず、好奇心に目を輝かせ少年に近づいていく。


「お兄はん、僕もそれ動かしてみたい」


「ダメなんだ。これを動かせるのは、僕だけ。僕にだけ本音が語れる。こうやってね」


 少年は目をつぶり、独特な節回しをつけて歌うように語り出した。


「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん。さあさあ、聞かせておくれ、ツグロウ。生きている間には言えなかったことを。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」


 意味をなさない言葉に合わせて糸が揺れて、人形が踊り出す。


 子供相手の大道芸だ。新京極や夜店の見世物小屋と大差ない。そう思うものの、小林は少年が操る、まるで自分の意志で動いているようなマリオネットという人形から目が離せない。


 よどみなく踊っていたマリオネットがピタリと動きをとめた。


「兄ちゃんは、ずるい。すぐ、はぶてる。嫌いじゃ」


 先ほどまでの少年の声が、あきらかに幼児の舌足らずな声に変わった。本当に、小さな子供がしゃべっているようだ。しかし子供の声真似をしているだけだと、少年の口元を注視したが動いていない。いったいどういう仕組みなのかいぶかりつつも、小林の心に懐かしさがひろがる。


 少年が話した言葉は、小林の故郷の言葉だったからだ。


 あの正体不明の少年は、同じ故郷の人間なのでは? 小林が少年に声をかけようと一歩足を踏み出したところで、馬の厩舎の向こう側にある植え込みの辺りから、女の甲高い悲鳴が聞こえてきた。


「女の人が倒れたはる! 誰か来ておくれやす。誰か!」


 人を呼ぶ声にかぶさるように、子供の泣き声も聞こえてきた。 


「まさか!」


 小林は疑念を一声発し、踏み出した足を植え込みの方角へ瞬時に変えた。


 息を切らして駆けつけ植え込みに入ると、白いパラソルが開いたまま転がっていた。ちょうど盛りを迎えた海棠の花が、辺り一面に落ちている。薄桃色に染まった地面に、女がうつ伏せに倒れていた。


 女が着ている大きな花柄の青地の銘仙に、包丁が突き刺さったままだ。小林にはなんの花の柄かわからないが、銘仙に織り込まれた白い花が徐々に真っ赤に染まっていく。


 もうこと切れているかと思えば、地面に投げ出された女の指先がピクリと動き、海棠の花びらを握った。


「おい、生きてるか? しっかりしろ!」


 背中の包丁に触れないよう女を抱き起こすと、赤い口紅が塗られた唇がかすかに震えた。聞き漏らすまいと耳を近づけると、血の匂いと甘い香水の匂いが鼻腔に侵入してくる。


 強烈な香りに反して女の口から洩れる息は途絶え、何を言葉にしたかったのか永遠にわからずじまいとなった。


 この世の果てのような弛緩した大気の中。狂ったように咲いている海棠の下で、女は死んだ。小林は腕の中の冷たくなった体を、そっと地面に下ろした。依頼人が殺されるという非常事態にもかかわらず、小林の薄い唇が皮肉な笑いに歪む。


 戦場と同じことをするとはな……。ここはシベリアじゃない。あの何もかも凍り付くシベリアではなく、平和な京都だというのに。


 小林の脳裏に浮かんだ吹雪が荒れ狂うシベリアの記憶を、上ずった声がかき消した。


「花海棠がきれいや思て、来てみたら。せ、背中に包丁が。もうびっくりしてしもて」


 死んだ女から少し離れたところで、母親が子供を抱えて震えていた。


「警察がくるまで、ここにいてください」


 小林は母親に声をかけ、人を呼びに行こうと植え込みから飛び出す。すると、この騒ぎを聞きつけた厩務員がこちらに向かって走ってきた。


「早く、警察へ連絡してくれ」


 そう声を張り上げた小林は、無意識に先ほど人形を操っていた奇妙な少年を目で探す。すると四月のまだ冷たさが残る風が吹き抜け、ざわざわと木々の葉ずれが辺りに響き渡る。


 少年の姿は風に連れさられたように、どこにもなかった。

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