二 探偵事務所

 三条通りと交わる富小路を少し上がったところにある、木骨煉瓦造りの白い外壁のモダンな三階建てのビル。木の螺旋階段をのぼった二階の事務所で、小林は雇い主である後藤を前にしてポリポリとこめかみをかいていた。


 眼前には後藤がデスクに肘をつき、背の高い小林を下から睨みつけている。


「おい、これ以上この件にはかかわるなよ。一銭にもなりやしねえんだからな」


 後藤は背が低くがっちりとした体格で、三十路をすぎている。だみ声で発されたこの件というのは、昨日起こった動物園での殺人事件のことであった。


「でも、俺の依頼人だったんですから。放っておくわけには」


 後藤は抵抗する小林にちらりと視線を走らせる。そして縞の背広の内ポケットから紙巻きタバコを取り出し、せわしなく火をつけた。


「あのな。犯人を捕まえるのは、警察の仕事だよ。俺ら探偵は情報提供するぐらいで、出しゃばると逆にしょっ引かれるぞ」


「でも……」と、口ごもる小林に後藤は紫煙を吹きかける。


「おまえ、ただでさえ警察に疑われてるの、わかってんのか?」


 厩務員の呼んだ警察が来ると、すぐさま小林はその場で事情を訊かれた。正直に、殺された女は依頼人だと言うと、依頼内容を根掘り葉掘りと訊かれた。


 依頼人とは動物園で待ち合わせただけで、まだ依頼は聞いていない。と言っても、報酬をめぐって折り合いがつかなくなって、殺したんじゃないかと勘繰られた。


「俺がずっと馬のところにいたって言っても、聞いてくれなくて」


 昨日、小林の前を通った親子連れは、騒動の後とっくに帰ったようで見つけられなかった。


「変な人形を操ってた、少年が見つかれば」


 あのチンドン屋のような恰好をした少年の、目撃証言に頼りたい小林だった。


「その坊主が一番怪しいと思うけどな。わざわざ芸人が、入園料はらって動物園で芸見せてたって。意味わかんねえぞ」


「たしかに、そうですよね。でも、お金のためにやってるようには見えなかったし」


 芸人ならば、金を入れる缶なり箱を地面におくものだが、そんなものはあの時なかった。それに、少年の着ていた服は変わってはいたが、着古した感じがせず新しく清潔だった。


「まあ、胡散臭い坊主のことはおいといて、殺された女の身元はわかったのか?」


 後藤は紙巻き煙草を、既に吸い殻でいっぱいになっている灰皿にねじ込んだ。


「はい。所持品からわかりました。寺島てらじまみつ、二十一歳。新京極のカフェー敷島の女給です」


 小林は手帳を取り出して、読み上げる。


「カフェー敷島? すぐそこじゃねえか」


 依頼の手紙を警察に提出するかわりに、女の身元がわかったら教えるように交渉したのだ。今日午前中に、岡崎警察署に行き担当の刑事から聞き出した。


「そうなんですよ。寺島みつの勤め先とこの事務所は近い。それなのにわざわざ手紙を郵便で送ってきた。妙ですよね」


 通常、依頼人は探偵事務所に出向いて相談するもの。わざわざ手紙で相談する依頼者は、遠方のものに限られる。


「ほお……。で、現場の状況は見てきたのか?」


 後藤は無精ひげの生えた顎をさすりながら、覇気のない声を出す。


「そこはぬかりないです。まず、現場の植え込みは動物園の入り口に近い。ということは、俺が到着した後に、みつは入り口から園の奥へ向かっていた。ちょうど植え込みの前で犯人に後ろから口を塞がれ、羽交い絞めにされた。そして無理やり連れ込まれて背中から刺されたと思われます」


「そう考える根拠は?」


 後藤の声に、ほんのわずかな力が加わる。


「植え込みの前の地面に引きずったような跡があり、みつの唇に塗られていた赤い口紅が、手でこすったように口の周りについていました」


「よっ、色男。女の口紅に注目するなんて、さすがだな」


 後藤に茶々を入れられ、小林は冷静に言い返す。


「俺は別に、女遊びしてるわけじゃなくて、なんでか女の方から寄ってくるんですよ」


 後藤はにやにやした顔をくずさず、小林に質問を浴びせる。


「目撃者は、どうなってる?」


 先ほど小林に関わるなと言いつつも、後藤は段々と興味がわいてきたようだ。


「平日です。来園者は数人。入り口にもぎりはいましたが、客が少なく席を外していることが多かったそうです」


「いいかげんだな」


 そうぼやく後藤に、小林は内心であなたに言われたくないとツッコミを入れていた。


「この殺しは通り魔のような突発的なものなのか、それとも依頼内容と関係がある計画的なものなのか……」


 ここまで言って小林は、長い首を申し訳なさそうにうなだれた。


「俺がもうちょっと気を利かせて植え込みのあたりまで探していたら、こんなことにはならなかったかもしれません」


 小林の目と鼻の先で、依頼人が殺されたのだ。後悔をしても、しすぎることはない。


「おまえは、気にするなって言っても気にするよな。まったく」


 突き放した物言いに反して、後藤の細い目の奥になけなしの優しさがほんの少し滲む。


「命は助けられなかったけど、どんな依頼だったかわかれば、少しは浮かばれるんじゃないかと。そこから、犯人にたどり着けるかもしれないし」


 小林を捜査に向かわせる動機は、探偵としての矜持なのか同情なのか、後藤はわかりかねぬというようにふんっと鼻をならした。


「小林上等兵は優しくていらっしゃる。まあ、ほどほどにしとけよ。おまえどっか、詰めが甘いところがあるからよ」


「ありがとうございます。軍曹!」


 小林はパッと表情を明るくして、後藤に向かって敬礼した。


 ふたりは、シベリア出兵で上官と部下の関係だった。ロシア革命への列強の干渉戦争に日本も参加した結果、戦費十億円を費やし、のべ七万二千人をシベリアへ派兵した。


 去年シベリアから撤兵し、除隊したふたりは仕事もなくこの京都で心機一転、探偵事務所を開業したのだった。


「まずは、勤め先のカフェーに行ってきます」


 そう言うが早いか、小林は木製のドアを乱暴にあけ飛び出して行った。


「あいつは自分が探偵になった動機を、忘れてるんじゃないだろうな」


 そうこぼした後藤の愚痴は、当然小林の耳には届いていなかった。

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