六 北野の下宿
翌朝、小林は鼻に大きなガーゼを張り付けて事務所に出勤した。
「こりゃえらく、男前になっちまって。おまえ、それじゃあ地味になるどころか、もっと目立つぞ」
後藤に散々からかわれた後に、昨日起こった事態を報告した。
「なるほど、おまえがこそこそ嗅ぎまわってるって、さっそく犯人にバレてるみたいだな」
現在小林が抱えている案件で、危険なものはみつの依頼だけだ。そうであるなら、もうちょっと慎重に行動するべきだった。小林は動物園でもカフェーでも、探偵であることを隠さず聞き込みをしていた。
小林は不甲斐なさに、蹴られた鼻の痛みが増していく。
「申し訳ありません。俺、探偵失格です」
そう言い頭を下げた小林を、後藤は慰めも罵倒もしない。ただ淡々と捜査の進捗を訊いた。
「で、警察の方はどうなんだ?」
「はい、まだ俺を疑ってるようです。それとなく新しくわかったことはないかと訊いてみたんですが、容疑者には言えないって追っ払われました」
なじみの刑事に日参しているが、今回ばかりは口が堅い。しかし、警察は秋吉にたどり着いていないと小林は踏んでいる。たぶん警察は、みつが男に貢がせていたことさえ気づいていないだろう。
カフェーの女給たちは、ことさら客の情報を教えることを嫌がっていた。小林が行った時はたまたまおしゃべりな川越から情報を得られたが、マスターを呼び出して警察署で事情を訊いただけでは、何もわかるまい。
マスターは外部で自分の店の女給の悪い噂など、立ってほしくないのだから。まして客が疑われるようなことは何もしゃべらないだろう。店の信用問題にもかかわってくる。
京都の人間はとかく口が堅い。客商売をするものは特にだ。これが地縁縁故の凝り固まった千年の都の実情なのだろう。
ただしよそ者に関しては、噂や悪口が大好きな
警察の知らない情報を得た小林の方が、犯人に近づいている。まあそのおかげで、昨日襲撃されたのだが。
午後になり小林は外出した。市電で烏丸通りを北上し今出川通りまで出ると、今度は今出川通りを西に向かった。西陣の呉服屋へ昨日作成した調査報告を持って行くためだ。
無事調査書類を恰幅のよい呉服屋店主に渡すと、また市電に乗り千本今出川で降りた。そこから西に歩いて行くと、有名な北野天満宮の近辺にたどり着く。
秋吉の下宿はこの辺りにあった。大きな二階建ての白い壁面にはアーチ窓が等間隔に並び、切妻屋根の上で風見鶏が回っている。なんとも、瀟洒な建物だ。
小林の下宿は、米屋の二階の四畳半。それに比べればなんとも贅沢な下宿だ。学生の身分でこういうところに下宿できるとは、秋吉は地方の裕福な子息なのだろう。
下宿の共同玄関から入るとげた箱があり、そこに下宿人の名前も記されていた。秋吉の部屋は二階にあった。勝手に靴を脱ぎ、木製の手すりがついた階段をのぼっていると、階下から声をかけられた。
「ほら、あなたとは必ず会うような気がしたんですよ」
声のした階段下を見ると、そこには昨日カフェーで会った中原中也が昨日と同じ学生服姿で立っていた。
「君、秋吉と同じ下宿だったのか。俺が秋吉を訊ねると予測してただろ」
縁を感じる運命的な再会ではなく、小林の行動を読んだだけの昨日の殺し文句だったというわけだ。
「違いますよ。僕の霊的な部分が作用した結果です」
綺麗な顔に笑みを張り付けて言う台詞は、どこまで本気なのか計り知れない。
「コーヒー代は後で払うから、先に秋吉の部屋に行かせてくれ」
小林はそう言って、再び階段を上がろうとする。
「秋吉さんは、いませんよ。みつさんが殺された日の前日からずっと下宿に帰っていない」
中也が言ったことは本当なのか。小林は二階にあがり秋吉の部屋、六号室の前に立つ。部屋のドアにはひし形の曇りガラスがはめ込まれ、そこに大きく『六』と書かれていた。
耳を澄ませても室内から物音はしない。コンコンとノックをすると、当然のように返事はなかった。女給のみつに貢いでいた秋吉が、この下宿にずっと帰っていない。
これはもう、秋吉が犯人で決まりだな。
小林が内心で結論づけると、中也がその心を読んだように反論した。
「秋吉さんは、犯人じゃないですよ」
タイミングよく話しかけられ、小林はこの不思議な少年は千里眼でもあるのかといぶかる。
「犯人じゃないって、何か証拠でもあるのか? たとえば、アリバイとか」
「アリバイ? 探偵小説に出てきた言葉を実際に聞くとは!」
中也は大きな目をさらに大きくして、愉悦を顔いっぱいに広げる。
この子もこうしてみれば、普通に子供だな。まあ中学生だから、年齢は十五か十六ってところか。俺より七つも八つも年下なら、かわいい弟という感じだ。
小林が中也に対して身勝手な兄貴面を発揮していると、中也の顔はすっと真顔に戻る。
「でも、アリバイがあったとしてもそれが何です? いくら証明してみても、僕らが知らない事実が隠されていたら、確証はあっという間に不確実なものに反転する」
中也は秋吉は犯人ではないとかばう発言をしたくせに、いったい何がいいたいのか。
「いやいや、アリバイは大事だぞ。もし秋吉が水曜日の一時前後に動物園以外のところにいたことが証明できたら、どう考えたって犯人じゃない」
小林が探偵として意見しても、中也は考えを改めない。
「じゃあ、目撃された人物が秋吉さんそっくりな人物だったら? 双子とか。変装とか。勘違いとか。革新的な進歩を遂げている現代で、僕らが知らない科学技術は五万とある」
先ほどまでかわいい中学生と思っていた中也に、小林は反論できず少々不貞腐れる。
「じゃあどうして、秋吉が犯人じゃないと君にわかる?」
「秋吉さんは、人を殺せるような人ではありません」
「たったそれだけ?」
中也の述べた根拠があまりにも主観的すぎて、小林は肩透かしをくらう。
「そうですけど。僕の詩人の勘がそう言っています」
「詩人? 詩人って詩を詠む人だろ」
「そうですよ。僕は、詩人なんです」
中也は低い背丈を、少しでも大きく見せるように背伸びをして自信満々に答えた。小林はそんな自意識過剰な中学生にあきれ返る。
「詩はたしかに人の感情の本質がわかってないと、書けないけど――」
『でも君、学生だろ。何を言ってるんだ』と小林は続きを言いたかったのだが、中也に邪魔される。
「あれ? あなた、顔がいいだけの朴念仁かと思っていましたが、わかってますね。詩がなんたるかを」
この生意気な少年はいちいち他人がカチンとくることを、わざわざ口にする。意地が悪いというよりも、子供特有の残酷な純粋さだろうか。
ここで怒ると大人げない。相手は中学生だ。
「ハイネくらい読んだことあるさ。俺はもともと文学を勉強したかったんだ」
中也の話に合わせたつもりだったが、小林の目論見は逆の結果を生み出す。
「ハイネなんてつまらないもの読んでるんですか。たしかにハイネには音楽性がありますが、抒情的すぎて面白みにかける。もっと自由な新しい言葉で感情を表現できる詩の創作を――」
「待て待て待て! 俺は君と詩について論じに来たんじゃないんだ」
放っておいたら、永遠にしゃべり続けそうな中也をなんとかとめる。
「ああ、そうでした。あなたは、秋吉さんを探しに来たんでしたね。つい夢中になってしまいました。申し訳ありません」
ちっともすまないと思っていそうにない顔で、中也は謝った。
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